MUSIC

Steely & Clevie『Memories』

 
   

Interview by Shizuo"EC"Ishii /石井志津男(訳:Ichiro Suganuma)

2011年9月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

Steely & ClevieのWycliffe "Steely" Johnsonが昨年の9月1日、NYの病院で永眠。レゲエ界に残したその功績は計り知れない。今年になり『Digital Revolution』、そして今回の『Memories』と立て続けにSteely & Clevie名義のアルバムがVPからリリースされた。20年以上に及ぶ親交をもってきた石井がSkypeで亡きSteelyのこと、アルバム『Memories』のことなどを聞いた。

●Steely & Clevieの日本ツアーは1991年だったよね?

Clevie Browne (以下、C):そう、1991年だ。だけど僕が最初に日本に行ったのは1985年だ。Reggae Sunsplashでね。すばらしいSunsplashだった。Pablo Black、 Earl Walker、Larry WhiteらとのStudio One Bandだ。Steely & Clevieジャパン・ツアーはReggie StepperとCevelle Franklinといっしょだった。日本に行って日本人がレゲエやSteely & Clevieをこんなに愛してくれてることを知ったのはとても驚きだった。 他の国々も回っていたけど、初めて日本に行ってすぐ日本人と絆を結べた。自分の"ホーム"のように感じたよ。(笑) 

●Mixing Labの夜のバックヤードに呼び出して、、、俺が「日本ツアーに来てくれ!」ってすごく説得したの覚えてるかい?Steelyが「嫌だっ!、絶対に日本には行かない!」って言い続けて。

C:ああ(笑)、Steelyは、飛行機に乗るとたまにパニックに陥ることがあって(笑)、旅するのがあまり好きじゃなくてね。たしかに彼は嫌がってはいたけど、でも行くしかなかったのさ。もちろんそれもビジネスの一部だからね。何度もこの遠い国の事、日本の事を耳にしていたからね。彼はヨーロッパに行ったことがあって、ヨーロッパが遠かったのに日本はさらに遠いって聞いて、Steely は怖かったんだよ(笑) 。でも、日本に一度行ってからは、日本が大好きだったね。

●日本ツアーにきて、なにか影響されたことはありましたか?

C:僕たちのアルバム『Play Studio One Vintage』の中に「HITOMI」っていうインストゥルメンタルの曲があるんだ。メロディーが "日本的" なんだ。それは日本に行って影響をうけてね。お互いの知り合いで「HITOMI」って言う友達がいて、それでSteely がインストゥルメンタルを作ろうっていって出来たんだ。

● それでは、初めてSteelyと出会ったのはいつ?、どうやってお互いに音楽をやっていったのですか?二人が出会った時にSteelyが11歳で、あなたは14歳の時だったって本当ですか?

C:そうさ。Steelyは11歳で、私が14歳だった(笑)。Steelyと出会ったのは1973年だった。僕の兄Daltonがギタリストとして彼を連れてきたんだ。彼はThe Twelve Tribes of Israelというラスタファリアンのグループのメンバーだったんだ。彼の母親はその組織のエグゼクティヴだった。彼はもっと音楽の世界と繋がりを持ちたがっていた。それでよく僕の家に来るようになったんだ。兄のDaltonがギターを弾いて、Steelyがキーボード、僕がその頃習っていたドラムを叩いたりしてね。そうやって出会ったんだ。彼とは音楽の趣向が合って、僕の好きな音楽を彼も好きで、当時のStudio OneとかTreasure Isleの曲だよね。Bob Marleyを聴いたりしていたよ。次第に、一緒にトラックを制作するようになったんだ。古いPhillpsのオープンリールのレコーダーを使用してね。そのレコーダーは伯父がアメリカに移住するときに残していったものだった。レコーディングをしたトラックを聴いては"いい感じだ"なんていってたよ。その頃の僕は、まだ生のドラムを叩いてたし、彼はキーボードを弾いていて、まだデジタル時代が来る前だった。
自宅には自分達の音楽を演奏できるように僕の父親が作った部屋があったんだ。当時はそういったことは珍しかったと思う。すごく恵まれていたんだ。父が建築をやってた関係で最初から建ててくれたんだ。父は僕らの音楽への興味に気づいていたけど、住んでる家からはこの音楽の騒音を追い出すために、母屋から離れたところに部屋を作ったんだ。父はCoxsone (Dodd)にも建築してたんだよ。だから彼を通じて時にはStudio Oneの一番新しいレコーディングを聴くことも出来たんだ。そんなわけで多くのエンターティナー達、例えばBob AndyやKeith & Tex、Derrick Harriotttらが家に集まってきてた。僕の家族は音楽に対してオープンマインドだったから音楽に興味がある人が集まってきたんだ。みんないい人達だった。自分達の回りにそういう人達がいて欲しかったしね。

●そのころが最初のレコーディングですか?

いや、僕個人にとっての最初のレコーディングはさらに以前で、Steely & Clevieの前なんだ。私はシンガーとして、兄弟と一緒にThe Brownie Bunchというグループをやっていてね。1972年に最初のレコーディングをしたんだ。Mikey Chungがプロデューサーだった。いい感じだったはずさ。ドラムを始めたのはその後だ。スタジオでレコーディングしていて、ミュージシャンが演奏するのを見て憧れて、それでドラムが気にいったんだ。プロダクション(制作)っていうコンセプトにも興味があって、Jeffery ChungやMikey Chungがプロデュースしてるのをみて、すごく刺激されたよ。彼らが話す音楽ビジネス、著作権とかそういったことについても全く知らなかったから、更に興味を引き立てられたんだ。

●それではSteely & Clevieとしては何が最初のレコーディングだったのですか?

C:Earl 16の「Man Making Plan」。彼が僕らのトラックでレコーディングした最初のアーティストだ。「Man Making Plan」が最初のレコーディングで、人類が爆弾とか国とか文明を破壊するものを作ったりしているっていう、メッセージソングなんだ。その時代に起こっていたことを風刺していた。戦争の影響とかそういったことについては、若すぎて自分たちはまだ無知だったけど、それは人類が行なっている悪いことに目を向けさせてくれたんだ。Earl 16は今はイングランドに住んでて、新しいアルバムを出したばっかりだよ。

●ではHugh Mundell とのレコーディングについては?

C:Earl 16が我が家に遊びに来ていてRockers InternationalのAugustus Pabloもセッションに参加してたんだ。そうやって彼のレコーディングに誘われるようになって。だから『Africa Must be Free by1983』のアルバムにも参加しているんだ。(彼と制作した)トラックの名前すべては思い出せないけどね。若い頃のYami Boloもチームの一人だった。Yami Bolo, White Mice, それにHugh Mundellだね。そのほかにDUBアルバムのためのインストゥルメンタルのトラックを作ったりしていた。
その後、Steelyはフーキム兄弟のChannel Oneでレコーディングなどしていた。去年亡くなったGregory Issacsとセッションしていて見出され、彼のバックバンドだったRoots Radicsに参加するようになって、当時お互い離れて活動していたりしたんだ。
僕はと言えばThe in CrowdっていうNYのバンドに参加していたりしてね。The in Crowdは「Milk & Honey」のオリジナルヴァージョンを演奏したし、「We Play Reggae」とか当時イングランドでヒットしていた楽曲、それに「Back A Yard」とかね。Youtubeで検索できるよ。1978年にThe in CrowdはIsland Recordsと契約したんだ。
そうして、お互い別々の違うバンドのメンバーとして成功していったんだ。でも、結局は自分達が好きな音楽が引き寄せてくれたのか、再びチームを組むことになったんだ。テクノロジーが音楽に導入されはじめた時、レゲエをやる人は、ほとんどそれを受け入れず、信じなくて使わなかった。でも僕らは全力でそれをやったんだ。ドラムマシーンを購入してね。Third Worldの当時のドラマー、Willie Stewartが海外のツアー途中で買った新しい機材持ち込んでた。最初のプロフェッショナルなドラムマシーンは彼から手に入れたんだ。Oberheim DXだ。彼はDMXにアップグレードしたから僕に古いDXを売ってくれたんだ。彼はそうやって新しい機材を購入していたんだ。そのドラムマシーンが当時のヒット曲のメインサウンドになった。80年代のサウンドだ。Jammy's、 Redman International、Pick outs、Winston Riley(Techniques)、"Gussie" Clarke(Music Works)、Donovan Germain(Pent House)のようなプロデューサー達と本当に数多くのヒット曲がそれによって生み出されたんだ。Junior Reid の「One Blood」もそうさ。

それ以前は、他の機材を使って試していた。最初のドラムマシーンは、Roland  TR-606だ。今でも持っているよ。自分がそれを使い、Steelyがベースを弾いて、小さなキーボードを使ってトラックを作ってたんだ。Black Starのサウンドシステムで自分達が制作したダブプレートを聴いた時に、これこそがこれからのマーケットに出て、認められていく未来のレゲエの音じゃないかって思ったね。我々は当時スレンテンでヒットを出したばかりのJammyを訪ねて行った。彼だと思ったんだ。オープンマインドで新しいことをトライするような人だと思っていたからね。Steelyが少しギャラを借してたって言うのもあって(笑) 、そういうきっかけもあって会いにいったんだよ。何よりも、我々には自分達と同じ視点を持つプロデューサーが必要だったんだ。Jammyはオープンマインドだった。デモを聴かせたら「今度の日曜日に来いよ」って感じで、僕らにトライさせてくれたんだ。その時の彼はあくまでクールだったけど、後から本人に聞いたらそのデモを聴いたときは、エキサイトしたって言ってくれた。
そうやって、King Jammy(当時はまだPrince)とレコーディングするようになった。それ以降はヒットに次ぐヒットといった感じで、ヒット曲を連発したんだ。
(Pt.2に続く)