Text & Photo by Shizuo Ishii
2016年3月にRiddimOnlineに掲載されたインタビューです。
マイク・バレリーに久しぶりに会った。若いスケーターから「ジイさん、インスタにアップされてるよ!」と言われてビックリ。バレリーのInstagramに「2002年のジャパン・ツアーでこのジェントルマン(俺のこと?)に会って、こいつが56過ぎてスケート始めて、、」なんてことが写真付きで書いてあるのを発見。
スケーター志望(ほぼ死亡?)の老人と化して以来、バレリーのプッシュに憧れて今でも性懲りもなくプッシュだけはしている。そんなことで、彼のトークショーがあるというので原宿でまで出かけて早速インタヴューを申し込んだら、近くに泊まっているからとOVERHEATまで来てくれた。
●ニュージャージー州出身でしたよね? Bigfootとはどのように知り合ったのですか?
Mike Vallely(以下、M):Bigfootとは初めて会った時から何か感じるモノがあったんだ。彼と会話をして生い立ちや感性なんかを知っていくうちに、きっと僕を理解してくれるだろうと思えたし、僕がどうやって生きてきたかとか、何に価値観を求めているのかをきちんとコミュニケーション出来る男だと思ったんだ。僕の始めたStreet PlantでBigfootが初めてやってくれたロゴは、今では代表的なもので、これはずっとStreet Plantの一角を担っている。ビューティフルだよ。僕はBigfootという人間が好きだし、彼のアートも好きだ。だから彼に仕事を作ってあげることが出来て、少しハングアウトもして、とてもクールだよ。そう言えばBigfootもニュージャージー出身だ。
●2人は昔からの知り合いなのですか?
M:いや、そんなに長くはないよ。2012年だったかな。Jason Adams(スケーター)が紹介してくれたんだ。それで僕の娘がStreet Plantのロゴが必要だって事になって、これは絶対Bigfootに頼むしかないなってね。だからBigfootがいなかったら今のStreet Plantがどういう風になっていたのか想像出来ないね。彼なしでは今の状態にはなっていなかった。
●実はちょうど先日ですが、80年代にリリースされたビデオ「Public Domain」をまた観たんですが、あなたのシーンだけシントンDCで滑っていますよね?当時のイーストコーストのスケートシーンを簡単に説明してくれますか?
M:イーストコーストのスケーターはクリエイティブでアグレシッブでハングリーだったと思う。当時の僕の考えは、ベスト中のベストなスケーターたちとスケートをしなくてはいけないと思って、カリフォルニアに行ったんだ。だけど、イーストコーストに戻って「ヤバいスケーターとスケートしてきた」って話しながらカリフォルニアで学んできた新しいトリックを披露すると、イーストコーストのスケーターはその情報をしっかりとキャッチして、彼らなりのやり方でもっと凄いことをやっていた。何て言ったらいいのかな、イーストコースト・スケーティングの美学っていうのかな、凄く飢えてるっていうことかな。イーストコーストにはウエストコーストと違ってメディアがないから(ThrasherもSkateboardingもウエストコースト)誰からも注目されないし、目標も定めづらい。どこか“カリフォルニア”には憧れがあって、、、だからこそちょっと尖っているっていうかアティチュードがあったのかもね。Sean Sheffeyのオーリーを見れば分かると思うけど、カリフォルニアのスケーターよりもどこか意地悪なオーリーじゃないか?(笑)。 Sean Sheffeyがテールをバチッと叩いただけでそれ以上の事が分かるっていうかね。僕とSeanは情報を共有していたからひょっとするとあのイーストコーストの力強いスタイルのパイオニアかもしれないね。「Public Domain」の僕のパートは初めてリアルなスタイルが世に出たスケート映像だったと思う。でもそれは僕以外の誰かになる可能性もあった。だから僕があのビデオで自分のスタイルを世界に示すことが出来たのはとてもラッキーなことだった。僕はいつだって友達やローカルを誇りにしてきた。僕は「Powell Peraltaのビデオに出たから重要な男なんだ」という考えにはならなかった。その「Public Domain」の僕のパートを見てくれれば分かるけど、実は僕のパートにはちょっとだけ友達(Rodney Smith)が出ているんだ。それは今でなら普通のことだけど、当時は僕が初めて個人パートに友達の滑りを入れたと思う。僕がBones Brigadeのビデオに出るときがあったら、僕だけじゃなくて、仲間全員をパートに入れたいぐらいだったんだ。だけどRodney(Smith)のスケーティングが光っていたし、Stacy Peraltaが理解してくれたから僕のパートにはRodneyが入っている。今までにたくさんのビデに出ているけれど、あのビデオが今でも一番反響が大きいよ。未だに、こうして会話に出てくるしね。
●Powell Peraltaに誘ったのはランス・マウンテンだったと聞きましたがそれは本当ですか?
M:うん、本当だよ。ランスが僕を見出してくれてStacy Peraltaに紹介してくれた。だから2人からチームに誘われたって感じかな。それが1986年の6月、16歳の時にバージニア・ビーチで行われていたプロ・コンテストを初めて見に行って、そこでスケートをしていたら声をかけられたんだ。クレイジーだよ(笑)。
●スケートボードはスポーツだと考える人も入れば、アートフォームだと考えている人もいます。どう考えていますか?
M:それには正解も不正解もないと思う。みんな自分が追求していることを達成しようとしているだけだしね。だからみんな価値観は違うということだ。でも僕個人はアートフォームだと思うよ。とてもクリエイティブで自己表現が出来るものだと思う。何人かのプロは自分を売り出し、キャラクターもオリジナリティーも削ぎ落とし、よりスタンダードな状態で臨んでいる人もいると思うけどそれだって別に間違いではないよね。単純に僕と価値観が違うだけだ。僕はストリート・スケーティングに価値を見出している。
●なぜ自分のブランド、Street Plantを始めたんですか? そして名前のStreet Plantはどうやってつけたんでしょうか?
M: スケート業界がめまぐるしく変わりすぎて僕の居場所が見つけにくくなったことだ。正直言って数年前の僕は、NikeやRed Bullから声をかけてもらいたいって祈ってた。僕は何をして良いか分からなくて怖かったんだ。17歳の時からずっと今日までプロスケーターとしてやってきて、それが終わりに近づいてきたと感じた時に未来が見えなくなってしまい、あと数年でいいから大企業がスポンサードしてくれてもう少しだけ勝負させてくれないかなと思ったんだ。だがもうお呼びはかからないんだってことに気がついた。自分自身について真剣に考えなくてはならないと思い始めた。そこからStreet Plantが始まったんだ。自分自身の価値観に正直な物を作ろうとね。さらに僕の背中を推したのは僕の娘だね。とても子供に恵まれているよ。だからStreet Plantというブランド名も娘が選んだんだ。スケートボードの最も凄い所は、何もない状態から何かを生みだす事だと信じている。だから都会の喧噪から離れた郊外に住んでいた小さい頃の僕は、なぜかデッドスペースに住んでいると思っていた。そこには生命はいないんだ。70年代の冷たい感じっていうのかな。スケートを始めた84年の僕は、死んだ環境に住んでいると感じていた。だけどスケートはすごくビューティフルだった。だってストリート・スケーティングは生命がない階段やベンチ、壁、パーキング・ブロックに僕らは魂を注ぎ込み息を吹き込むんだ。人々は器物破損だとか言うけど違うんだよ、ビューティフルなんだ。割れたアスファルトの隙間から芽が出る様な、生命や魂が宿った様な感じなんだ。だからそういうコンセプトがこのブランドにはある。そしてハンドプラント(地面に手を着き逆立ちになるトリック)は僕がスケートを始めた時、一番最初にハマッたトリックだし、ウォールライド(スケートで壁を走ること)を除けば初めてプールをスケートした時の様に僕の世界を変えたものだ。スケートのハンドプラントはとてもユニークでマイナーで、コアな競技なのかもしれないけど、逆立ちするなんて体操以外には見当たらないよね。逆立ちはするけどスケートは身体にくっついているんだぜ!? どうやってそんな変なアイデアが浮かんだんだ?って思ったよ。ハンドプラントを広めたことには僕が一役買っていると思うけど、当時は多くのスケーターがハンドプラントにハマったんだ。もちろんあんなのはリアルなスケートボーディングじゃないと言う人もいたけど、どうしてそういうことを言うんだい? 僕はとてもビューティフルだと思った。だからこの2つのアイデアが合体している僕にとってはとても理に適ったブランドネームだよ。パーフェクトなんだ!
●ハンドプラントで痛い目に合ったことはありますか?歯が折れたりとか?
M:それはよく聞く話だけどね、僕はあまりないね。でも僕らが初めてハンドプラントをやった次の日、学校の友達が手にギプスをはめて登校してきたね。そいつはハンドプラントをしてスケートが上から手に落っこちてきて指を骨折してしまったって言ってた。だから僕たちはハンドプラントをトライした次の日には、ハンドプラントはマジで危ないトリックだって知っていたよ(笑)。
●スケートを始める前は何をしていたんですか?
M:ベースボールとかレスリングとか一般的なスポーツかな。僕はまぁ、そこそこの運動神経はあったと思うんだ。スポーツは好きだしね。だけどロッカールームが大嫌いだった。中学や高校時代、大人になってからでも同じだけど、女の子のことや世間話でのロッカールームの雑音が苦手でね。もしプロのチームスポーツならチャンピオンになることを目指すべきだし、みんなでゴールに向かって1つになるべきなんだ。だから僕はそういった会話に入りたくなかったしつまらないと思ってた。でもいつも何か僕に訴えかけてくるモノをずっと探していたんだ。それがスケートだったんだ。
●それではなぜアイスホッケーを始めたんですか?
M:単にアイスホッケーが好きだからだよ。素晴らしいスポーツだ。だけど苦労もしたよ。アイスホッケーが大好きだったけど大嫌いでもあった。ずっとチームではプレーしていなかったんだけど、また最近チームでやったら最初は楽しいけどまた同じ事になってしまうんだ。スポーツは大好きだ。最近はアイスホッケーを見ることさえ嫌になってきちゃったよ。進化していく中でどんどんと興味が薄れていくというかね。どの男もみな同じに見えるっていうのか、予想出来るっていうのか。だから僕は今のスケート界が進んでいる方向にも興味がなくなってきているんだよ。今後がどのようになっていくか見えてきているからさ。僕にとってはスケートというものは、もっとトゲがあって個性があるほうがいいんだ。つまり、実は世の中的に注目されているっていうのはちょっとつまらないんだよね。
●年齢を重ねて現れる体力の変化に対応するために何かトレーニングはしていますか?
M:2000年頃だったけど、身体が痛くて仕方がなかったんだ。それ以降は少しランニングをしたりとかエクササイズをしたりはしているけど、僕の場合はやはりトレーニングではないと思う。単純にランニングが好きだからやっているだけで、何かのために走っているわけではないからね。ホッケーも好きだからやっているだけで何かに役立つからというわけではないね。
●では、世の中のスケーターたちは、スケートだけじゃなくてアートとか音楽とかデザインとか、他のことにも優れた才能を発揮する人が多いのはなぜだと思いますか?あなたもMike V And The Ratsというバンドをやってるし。
M:それはスケートボードが若い人たちのクリエイティブな部分を引き出すきっかけとなっているからだと思う。スケートボードをやるにはフィジカル、メンタル、そしてクリエイティビティが要求されるんだ。人生のスイッチを入れ、あらゆるジャンルの全ての可能性を開くんだ。だから逆に言えばクリエイティブな人がスケートボードをやっていて、彼らには直感的なクリエイティブさがあるんだと思う。でもバンドをやっていても、僕はスケーターなんだ。それ以外は別のモノなんだ。スケート以外にもクリエイティブな趣味があるかもしれないけど、僕の人生はスケートボードで始まったんだ。僕はスケートを始めていなかったら何も達成出来ていなかったよ。
●ではBlack FlagのGreg Ginnに初めて会った時のことを教えて下さい。
M:初めて彼のプレイを見たのは84年だったけど、実際は2003年にMike V And The Ratsがオープニングアクトとして15公演を廻ったのがきっかけだったね。彼のバンドはベースとドラムはいたんだけど、基本的に彼がギターとボーカルをソロでやってBlack Flagの曲をたくさんやってたんだ。初公演のダウニーという小さな街のBarでやった時だ。人はまあまあ入ってて僕たちが演奏を始めると2曲目の半分あたりから突然彼が一番前に現れて、そのままず〜っと僕らのセットを最後まで全部見てたんだよ。今までもたぶんこれから先も、メインアクトのメイン・パーソンがオープニング・アクトの演奏を一番前で見てるなんて有り得ないよ。彼は僕らの演奏が終わるとすぐに僕らのTシャツを買いに行ったから「いやいやいや、買わないでくれ、差しあげます」って言うと、「いや、僕は君たちをサポートしたいんだ、素晴らしい」って言うんだ。嘘だろうなって思ったよ。だってMike V And The Ratsをスタートした時は「Black Flagみたいな音楽を作ろうよ!」って始まったからね(笑)。だから僕らは彼が作った音楽を真似したチープなバンドなわけだ。正直に「僕らはBlack Flagの大ファンです」って言ったよ。そうしたら「そうだね、たしかに影響を受けてる感じはするね、でもそれ以上だ、素晴らしい」って言ってくれたんだ。「リリックも良い、ギタープレイヤーのリフも良い、それに君のボーカルも良い」って言われたんだ。当時は誰1人としてバンドの連中でさえ僕のボーカルについてコメントをしてきたことなんてなかったよ。「Good Job」すら言われたことがない。「何でもいいよ」としか言われなかったからね。そうやって15公演が終わる頃にはとても仲良くなっていて、ある時、僕の音楽がとても好きだと言われて、「もしオレがまたロックやアグレッシブな音楽をやることになったら、(彼はその時エレクトロ・ミュージック等を多くやっていた)君にシンガーをやってもらいたい」と言われたんだ。僕はもちろんクレイジーだと思ったよ。誰かにすぐこのそとを言いたかったけど、そんなことは起きるはずがないとずっと胸に閉まっていた。でも数週間後に「Black Flagの再結成ライブがあるから、その時にゲスト・ボーカルで出ないか?」って電話がかかってきて、そこからリハーサルをやるようになり、さらに仲が良くなったんだ。
●Black Flagとしてはどれくらい活動しているんですか?
M:2014年に60公演をまわるツアーをやったよ。今は特に何もしてないけど、数曲はリリースしていない曲もあるし、BLACK FLAGとして曲作りをしなきゃいけないってわけではないね。スタジオに入ってクリエイティブなことをしているだけで、どうするかは後から決める感じだね。
マイク・バレリーとはこのインタヴューの数日後、新横浜のパークでもちょっと挨拶した。彼が現れることを聞きつけた50〜60人のサイン攻めと写真攻めに、イヤな顔ひとつせずに丁寧に最後の1人までつきあっていた。
その後、ヘルメットをしてあのウオールライドも、もちろんハンドプラントも見せてくれた。