MUSIC

Steely & Clevie『Memories』(2)

 
   

Interview by Shizuo"EC"Ishii /石井志津男 (訳:Ichiro Suganuma)

2011年9月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

レゲエは多様化して「ダンスホール」と「レゲエ」という風に分けて認知されている。それは彼らがコンピュータを駆使して次々とトラックをクリエイトし、革命を起こしてきた歴史でもある。前回に続き更にマニアックな話題に突入!

●Steely & ClevieがJammy'sで最初に制作したトラックは?

Clevie Browne (以下、C):Nitty Grittyの「Street Reggae Music」 はその中の1つだ。あの楽曲はブリティッシュのチャート入りしたはずだ。それだけで、その音が世界に通用するかもしれないっていう事を証明をしてくれた。まだ我々がやる事に批判的な人もいたし、無理だって思われていただろうからね。メジャーのバックアップなどなしでブリティッシュのチャートに入ったのは、これが通用するかもしれない、これがレゲエの新しい音だっていうのを当時証明したんだ。「Clarks Booty」も最初のころの1つだ。我々はそうやってやっていったわけさ。ある時期、楽曲のテンポをアップしたことがあった。1年間ぐらいね。そうだ、1987ごろだったかな。87bpmの速さのリディムを作って、翌年には88bpm の速さのリディムを作ったりね。楽しんでやっていたよ。すべての楽曲がうまくいった。Frankie Paulの「Sarah」は、87bpmで1987年という具合にね。(笑) その後も、ヒットの次にヒットといった感じだった。
Cat Pawリディムもその頃だ。「Jump Up, Jump Up」、そして「Wear Your Size」だろ。ヒットの連発だ。後は歴史が語ってるさ。そうなって他のプロデューサー達からも声がかかるようになった。その音の流れはもう間違いないっていうのが分かっていたからね。だからやめるか、その流れを追うしかなかったのさ。Winston Riley、Redman、"Gussie" Clarke、Donovan Germainらもだね。他のプロデューサーらとも1、2曲レコーディングしたりして、それだってヒットしたよ。RJRやJBCといったジャマイカのメジャーなラジオ局が毎年年末に年間トップ100のチャートを紹介するんだけど、両方の局で、100曲中75曲が我々がやった楽曲だった。そんなこともあり、遂に我々自身でレーベルを立ち上げようっていう話になって"Steely & Clevie"というレーベルが1988年に始まったんだ。

●レーベルの最初の曲は?

C:それはLeroy GibbonsとDillingerの「Bruck Camera」だった。

●俺もその後の発展は見ていてすばらしかったね。IRIE FMで「Steely & Clevie」の番組もやってたしね。そのあとStudio 2000を作ったのはMixing Labが忙しくなって時間をブックできなくなってきたのもあるのかな?だって俺のマルチテープにTigerの「When」がレコーディングされてたことさえあったからね。俺との仕事のあとにテープを架け替えるのも忘れてね。俺が朝の10時からトラックを作ろうとSlyとエンジニアのFattaをMixing Labに呼んで行くと、俺の前に作業をやってるやつがいて、俺達が待たされるなんてこともあったからなぁ。かと思うとSly & Robbyが、俺がブックしてあるスタジオ時間を譲ってくれなんて言ってきたり。それはMusic WorksだったけどSimply RedのMick Hucknallとレコーディングするからとか、、、。

C:そう、僕たちの夢はふくらんで次には自分たちのスタジオを作ろうという話になった。それまではMixing Labスタジオをブッキングしてやっていたけど、スタジオにいるのが好きな我々にとっては便利ではなかった。当時はMixing Labがとても良いクオリティのスタジオだったからSly & Robbyも使っているし、マキシ・プリーストとか外国からのアーティストも使うし、我々にはもっとスタジオの時間が必要だった。我々の後の時間がブッキングされていたりすると、作業を中断しなければならなかったからね。そういう理由もあって、当時のミックスはそれぞれ違う音で仕上がってるんだ。同じリディムで10曲レコーディングしてあっても、それぞれが違うミックスだから少しずつ違うんだよね。当時はProtoolsみたいに設定をリコールできなかったから、最初からミックスをやり直さなければいけなかったんだ。同じミックスを作ろうとしても、やはり少しだけ違う仕上がりになるんだ。他のミックスに比べて明るかったり、バランスが違っていたりね。自分たちのスタジオじゃなかったから、ミキシングボードにマーキングができなかったんだ。

●Studio 2000は小さいけれどベスト・クオリティのスタジオだった。何度も使わせてもらったし、上の階には当時の君たちのマネージャーでもあったLLoyd Stanbry弁護士事務所もあったし、IRIE FMのキングストン・オフィスもあった。

C:我々のスタジオだった。我々はテクノロジーを取り入れたんだ。Pro Toolsもね。我々は振り返らなかった。でも、オールドスクールな曲も大好きなんだよ。我々はダンスホールのパイオニアではあるけども、もちろんレゲエは大好きだ。今になってもレゲエをプロデュースするしね。

●今年のはじめにSteely & Clevie名義でリリースされた『Digital Revolution』 と新作『Memories』の違いは?

C:『Digital Revolution』はすでにリリースされている楽曲をコンパイルした作品だ。我々が年々プロデュースしてきた楽曲からセレクトして年代順に並べてあるんだ。新作『Memories』の方は、新しいレコーディングでまだリリースされていない楽曲集なんだ。Steelyと手がけた最後のプロジェクトで、僕にとってもとても意味があるんだ。これがSteelyが亡くなるまで一緒にやっていたプロジェクトだ。それを完成させたんだ。ジャマイカの古いレコーディング、70年代のヒット曲のコンピレーションだ。今のすばらしいシンガー、Mr. VegasやRichie Stephensだけでなく、当時歌っていたオリジナル・アーティストにもそれぞれ歌ってもらったんだ。John Holt、 Leroy Sibbles、Ken Boothe、Cornell Campbell、Errol Dunkleyなどその当時のアーティストだね。我々はそれらのアーティスト達のヒット楽曲、70年代のUKやインターナショナル・チャートでのヒット曲をレコーディングし直したんだ。我々がやりたかったのは、それらを新しく、つまり要はデジタルとアナログのミックスだ。サウンドは当時のものよりもビッグサウンドになっていてSteely & Clevieの味も加えられているんだ。我々が意図していたのは、オリジナルの正統なレゲエを受け継いでいくことだ。過去のヒット曲を伝えていく事で、歴史を生かしていきたいんだ。レゲエから離れ過ぎていかないようにね。最近の多くのプロデューサー達は、よりHipHopに近いと思うんだ。僕らはレゲエが違うものに進化していくことは好まないのさ。なぜならオリジナルじゃないからね。進化することには大賛成だ。新しいクリエーション"創造物"がジャマイカの音楽のジャンルに加わるのももちろん賛成だ。でもレゲエはオリジナルのルーツをキープしなければいけないと思うんだ。だからこのプロジェクトの意味は、古き良きものを新しい世代へ伝える事なんだ。このアルバムはSteely & Clevieにとって、今までの最高の作品の1つだ。

●では自分たちが制作したRiddimトラックの中で3つ選ぶとしたら?または3曲を選んだら?

C:えっ、たったの3つ? う~ん、僕は全てのトラックが好きなんだよ(笑) 。あえて選ぶなら「Punanny」、それにJammy'sのために作った「Cat Pow」だろ。いっぱい好きなのがあり過ぎて3つに絞るのは難しいな。「Street Sweeper」かな。その頃のリディムトラックのテンポは100bpmを超えているのが主流だったが、自分たちは「Street Sweeper」をわざと83bpmで作ったんだ。あれこそ我々のルーツに戻ろうっていうメッセージでもあるんだ。ダンスホールのテンポが速くなってソカのテンポに近くなってきていたんだ。ダンスホールのパイオニアとして、またSteely & Clevieとして何かしなければと考えて、音楽で意思表示をしようと「Street Sweeper」を作ったんだ。3つだけと言われればこれらのトラックかな。でもこの他にも沢山選びたいのがあるんだぜ(笑)。
あと、、、僕らの楽曲の中で選ぶとしたら、Riddimトラックとしても曲としても、1つはDawn Pennの 「No, No, No」かな。3つを選ぶのは難しいよ。沢山あるからね。この曲は小さいころ自分の兄弟達とサウンドシステムでよく聴いていた曲だ。好きで何度も何度も聴いていた。Steelyといつかそのトラックを作りたいと思っていて、ある時Mixing Lab で仕事をしていたら運命的にDawn Pennもそこに来て出会ったんだ。会いたかったDawn  Pennだよ。それですぐスタジオに入って、トラックを作ったんだ。後は歴史が語ってくれてるよね(笑)。