MUSIC

Leroy Sibbles in Japan 2015

 
   

Text & Photo by Shizuo Ishii

2016年2月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

HeptonesのLeroy Sibblesの来日公演はどこも盛況で、東京はMatt Sounds、大坂は浦朋恵 & The Fun Boy Five,名古屋がRude Pressuresがバックを努め、沖縄と福岡はDJセットでのライブだった。全公演、汗だくの熱演、ヒット曲のオンパレードで、ジャマイカン・ミュージックの良質な宴を堪能できる内容だった。それもそのはず、Heptonesの曲の多くを作曲し自らがリード・シンガーとして活動してきた男のライブだからね。
 このインタヴューは全公演を終了した翌日に、お約束のような浅草観光のあと、成田に向かうクルマの中で行った。

The HeptonesはEarl MorganとBarry LlewelynにLeroyが参加する形でトリオとして固まった。正式なデヴューはKen LackのレーベルCaltoneで初レコーディング、67年の「スクール・ガール」と「ガンマン・カミング・トゥ・タウン」をリリースした。その後コクソン・ドッドのスタジオ・ワン・レーベルに移り本領を発揮、ヒットを連発しスタジオ・ワン・レーベルの中心グループとなった。
 だが70年代の中頃にThe Heptonesを脱退しカナダのトロントに移住したがソロ・アーティストとしてカナダのMicronレーベルからは『On Top』という良質のアルバムをリリース、その後も沢山のシングル、アルバムをリリース、そしてライブ活動をしてきて現在はまたジャマイカに在住。2012年にはSteely & Clevie レガシー・ツアーのために来日してCotton Clubでのみ3日間のパフォーマンス。今回は3年ぶりの来日だった。

●あなたはHeptonesの曲の多くを手がけ、リードボーカルでした。そしてStudio One のレコーディング・バンドであるSoul Vendorsのベーシストでもありました。ジャマイカン・ミュージックの正にリビング・レジェンドだと思います。そしておそらくあなたの大学はスタジオ・ワンだと思います。どのようにベースを始めたのでしょうか?

Leroy Sibbles(以下、L):それはJackie Mittooが「ショウがあるからベース・プレイヤーが必要なんだ」と言ってきたんだ。それはTit for TatというクラブでJackieがピアノ、そしてドラムとベースのトリオ編成でした。でもオレは「ベースはやった事がないよ」って言ったけど「出来るよ、大丈夫と言われてJackieと2人でスタジオに入って、Jackieが曲を弾き始めて僕がベースラインを練習してショウに行ったんだ。それがきっかけでオレはベースを弾く様になったんだ。

●それはどれくらいの期間練習したんですか?

L:たしか3日間だったね。

●オー!

L:だってショウは、その週末だったんだ。

●僕はSoul Vendorsのアルバムを2枚持っていますが、1枚はLloyd Brevettがベーシストにクレジットされてたはずですよ。

L:そうだよ、彼はオレの前にSoul Vendorsでベースをやっていたからね。僕の前には沢山ベースをやっていた人がいたはずだよ。Lloyd BrevettはSkatalitesもやってたし、Jackieもそうでした。だから彼らはHeptonesの1stアルバムでも演奏してくれています。Lloyd Brevettは2ndアルバムでもやっている。3rdアルバムの『On Top』ではBoris Gardinerがベースをやっています。その後はオレもStudio Oneでベースをやり始めてBadなベースラインを生み出しました。No.1ベースラインだよ!

●あなたが生み出した「Satta Massagana」や「Pass the Kouchie」のベースラインは有名ですが、他には?

L:The Eternalsの「Queen of the Minstrels」、「Stars」、The Cablesの「Baby Why」、「What Kind of World」、それとDennis Brownの1stアルバム『No Man is an Island』の全ての曲、Alton Ellisの「Can I Change My Mind」もそうだし、Burning SpearのStudio Oneのアルバム、先日亡くなったJohn HoltのStudio Oneのアルバム、Horace Andyの「Mr. Bassie」、Ken Bootheのアルバムも1枚やっている。Abyssiniansの「Declaration of Rights」、これはStudio Oneではないけれど(H. Mudieの)Mudiscレーベルの「Midnight Drifter」も誰でも聞いた事があるはずだよ。

●ではStudio OneのCoxsone Doddという人物について聞かせて下さい。

L:人物としてはナイスな人だった。ビジネスマンとしてはRatだ。お金が絡んでくると彼は凄く自己中心的になる。ビジネスサイドの事は、まるで何も話してはくれなかったし、彼が全てを握っていた。彼のスタジオでプレイした物は全て彼の音楽だと言っていた。彼は楽器が出来なかったけど、全ての音楽はCoxsoneの物だと話していた。それともう一つ、彼が全てのミュージシャンから奪っていたことは、レコードに作者名をほとんどクレジットしなかった事だ。だから殆どのミュージシャンやシンガーは貧しいまま亡くなっていったんだ。だがCoxsoneはリッチだった。彼のファミリーもだ。だからとても良くない事だと思う。だが、彼が与えてくれたチャンスのおかげで、こうして今でもオレの音楽の能力を表現する事が出来るんだ。

●僕は、あの60年代にワープしてStudio Oneに潜入してみたいと思うことがあるんです。きっとクローズドなスタジオだったんじゃないかなと思います。そこでの一日はどのような流れで進んでいたのでしょうか?

L:自分の場合は、日曜日に新しいシンガーのオーディションをやってシンガーを選んでいた。月曜日から金曜日は他のミュージシャンと一緒に12時から17時まで音楽を作っていた。シンガーが来るとみんなで練習をして、レコーディンをしたんだ。オレの仕事は単純にベースを弾くだけでなく、アレンジも任されていたからホーン・セクションのイントロの指示を出し、新人シンガーのハーモニーもクリエイトして、オレと“Barry” Heptonesがバックグラウンドのハーモニーを歌ってたんだ。さらに土曜日はボイシングをしていたから僕はスタジオの中で一番仕事をしていたことになるね。だから毎日毎日あそこにいたんだ。昔は最初にトラックを作ってレコーディングをして土曜日にトラックにボイスを入れていた。

●当時のスタジオ・ワンのスタジオにはいつも誰がいたのでしょうか?

L:今まで名前を挙げた人たちはもちろん、あとはミュージシャンで言えば、たまにはキーボードにRobbie Lyn、Leroy “Horsemouth" Wallaceがドラムでいる時もあった。”Trommie”ことVin Gordonがトロンボーンでいたり、Headley Bennettもサックスでいたな。たまにはCarlton (& The Shoes)がギターで来たり、他にギタリストはRick Fraterとかもいた。

●Jackie Mittooもいたんですか?

L:いや、オレが仕切っていたころには、もうJackieはカナダに行ってしまっていたよ。Jackieの後を僕が引き継いで、スタジオで指揮をとっていたのはオレだし、その前がJackieだったってことだ。

●エンジニアはだれですか?

L:Sylvan Morrisだよ。

●僕が個人的に感じている事なんですが、Coxsoneは70年代のある時期になると新しい曲のリリースがぐっと減ってしまったように思います。なぜでしょうか?

L:それは分からないから、その質問には答えられない。きっとその時期だってリリースできる曲はたくさんあったはずなんだけどね、ある時期にはちょっと混乱していたのかもしれないね。

●レコーディングも少なくなったということは?

L:そうだね、レコーディングもストップしたかもね。だからそれも一理あるね。ある時期からみんながStudio Oneから去ってしまったんだよ。だってオレたちはお金にならなかったからね! 僕たちはまだ10代の若造だったから、Coxsonはそれを巧みに利用していたんだけど、みんなが大人になり責任が出てきた時には、お金が必要になったんだ。つまりCoxsoneの所にいたらお金を稼げないから他に行かなくてはいけなくなったわけだ。

●アレ?、もう成田空港に到着します。それでは、今回の日本のツアーはどうでしたか?

L:それはとても素晴らしいものだった。今はちょっと疲れもあるけど、全てを楽しんだよ。とても良い経験になったし、また日本に来たいと思っているよ。Thank you!