MUSIC

Tommy Far East

 
   

Interview by Shizuo Ishii

2014年12月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

 レコード・コレクター、セレクターの中でもセカンド・ジェネレーションの雄として日本はおろか海外からもお呼びがかかる多忙なTommy Far Eastこと富田実。仲の良いKeith & Tex初来日ツアーでもセレクターを努める。

トミーが初めてレゲエに興味を持ったきっかけというのが、それまで行っていた古着屋で流れていたスカだったという。中学から高校にかけては大のアメカジの古着好きで、新品ではない時を経たモノにもともと興味を持っていた。その古着屋で貰った1本のカセットから始まったアナログ探求の旅は、UKのスペシャルズやギャズ・メイオール経由スカタライツとなり、ついにジャマイカのディープな音にハマることになる。

Tommy Far East(以下、

T:)高校帰りに神奈川の本厚木にあったディスク・ユニオンに行って、まだレゲエ・コーナーも無くて、ワールド・ミュージックっていう所に“SKA”っていう字があったら全部抜いていって、でも裏を見ても全然分らないですよ、情報も無いし。今みたいにソウル・ジャズ(レコード)も、ロッカシャッカも、ダブ・ストアも無いですから、とりあえず買って聴いていくうちにスタジオ・ワンの白黒のレーベルの7インチに「なんじゃこのユルい音楽」みたいなアルトン・エリスがあったんですよ。とりあえずスタジオ・ワンは再発で出てる分だけ買って「これはスカだ、これ当たりだ」って手探りで色々聴いていくうちに自然とロックステディも、アーリー・レゲエもいいな、ルーツもいいなって。
ディスク・ユニオンとか服屋のオア・グローリーにイベントのフライヤーがあって、友達とそのイベントを見に下北に行ったりしてるうちに「この間かかってたのがプリンス・バスターだ」とか、「あれがリー・ペリーだ」とかちょっとずつ知識が増えて、それでCLUB SKAまで辿り着いて、高校生ですよその頃、怖いスキンヘッドがみんな整列して並んでいて、その人達となんとか話しをして。

●ナベ(渡辺浩司)ちゃんがやってたイベント?

T:そうですCLUB SKA、まだインクスティック芝浦とあと公園通りのインクスティックですね。あそこも凄く人が入ってて、そのセレクターに「レコードどこで買ってるんですか?」って教えてもらって新宿のオレンジ・ストリートに友達と行ったらマイティ・マッサの長井さんがいて、レコードを紹介してもらったり、そこに集まってるうちに色んな知り合いもできて、今度は「通販で大阪にいっぱいあるよ」みたいな話も出て、それが林さん(ドラム・アンド・ベース)とか森井さんとか今でもある京都のブラック・アークの小島さんとかの通販を知るんです。けど僕らは高校生でしたから、レコードを通販で買うって不思議だなと思いつつ電話するとリストが届いて、そこに電話して電話越しに曲を聴かせてもらうという、、、。 高校行っても、もう休み時間にリストを見ながら、職員室の横の電話ボックスから「リストのこれありますか?」って。
そのお金は当時集めていたアメカジの古着のコレクションを崩してレコードにハマっていきました。最終的には全て売って塩化ビニールに(笑)。

●あ~あ(笑)、じゃあ元々が凝り性だ。ではなぜレコードだけにシフトしたのかな?

T:古着に関して言えば、すごく綺麗な(クオリティの良い)昔のをゲットしてしまうと、もう履くのが怖いとかそういう気持ちも芽生えちゃうんで、これはあまり意味が無いなと思えてきたんですよ。レコードだったら聴くっていう実用性があるんですけど、スニーカーなら例えば1960何年のスニーカー、箱付のデッドストック、けどこれを俺が履いちゃって破いちゃったら怖いなとか、これ7~8万で買ったのになんか怖いなと。 綺麗なのを欲しいのはどっちも一緒ですけど、古着は僕にとってあまり実用性がないなと思い始めてきて、レコードだと聴けるし色々と出来るんで、ああやっぱ音楽は良いなって思いました。

●レコードを集め始めてから何年になるの?

T:オリジナル盤に凝ってからは21~22年くらいですかね。高校を卒業してイギリスに買いに行き始めたんですけど、その頃はサラリーマンだったので行けても5日間とか6日間、それってイギリスだったら3泊5日なので、これはもうサラリーマン辞めようと。

●それは何年なの。

T:1999年とかですね、仕事を辞めてこれで30迄に食えなかったらサラリーマンもう1回やり直そうと考えて年に2~3回イギリス行って、多い時は4回くらい。仕事をやめた直後はハローワークの呼び出しがある時だけ帰国して、またロンドンへと帰って。その頃は日本人でイギリスに買いに行ってた僕らより上の世代の人たちがちょうどいなかったんですよ。留学してた人も帰っちゃったりとかで。僕も行き始めて向こうのセレクターとかアーティストとかと自然に知り合いになっていって、その流れで2002年に青山のCAYで林さん(ドラム・アンド・ベース)と初めてアルトンのイベントをやったんです。ライブは大成功でした。それで次は「デタミネーションズでプリンス・バスターをやりたい、デタミこそがスカタライツだ」って、話になったんです。
 その頃EGO-WRAPPIN'の森さん、デタミの晋さん、林さん、ユニバーサル/アイランドの寺口さんと僕の5人で「ナイト・フード」っていうDJイベントで全国ツアーを1回廻りました。それをやってる時にも若干違和感があって、自分を表現出来ないなと思ってもこれも修行だなと思いながらやっていたんです。まさにメジャー・レコード会社を感じました。その間に自分のカセットテープとかをイベントで名刺代わりに売ったりしてました。その粘りもあったせいか北海道とか秋田の人たちから個人的にイベントに招待してもらえるようになり「ナイト・フード」からどんどん離れていって僕だけ辞めたんですよ。その後も『ロッカシャッカ』の選曲とリリースは続いていきました。何年か経って2006年にドイツのハンブルクの「キングス・アンド・クイーン」っていうイベントから初めて外国の営業の話がきて凄いなと思ってそこのオフィシャル・サイトを見たらスキンヘッドだらけ、ジーパンにサスペンダーしてボウズばっかりで、昔スキンヘッドとかパンクとかそういうのを好きだったので、こんなとこでレコードかけたらどんな気持ちになるんだろうなっていうので行ったんですよ。その時は飛行機代半分で、ホテルとか飯とかは全部出すって条件ですけど、それまで自費でイギリスまでレコードを買いに行ってたので全然行きますよみたいな感じです。何よりもせっかくきた話だったので挑戦したかったんですよ。行く前に廻りに色々言われましたが(笑)。

●ハッハッハ。

T:僕は、いや問題無いです、絶対結果残してくるって言いきって出演しました。結果そのイベントがきっかけで他の国に呼ばれる様になったので出るなと言われたのを押し切って出たのは正解だったみたいです(笑)。 一番デカかったのが2009年、ロンドンにペニー・リールっていう白人のライターがいて、デニス・ブラウンの「オブザーバー・ステーション」っていう本を書いたり、ボブ・マーリーと一緒にサッカーやった事があるっていうちょっと変わり者のおじさんですけど、その人とオールディーズのサウンド・クラッシュがあったんですよ。その時もイギリス人対無名の僕っていうので凄く注目されて、リバイバル系のサウンドマンとかがみんな来て、僕は90年代後半から行ってるから昔のサウンドマンとかも知っていたので、僕側にうまく付いてくれて、最後の tune fi tune で良い結果に出来て勝ったんですよ。緊張やプレッシャーもありましたがやれてよかったです。その動画などがYoutubeなんかで配信され、今度はロサンゼルス、メキシコに呼ばれる様になっていったんです。あとはニューヨークだけだなと思ってたら、やっと去年ニューヨークもトニー・スクリューとジャー・ワイズっていう映画Rockersでバイクに絵を描いてる人やデッドリー・ドラゴン・クルーとやれてって感じですね。最近はアメリカ方面が多くて来年二月にブラジル・ツアーが決まりました。初の南米今からぞくぞくします。

●今考えると、ジャマイカ音楽の何がここまでハマった原因だと思う?

T:アンユージュアリーな事ですかね。今まで日常見てきた中でも、想像を覆すぐらいの発見がジャマイカの音楽にあったんですよ。他ジャンルの同じ60~70年代の音楽とは明らかに違うんです。それはジャマイカの音楽を好きになったっていう事もあると思うんですけど。こんな曲をレコーディングしてたんだっていう言葉では表せない様な感動、そしてアンユージュアリーな音とかこの楽器の使い方とか。

●普通じゃないって事?

T:ええ、もう普通じゃないって事です。今まで聴いた音楽の中でジャマイカ音楽の衝撃っていうのは他のジャンルには無いものですね。ジャマイカならではのテイストに引き込まれたのが一番デカいですね。内情を知れば知る程ジャマイカの音楽って凄いって、キース・スコット(フェデラル・スタジオのエンジニア)に出会って当時の事を聞いたのもデカいです。サウンド・システム文化ってメキシコでもあったって言いますし、サルサのサウンド・システムの写真とかも見せてもらったんですけど、ジャマイカみたいな形で浸透はしなかったんです。みんなが集まって公民館でラジオを聞いてたとか、あの国のカルチャーは凄いと思いますね。あのサウンド・システム文化のダブ・プレート文化もです。僕はダブ・プレートで自分のことをチャンピオン・サウンドって言ってもらってかけるのは正直好きじゃないんですよ。チャンピオンはみんなが決める事だし、自分でアーティストにお金払って自分の事を言ってもらうっていうのはちょっと抵抗がある。それがスタイルなのかもしれないですけど、個人的には凄く抵抗があって、そういう文化も強烈でしたね。この間もストレンジャー(コール)が言ってましたけど、「ジャマイカに古い文化はもう無いかもしれないけど、それは文化が死んだわけではなくて他の国に移っただけだから、俺たちが昔作った音楽は絶対死なない、スカは絶対死なない」って、そういうのを聞いてもジャマイカって凄いタフだなって思いますね。

●レコードをたくさん持っているわけだよね。

T:いっぱいかどうかですけどね。

●ジャマイカ・シングルの全体から考えて、自分がどのくらいの%のタイトルを持ってると思う?

T:それ、よく言われるんです。今は昔に比べるとカタログ的な情報は、アーティスト、プロデューサーでこの番号からこの番号までってタイトルも全部出るんですけど、それがイギリス盤とかはある程度正確なんですけどジャマイカ盤に関しては本当に何が出てるかデタラメなんですよ。

●1タイトルしか出てないレーベルとか、極端にプレス枚数が少ないないとか?

T:ええ、だから当時からダブ・プレートっていうカルチャーがあったのに、わざわざスタンパーをお金かけて作ってレコードを2~3枚しかプレスしないって有り得ないと思って聞いたら、普通にオーダーがあったものはだいたい最低50枚はプレスしてたらしいんですよ。だけど、スタンパーを作って最初のテスト・プレスを2枚、3枚プレスして「やっぱ要らない」っていう曲もあったみたいで、そういうのが出てくると大分震えますよね。例えばコレクターのアメリカ人が集まって作ったルーツ・ナッティー・ルーツっていうデータベースがあって、もちろん全部が正しくはないですが、そこにマトリックスっていうレコードの溝の所にある製造番号を打つとテスト盤のプレリリース盤でもタイトルが出てくる事が多いんです。それを参考に考えるとジャッキー・オペルとウェイラーズのスタジオ・ワンは、これで見た感じだと全部揃ったなと思ってたんです。それが数年前に1曲だけとんでもないレコードが出てきたんです。ある人がジャマイカから帰ってきて「トミー、全部ジャッキー・オペル持ってるでしょ、1曲だけタイトル分らないから教えてくれ」と言われて、かけたら聴いた事ない曲で、ボブ・マーリーの未発表の曲が出てきたくらいのノリですよ。「うわっ!なんですか、こんなの初めて聴きました」とびっくりしましたね。なんとか頼んで売ってもらったんですけど、それをイギリスでかけた時は大変なことになりましたねやっぱり。曲をかける前に前置きして「ん? そんなのお前がタイトル知らないだけだろ」ってみんな思ったはずですけど、かけたらみんなボスしてくれて、こういう曲が出てくる事があるんで、もう深いですね。それが今のところ世界で僕しか持っていないって言われていますね。

●へええ。

T:今だったら、もうそんな事なかなか無いんですよ。ブランク盤で終わったのもあると思うんですけど、本当に最初のテスト・プレスの2~3枚、スタンパーをチェックするだけの盤は本当に貴重で、それが全部イケてる曲とは思わないですけどたまたま僕のは大分曲もイケてたので。そういうことで考えると実際自分が何%ぐらいまでいってるかは分らないですね。当時の人に聞くと、とりあえずレコーディングはしまくったって言ってますね。当時はフェデラルとワールドだけを使ってて、自分たちがレコーディングしたいのに何時間も待ってるのが嫌だとかそんなのでコクソンもデューク・リードも自分のスタジオを持ち始めたから、24時間好きな時にレコーディングできますし、コクソンは62年にスタジオ持ってからアホみたいにレコーディングをしたと思うんですよ。でもその中でもプレスしてるのって半分もないと思うので、レコードっていうよりも当時作られた音楽としてはまだまだ大分あるなって思います。僕もレコードから最近マスター・テープにもどんどん興味が出てきて、そのテープを聴くと出てない曲があるからまた僕の目ざす器が広がったっていうか、だいぶ聴いてるのにと思ってたけど、それはレコードというだけで曲として考えたらエンドレスだなと思うと、もっともっと楽しめるなと思いましたね。

●今日はこのくらいにしておこう(笑)。またそのうち第2ラウンドいこう。