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石田昌隆「JAMAICA 1982」

 
   

Interview & Photo by Shizuo “EC” Ishii

2018年7月にRiddimOnlineに掲載されたインタビューです。

石田昌隆が初写真集を出版する。それも36年も前に撮ったジャマイカの貴重な写真の数々。物騒なキングストンでこの写真のような出で立ちで撮影したそうだ。カメラにつけたデカいストロボ、それにレフ用のアンブレラを装着という“狙ってくださいスタイル”。 それでは、<石田昌隆こだわり人生>について。

石田昌隆(以下、I):鉄道写真をずっと撮っていて、蒸気機関車が1975年に無くなっちゃってから、次に何を撮ろうかと考えた時に一番参考になったのが、吉田ルイ子さんの「ハーレムの熱い日々」という本と、ブルース・デビッドソンの「East 100th Street」っていう写真集です。「East 100th Street」っていうのは、ニューヨークのスパニッシュ・ハーレムで一軒一軒ドアをノックして「写真を撮らせてくれ」って、黒人とかヒスパニックの写真を撮ったやつ。吉田ルイ子さんは、1962年からハーレムに実際に住んで、近所の人や子供から、当時のコルトレーンなど有名なミュージシャンまでをたくさん撮った。マルコム・Xのお葬式の時の参列者を撮った有名な写真があって、それまでは黒人達がちょっとヘラヘラしている雰囲気だったらしいんだけど、葬式の時に近所の人が凄くキリッとした表情になった。その意識の変わり目、60年代のあの公民権運動の時代のハーレムの黒人達の一番ビビットな姿を捉えていて、僕も“こういう写真を撮りたい”と強く思ったんですね。
 そんな頃、1979年のボブ・マーリーの来日公演とジミー・クリフの来日公演に行ったり、映画の「ハーダー・ゼイ・カム」を観て、「レゲエ・ブラッドライン」(Peter Simon著)を穴の空く程見ました。僕がジャマイカに行ったのは82年で、その時は「もう60年代的なニューヨークは無いから今ニューヨークの写真を撮っても手遅れだ」と思ったんですね。でも本当はヒップホップが出て来たりとか、その時代のニューヨークの面白さはあったはずだけど気づくことなく「今ワクワクする場所は、ジャマイカしかないだろう」と思ったわけです。映画「ロッカーズ」を観たのがジャマイカに行く前だったか後だったかは定かでは無いんだけど、、、石井さんが「ロッカーズ」(映画)を初めて上映したのは、何年ですか。

●1980年の夏に原宿ラフォーレで公開でしたね。

I:この写真集の中に、ダウンタウンのミュージシャンの溜まり場みたいなチャンセリー・レーンにビッグ・ユースがいる写真があります。黄緑色のムスタングでやって来たんです。「ロッカーズ」にまったく同じシーンがあって驚きました。「ロッカーズ」の撮影は78年ですよね。

●77年に撮影が始まって編集が終わったのが78年と聞いています。

I:映画で、ジャック・ルビーのサウンド・システムのシーンが出てきます。行ってから分かったことだけど、82年というのはイエローマンがガーッと出て来た時で、彼がサウンド・システムでラバダブ・スタイルのライヴをやるシーンに遭遇出来たのが、もの凄くラッキーなことだった。やっぱり「ロッカーズ」の頃のジャック・ルビーの感じよりも一段とラバダブ・スタイルが独自に進化していて、そういう風景は「ロッカーズ」にもまだ出て無かったし、「レゲエ・ブラッドライン」にも取り上げられていなかった。82年くらいにガッときた文化だったわけです。この前のRiddim(345号)にジョジー・ウェールズのインタヴューが出てたけど、やっぱり80年代前半のほんの数年間ですよね。まだ、ファッション的にもヒップホップっぽいファッションは全く入ってきてない。ヘンリー“ジョンジョ”ローズがプロデュースしてルーツ・ラディックスが演奏して、サイエンティストがミックスするワンドロップっていうのが、一番格好良かった時代です。
 次にジャマイカに行ったのが9年後の91年ですけど、その間にランキン(・タクシー)さんが83年から行き始めて、80年代半ばには佐川(修)さんとかがよく通うようになって、彼らが書いた記事を読むと、凄い勢いでどんどん変わっていて、91年の2回目の時はまるで状況が変わっていた。82年のジャマイカは、今思えば「ロッカーズ」的な雰囲気の最後の時代だったわけですね。

●ジャック・ルビーのサウンド・システムは、キングストンじゃないからちょっと性格が違うかもですね。ジャック・ルビーって俺も1回だけ行ったけど、オーチ(オーチョリオス)の方ですよね。あの映画を撮ったのは、(選挙のたびに数百人の死人がでるような)一番危険な時代だったし、キングストンで夜のサウンド・システム撮影は照明などを考えたらかなり無理だったはずだし、危険だったと思う。イエローマンの活躍はバリバリにキングストンですね。

I:U・ロイとかも70 年代の動画がいくつか残ってるけど、みんなライヴ的な感じですよね。82年には、イエローマンがナンバーワンで、U・ロイのステレオグラフ、ジョニー・リンゴってやつが中心だったジェミナイ、ブリガディア・ジェリーのジャー・ラブが四大サウンド・システムで、僕は全部行ったんですけど、エイセズがやはり一番ワーッとなっていて、エイセズの感じとかジェミナイの感じは70年代には無かったんでしょうね、多分ね。
 ジャマイカに行った事がある人は皆、自称ガイドみたいなやつと知り合って、そのガイド役の生活圏にしか行けないじゃないですか。だから、いかに面白い誰かと知り合えるかで、見る世界が決定しちゃうわけで、僕は面白いやつにうまく当たったなというのがある。

●そうですよね、これらの写真を見ると一般の人たちもアーティストも確実にディープ、ましてやツーリストが82年のタフ・ゴング・スタジオに入るのは大変だったはずだからそこに行けてるとか。僕は84年が初キングストンで、ちゃんとアポ取ってリタ(マーリー)に会いにタフ・ゴングに行ったんですけどね。

I:僕が行った82年は、菊地昇さんと高橋健太郎さんも行った年でした。ロサンゼルスのジェフとアンっていうジャーナリストによる81年のレゲエ・サンスプラッシュの記事が健太郎さんの翻訳でPlayer誌に載って、あと81年のサンスプラッシュの2枚組ライヴ盤が出た。ウッドストックの時代はとっくに終わっていて、グラストンバリーの存在はほぼ知られてなく、フジロックはまだ始まってもいない。そんな時代に4日間で数十組のライヴが夜通し行なわれる「レゲエ・サンスプラッシュっていうのがあるらしい」と判ったわけで、これは行きたいと思わずにいられなかった。

●カメラマンとライターのジェフとアンね、当時LAで会ったことあります。じゃあサンスプラッシュの時を目がけて行ったんですね。

I:もちろん。その当時はまだ僕はカメラマンの実績も無いからサンスプラッシュに行っても撮るのは難しいだろうなと思い、1ヶ月以上前にジャマイカ入りすれば、色々事情が分かるだろうと計算していたんですね。だから色んなやつと知り会えて、最終的にはサンスプラッシュもプレスパスを取って、ステージ脇から写真を撮れたんだけど、菊地さんと健太郎さんは割と直前に来てプレスパスをちゃんと取れてた。僕はまだ全然素人だったから。
 サンスプラッシュは、バーニング・スピアとかトゥーツ・アンド・ザ・メイタルズとか、錚々たるミュージシャンが沢山出演するハイライトでしたけど、アメリカ人の観光客が来てたりとかをみるとキングストンの本当にディープな感じよりは案外普通だなという感じでした。
 サンスプラッシュにはイエローマンも出て、そのライヴだけで1枚のアルバムにもなってるんだけど、その前にエイセズで凄くディープで格好良いラバダブ・スタイルを見ていたから、サンスプラッシュのイエローマンはアメリカ人観光客向けにやってるなんて思っちゃったくらいで、やっぱりキングストンでやってるほうが凄いと思ったんです。
 (モンティゴ・ベイの)サンスプラッシュにはミニバンを乗り継いで行って、今で言うエアビー的なシステムが当時のジャマイカにはなんとなく出来ていて、知り合いの知り合いの、そのまた知り合いぐらいの一般の家に安く泊ってたんです。当時は凄く体力があったから、昼過ぎに起きて、郊外のローズ・ホール・インター・コンチネンタルという所にミュージシャン達が泊っているからミニバンでバッと行って取材をして、夕方になったらジャレット・パークに戻ってサンスプラッシュのライヴを明け方まで撮って、午前中だけ寝て4日間を過ごしました。
それで終わったのが8月8日の朝、またミニバンでジャマイカの北海岸沿いにオーチョリオスの先迄戻った辺りから、島を横断する途中のブルー・マウンテンの辺りで相棒と車を降りて、そこで夜通しナイヤビンギをやっている所に行ったんです。そこは今思い出しても「あんな場所が世の中にあったのか」みたいな感じ...。夕方のまだ明るい時だけ写真を撮って良いと言われて、夜になってバーッと佳境になっていくと、儀式だから写真はダメだとなってほんのちょっとの時間しか撮れなかった。その時撮ったのをこの写真集にも載せてるけど、その後になって日本人がかなり沢山ジャマイカに行っているのにこういう写真は余り見ないから、なかなか遭遇出来ないものなのかなと思うんだけど、あれはやっぱり今でも本当に夢の様です。飯を食わせて貰ったり、結局朝まで泊まっちゃったりしたわけです。朝出る時、相棒から「20ジャマイカ・ドルをドネーションしていけ」と言われて払ったら、写真だと一番左の看護婦みたいな格好をしている女の人が持っているマラカスをくれたんですよ。そのマラカスが36年経った今でも家にあって、本当に行った証拠なんだなと凄く不思議な気分です。

●それでこのジャマイカ行きが、プロ・カメラマンとしての始まりになるんですよね。

I:完全にそうです。さっき(僕の)写真を撮ってもらった格好で撮影してました。実績的には素人だけど、その前に鉄道写真を散々やっていたし、ステージ写真も中学生の時、ドリフの「8時だョ!全員集合」の公開収録に行って客席から、志村けんが入る前、荒井注がいた頃のドリフの写真を撮っていて、写真を撮る機材とスキルは一通り備わっていたけど、撮った写真をどうやったら皆に見てもらえるかは全然分からなかった。当時はレゲエ・クラブの時代でも無いし、(渋谷百軒店にあった店)ブラック・ホークの人に見せに行くみたいなことしか思いつかない。で、加藤(学)さんとか山名(昇)さんに見せに行ったんですね。そうだ、ジャマイカに行く前に工藤晴康さんに相談に行ったら、日本で多分唯一レゲエのサウンド・システムが、こういう物だって想像出来ていた人で、「ジャマイカに行ったら、サウンド・システムは絶対面白いはずだ」って工藤さんがアドバイスしてくれたんですね。それまでは、レゲエ・ブラッドラインにもサウンド・システムの話しは、全然出ていなくて。この写真集にも載っけてるダウンタウンのモーリスの車のトラックを改造したレコード屋みたいのがサウンド・システムだと思っていたんですよ。レゲエ・ブラッドラインにも、あの写真が出ていたしね。行ってみたら工藤さんが言ってたことはまさにその通りだった。

当時は工藤さんと山名さんが凄く鋭かった。加藤さん達が「サウンド・システム」という雑誌をやっていて、そこに菊地さんと健太郎さんが82年のサンスプラッシュに出演したオーガスタス・パブロのこととか、メインな感じのページを作ることになっていたので、僕にはメインじゃ無いようなチャンセリー・レーンで自分のレコードを手売りしている様なミュージシャンだとか、その周辺のミュージシャンの話しを書かないかって言ってくれて、僕も「サウンド・システム」の2号に8ページくらい記事を書かせてもらった。それが、音楽媒体と関わる最初ですね。で、これにも出ている子供が4人逆立ちしている写真を山名さんが「これは良い写真だ」と言ってくれて、見開きで使ってくれて嬉しかった。それとブラック・ホークに見せに行った時に「ラティーナ」の編集の高橋敏さんという人がたまたまいて「これ面白いね、ウチでもやらない?」と言ってくれて、それでいきなり4ページの5回連載をやらせてもらえる事になった。それが事実上のこの業界の入り口になった感じです。
 その頃は、レゲエと言えばボブ・マーリー、レゲエと言えばジャマイカっていう感じがちょうど広まった頃で、雑誌の記者がレゲエ関係のページを作ろうとブラック・ホークにきて「何か、ネタ無いですか?」って聞くと、加藤さんが僕の写真を「ジャマイカ行って撮った写真があるよ」って紹介してくれて、それでブルータスとか学研の高1コースとか、そういう雑誌に幾つか出たんですよ。その中で編集プロダクションみたいな人が「お店取材とか、芸能人取材みたいな写真も頼んで良いですか?」ってなって、そのまま1度も就職せず普通の雑誌の取材とか沢山出来るようになっちゃったんです。そもそもジャマイカに行った時が、大学に入学して6年目の3年生だったんですけど(笑)。

●あっはっは(笑)。

I:翌年一応卒業出来て、卒業する頃にはもう撮影の仕事をガンガンやっていたので、もうどこの就職試験も受ける事なく、フリーランスのカメラマン。それで80年代後半になると、丁度バブルの勢いもあって、簡単にフリーランスで飯食える時代になって、その辺はラッキーだった。でもこの“82年のジャマイカ”と、去年Riddimで掲載した“84年のイギリス(「UK 1984」)”は、やっぱり僕にとって“決定的なモノ”をもたらしたんです。

●写真集を作るにあたって今回じっくりと選んだり色調整をして、今こうして82年の写真を見てどう感じますか?

I:やっぱり当時は「良いな」と思っていた写真でも今回は入れてないとか、当時は気づかなかったけど、「これは重要な写真だ」とか、そういうのが色々とある。ヴィンセント“ターター”フォードっていうボブ・マーリーの「No Woman, No Cry」の作者としてクレジットされている人との出会いとかは、その後の展開で色々と明らかになったんです。
 『黒いグルーヴ』(青弓社刊)が出たのが1999年。その前に82年と84年の写真と話をまとめて、85年に月刊プレイボーイのドキュメントファイル大賞に応募したことがあって、最終選考まで残って、開高健、立花隆、筑紫哲也とかが論評してくれたけど賞は取れなかった。それは「ラティーナ」の連載とかを加筆したもので、それをさらにもう1度推敲したのが『黒いグルーヴ』の文章になってるんだけど、それでも今見ると直したい所が凄く沢山ある。だから今頃になってこの「JAMAICA 1982」が形になる機会を得て、結果的にずっと良い内容にブラッシュアップ出来た事が凄く嬉しいです。

●石田さんって文章と写真の両方をやっているじゃないですか。その違いは?

I:鉄道雑誌は写真を撮って文章を書くっていうのを1人でやるのが常識だったから、逆に普通の雑誌がカメラマンとライターが分業だっていうのを知った時の方がむしろ驚いた。

●ああ、そうなんだ。あと今迄に世界中色々行っているじゃないですか、アフリカとか南米とか中近東とか台湾とか、そういう中で最も印象的な人とかっていうのは、ありますか。事でも物でも何でも良いですけど。

I:やっぱり82年のジャマイカと、84年のイギリスと、89年のベルリンの壁崩壊前後の東欧と、94年から95年にかけて行ったナイジェリアのフェラ・クティとか、2002年にレバノンで見たフェイルーズとか、それと2002年の年末にジンバブエで見たトーマス・マプフーモとか、いろいろありますね。

●それと、石田さんは今まで写真集を出してなかったじゃないですか。それは、何か理由がありますか。

I:いやいや、本当は『オルタナティヴ・ミュージック』(ミュージック・マガジン刊)は、写真集のつもりです。異様にキャプションが長い写真集(笑)。

●はっはっは、そうなんですか。僕は写真集とは思ってなかった、たしかに写真が前半ダーッとたくさん載っているけど全体の分量からすると何倍も文章のページ数が多いなぁ。
 あと、最後にもうひとつ。去年石田さん、心臓の手術をやったじゃないですか。僕なんかの歳になると周りもバタバタ逝ったり色々あるんですが、あの石田さんが入院した時にたまたま心臓バイパス手術の知り合いが、あと2人いたんですよ。

I:僕はバイパスじゃないんですよ。大動脈を人口血管に置き換えるっていう手術なんだけど。

●それは失礼、大雑把で申し訳ない。心臓あたりの手術が計3人いたんです。1人はWACKIE’Sのボスのロイド・バーンズで、もう1人がMOOMIN。もう1人が石田さんで、皆同じ時期だったから、「流行ってんのか?」って冗談言ってたんだけどね。ちょっと昔だったら、言い方は悪いですがお陀仏になりかねない。何か人生観が変わったりとか、あったりするんですかね?

I:人生観は変わらないけど、この写真を撮った時は24歳だったのに今は60歳。やっと1982年のモノを形に出来たわけだけど、まだ他にも形に出来るまでは死ねないやつが幾つかあるので、それをやりきるまでは、なんとか健康にと思っているぐらいですよね。