Text by CB Ishii(石井洋介) Photo by lili Peterson
2013年12月にRiddimOnlineに掲載された記事です。
Jah Cure、類いまれな才能を持つレゲエシンガー。銃器不法所持と強盗、レイプなど4つの罪で逮捕されたが否認、15年の刑期を言い渡されるも留置場に繋がれながらシングル・ヒットを連発。去年は2PACとの共演曲など話題の尽きない彼が、初来日して日本各地でLiveを行った。しかも新たにマネージャーとなったのが、90年代初頭にSuper CatをメジャーのColumbia Recordsで成功させ、Shaggyの『Hot Shot』を1000万枚以上売って文字通り世界制覇を成し遂げたロバート・リビングストンだというのも、とても気になるところだ。となれば、Riddim編集部に誘い込んでジャマイカ・ローカルの話をじっくりと聞いてみた。Cureの語る年号などが巷でいわれるものと少し異なるが、当時は彼が刑務所生活であったことを御容赦戴きたい。
●簡単にあなたの生い立ちについて教えて下さい。
Jah Cure(以下J):育ったのはモンテゴベイにある小さなコミュニティ、ハノーバーだ。“レゲエ・サンスプラッシュ”はモンテゴベイのJarrett Parkでスタートしたから、沢山のアーティストを観たし、彼らの音楽から影響を受けた。途中から“レゲエ・サンスプラッシュ”は、ボブ・マーリー・センターに場所が移るんだけどね。俺はまだ子供だったからパーティには行かせてもらえなかったね。でもママの目を盗んでこっそりと抜け出して観に行ったりしてたんだ。背が小さくてよく見えなかったからポリスマンが俺を持ち上げて「お前、ベッドで寝てる時間だろ」って見せてくれたりしたよ。その頃Electro Forceというモンテゴベイのサウンドシステムを好きになって、もう一つがモンテゴベイのTikka Soundのプレイする曲にも影響を受けたんだ。レゲエの力強いヴァイブスにすごくインスパイアされて、家をこっそり抜け出してはよくパーティへ行って歌ってたんだ。ある夜、ママは俺がベッドにいないのに気づいて、探しに出たらサウンドシステムから聞こえてきた歌声が俺だったなんてこともあった。
そこでは歌のコンテストが行われていて、まだ12歳だった俺がたまたまそこで優勝したんだ。次の日は貰った賞品のフード・バスケットを家族みんなで食べたんだよ。その時に俺は、将来シンガーとしていつの日かやっていけるんじゃないかって意識を持ち始めて、ママは俺がキングストンに出るのをOKしたんだ。
キングストンには父が住んでいて、その家に住み始めた時にもうモンテゴベイには戻らないと決めたんだ。その頃は。はっきりと音楽が好きだと実感できていたし、キングストンの方が音楽が更に身近にあったんだ。当時、父はギャングスタとつるんでいてほとんど家にいなかった。その頃の若手シンガーと言えばGhostかスパニッシュタウンのLikkle Crissっていう2人で、俺も刺激を受けてどうしてもキングストンに住もうと苦労していた。その頃知り合ったヤツがCapletonととても仲が良かったからタバーンというエリアへ連れて行ってくれてCapletonに会わせてくれたんだ。それはまだ14歳の時だ。昔からCapletonの曲が大好きだったから、彼らと一緒にダブ録りのスタジオへ行くようになっていったんだ。
●CapeltonがJah Cureの名付け親だって聞いてますが?
J:うん、まあそうとも言えるんだけど、そこにはCapleton以外にもDavid House Crew等もいたからね。それ以前の名前はLittle Melodyって名乗っていたんだ。Courtney MelodyとSinging Melodyが好きでこの2人にとても心酔していた。そこからAll CureとかYoung Cureとか色々アイデアが出たんだけどJah Cureが一番良いってことになって、CapletonもJah Cureを推してくれて名乗り始めた。でもその時はJah Thunder、 Jah Lightning、Jah Masonと色んなJahがいたんだよ(笑) 。
その頃にBuju Banton、Wayne Wonder、Grindsman、Shabba Ranks、Ninjamanなどの有名なアーティストに会ったんだ。当時のArrows Recording Studioは皆がつるんでいる場所だったからね。当時のダブ録りは今とは違って1テイクのみで絶対に失敗は許されなかったんだよ。(Arrows Recording StudioはSP盤と同素材のアセテート盤を一発録りダイレクト・カッティングするマシンだった)そういえば、ある日、沢山ダブ録りをしていたBujuにお金をねだったらJ$200(約¥200)をくれて、俺はめちゃめちゃハッピーになった時もあったな。すぐにスタジオから駆け出して食べ物を買いに行ったよ。それでなんとか、1週間食いつなげたんだ。97年ぐらいまではそこでダブ録りを始めて、色々と学んでいた頃にSizzlaが売れ始めてCapletonがラスタ・アーティストとしてとてもホットになり、Sizzlaはタバーンの近くのオーガスタス・タウンから頭角を現したから全てほぼ同じエリアでそれは起っていたんだ。Sizzlaととても仲が良くなり、Sizzlaに料理を作っていたこともある。俺は料理を作るのが好きでCapletonにも作っていたんだけどね。
ある日Sizzlaと一緒に「Divide & Rule(Cureの曲「King In This Jungle」)という曲をレコーディングしていたらBeres Hammondが声をかけてきたんだ。「このフレーズを歌っているのはこのYouth(小僧)か、キッズのくせにCommanding Voice(堂々と威厳のある声)を持っているな、とても良い声だ」と言ってきた。俺たちはその曲「Divide & Rule」をその夜に録り終えたよ。
そんなことがあった後、BeresがSizzlaに「名前を忘れたが、あの若いシンガーはどうした?連絡する様に言ってくれ」と伝言してたんだ。だけど俺は「Beresに会いに行け」とだけ言われただけだったから、あまり重要には思っていなくて放っておいたんだ。するとBeresからダイレクト・メッセージがきて、すぐにBeresのところへ行くとBeresは俺を見るなり「どこへ行ってたんだ!?」と怒鳴りつけた。俺をとても気に入ってくれていて「これから自分の息子をベッドの上で叱りつけるように教育していくぞ」と言われた。それからイギリスやオランダへのツアーに連れて行ってもらったんだ。その時はAnthony Bが行くプランもあったんだけど、Beresは俺をツアーに連れて行ってくれたんだ。だからBeresがボーカルやオーディエンスの前でのパフォーマンスの仕方を教えてくれたことは間違いない事実だ。Beresのショウにはいつでもたくさんのオーディエンスで溢れていたからね。あの大勢の前での経験は、今とても活かされているんだよ。
●そうすると最初のヒットチューンは「Divide & Rule」ですね?
J:そうだよ、97年にBeresがHarmony House(Beresのスタジオ)でプロデュースしてくれたSizzlaとの「Divide & Rule」が俺の最初のヒットチューンで、そこから俺のキャリアが始まった。当時はSizzlaが一番キテいるアーティストだったから、彼とのコンビネーションも幸いしたんだ。
●あなたは投獄されましたが、、(と一応、水を向けてみたが、、)。
J:うん、ちょっとトラブルにあった。
●でも服役中にもアルバムが出ていましたよね?
J:うん、それは俺にとっては歴史的瞬間とでも言うのかな。
●服役中もBeresが何曲もあなたの曲をリリースしていたと思うのですがそれは具体的にどういうことでしょうか?
J:Beresが弁護士を使って、刑期を減らす様に働きかけてくれた。本当であれば去年か一昨年ぐらいまで服役していなければならなかった。そのおかげで俺は2007年に出所出来たんだ。Beresは2003年にアルバム「Ghetto Life」をリリースしたよ。
●聞きたかったのは刑務所の中でどうやってレコーディングしたんですか?
J:服役中に3枚のアルバムが出たけど、実は殆どの曲は捕まる前にレコーディングしていた物だよ。1999年(2000年か?)に「Free Jah’s Cure」が出たよ。捕まって1ヵ月後に出て、2003年になるとBeresが「Ghetto Life」を出した。最初のSpanish Townの刑務所では、彼らは俺が音楽で生活しているのを知っていたから、牢屋の中に機材を持ち込んで音楽を作れたんだ。2枚のスポンジ布団で寝ていたんだけど音楽を録る時はそれを使って少しでもキレイな音を拾える様に工夫した。寝る時間を割いて5曲録るなんて時もあった。尚かつダブ録りもしたよ。
●Spanish Townの刑務所で録られたヒット曲「Longing For」はどのようにして作られたのでしょうか?
J:実は俺は2004年に仮出所の予定だった。だけどこの年に仮出所出来なかった。だから真剣に牢屋で音楽を作りを始めよう、自由になるまで待ってなんかいられないと決心したんだ。牢屋の中から自分で自分の道を切り開こうと。それが最初のアイデアだ。だから仮出所が取り消されて牢屋にいることが決まった時に「この牢屋の中から1曲でいいからナンバー1ヒットを誕生させてください、歴史を作らせて下さい」と神に祈ったよ。そしてDon Corleonが送ってきたリディム(トラック)にボーカルを乗せて送り返したんだ。
●じゃあ、服役中もかなりのサウンドマンが会いにきたってことですよね?
J:うん、正直なところかなり多くのサウンドマンがダブ録りに来たよ。牢屋にいながら凄く稼いだからね。知り合いに全部お金を管理してもらってママに預けてた。だから録音した曲を知り合いに渡すだけでよかった。俺は牢屋の中から歴史を作ったと言っても過言ではないと思うよ。でも今は難しくなってるみたいだ。その後に音楽プログラムが作られてコンピュータ・ラボもできたんだけど、今は廃止されちゃったんだよね。「Longing For」がリリースされて評判になったらしくて、多くの人が面会に来て「どうやってレコーディングしているんだ?」と聞きに来た。ニュースにもなってしまったらしいからね。
もちろんイリーガルだったから、誰かがリディムを送ってきたら、牢屋の隅で隠れて録っていた。SonyとSharpの機器で録音していたからクリアーな音でみんなビックリしていたんだ。看守も「どうやって曲を作ってるんだ?」と聞いてきたけど「捕まる前にレーディングしていた曲だ」とウソをついていたよ。しかしウソだと疑われ始めてからはママと、その頃交際していたガールフレンドしか面会させてくれなくなってしまったんだ。そのうちにガールフレンドも怪しまれて面会出来なくなってしまった。俺はその時泣いたよ。だからあるシングル曲はガールフレンドに電話越しで録音させたんだ。その曲は録音する機械を没収されていたから、リディムを聞きながら頭の中で何度も何度もリハーサルをして録音させた。1テイクでだよ。こんな風に服役中の俺がビジネスになってしまったことで刑務所が賄賂で崩壊していたんだ。みんながお金に群がってしまったんだ。
そんなわけで俺は次のGeneral Penitentiary刑務所に移された。そこはSpanish Townの刑務所のように自由を与えてくれる場所じゃなかった。全てを刑務所がコントロールしていた。だからいきなり「明日この時間にレコーディングするぞと言われて1時間か2時間でレコーディングをしたんだ。General Penitentiary刑務所では看守たちが選んだ入れたい奴だけを俺に会わせてきた。だからここでは自由こそなかったけど、むしろリーガルで録っていたような感じだったね。だからこんなこともあった。ある日、刑務所にDownsound RecordsのJosef Bogdanovich(Stingのプロモーター)がレコーディング機器を持ち込んできて「True Reflections」、「Great man」、「What will it take」の3曲をレコーディングしたんだ。彼らがたったの1時間でやれと言ってね。「What will it take」はもともとIrie FMのDJ Wayneの為に作った曲だから以前に数回歌ったことがあったからまず最初にレコーディングして、「True Reflections」は人生で初めてレコーディングしながらライブ動画も撮った。それはYouTubeでも確認出来るよ。そうそう、さっきの話しになるけどこのPVでは牢屋の中のトイレが映らないようにスポンジの布団でトイレを隠してるんだ。そんなわけでジャマイカでは「True Reflections」は「Logging For」よりも話題になった。
●それはどういう機材だったのでしょうか?
J:YamahaのInとOutがあるだけの機材だよ。だがそこには既にPA機器があったんだ。Food For The Poorというチャリティー団体があって、囚人達がバンドを呼んで欲しいとリクエストすると、休日になると囚人の為にバンドが来てプレイしてくれてた。だからミュージシャンや才能あるアーティストが来たりしてたんだ。木を加工するワークショップやスチールを使うワークショップはあったんだけど、ミュージックのワークショップはなかった。だから刑務所がミュージック・セクションを作ってくれて、時間がある時には誰でもベースやギター、ドラムを使えたんだ。モニターボックスがあって牢屋の中で、音を小さくして夜中に聞いて確認することが出来た。この刑務所にいたときは裏ルートからシークレットでリディムが送られてきてレコーディングをしたが、それに関しては看守も黙認してくれてたんだ。だから刑期が終わる2年前でも凄いヒットチューンがあったし、サウンドマンも沢山ダブを作っていった。
●それでは、今収監されているVybz Kartelはどうやっていると思いますか?
J:もちろん詳しいことは分からないけど、きっと捕まる以前に録った曲なんだと思う。あとは間違いなくイリーガルでやっていると思うよ。iPhoneか何かで牢屋の隅っこで隠れてやっているんじゃないかな。そういえば俺はMini Diskを持ってる時があって、それにマイクが付いていたんだけど、それを使って周りの囚人が俺に付いてどんな噂をしているのか聞いた時もあった。ふふふ、俺は刑務所の中で一番優れたジャーナリストだったぜ、あっはは。
●昔のことだけどECのジャマイカ人の知り合いがキングストンで捕まって、迎えにいったことがあるらしいのですが、彼が出された食事は残飯の様な酷いものが出て、それが見せしめだったそうです。とてもタフな場所だったと聞いてるけど。
J:もちろんだよ。一度行ったら戻りたくない場所だよ。
●あなたにも酷い食事が出ましたか?服役中に一番大変だったことは何でしたか?
J:いや、俺は刑務所ではキングの様だった。なぜなら入所した時に既に「Divide & Rule
、「Sunny Days」、「Love is the Only Solution」などのヒットチューンがあったから、刑務所の中の奴らは俺をJah Cureだと分かったんだ。さらにアーティストからのサポートもあったし、お金を稼いでいたから他の囚人は皆驚いてたよ。だから食事に関しても何も問題はなかった。ストリートからフレッシュな料理さえ運ばれて来たからね。俺は医者に病気だと嘘の診断書を書いてもらっていたんだ。だからSpanish Townの刑務所ではパワーを持ちすぎた。ある時は俺が刑務所を動かしていた。だからGeneral Penitentiary刑務所に移送されたんだ。
●それでは刑務所で学んだことは何でしょうか?
J:謙虚であり、賢くあり、よく考えること。ストリートではどうやってスマートにカードを切っていくか。俺のようなことは誰にでも起こりえることなんだ。刑務所の中では無実の罪で捕らえられた人も見てきた。
●それでは、Robertがあなたのマネージャーになりましたがどのような経緯でしょうか?彼から期待するものは何ですか?
J:まず神の思し召しによるものだと思っている。ジャマイカだけでなく世界を見渡してみれば、たくさんの才能あるアーティストがRobertと働きたいと思っている。だが中々そうはいかないさ。俺にそのような資格があるとは言えないけれども、俺はトライしている。俺だけが才能あるアーティストだなんて思ってもいない。彼が要求するレベルはとても高い。俺の夢の1つはRobertの様な素晴らしいマネージャーと仕事をすることだったから、俺にとってはまず最初の夢が叶った。俺は刑務所から出て幾つかのスタジオで曲作りをしていたが、俺にとってはBig Yard Studioよりも素晴らしいスタジオはないと思っていた。だからこのスタジオを作った人は素晴らしい人だろうと確信していた。それがRobertだったんだ。昔はみんなShaggyのスタジオだと言っていたけれどRobertが作ったものなんだ。このスタジオを作った人はきっとジャマイカのレゲエ業界やビジネスにとって、貢献している人だと思っていた。プロフェッショナルでサウンドも最高の、先ずこのスタジオに惚れ込んだ。俺のヒット曲の中の1つである「Unconditional Love」はここで録られたものだしね。以前はKing Jammy’s StudioとBig Yard Studioの2つを使っていた。Big Yard Studioに出入りはしていたけどRobertはジャマイカにいない時も多くて、直接会えるチャンスはなかなか訪れなかった。 たまに顔を会わせると「お前は良いアーティストだ」とか「これをこうしてこうやると、こういう結果になるぞ」とアドバイスをくれた。しばらくは出来る所まで自分でマネージメントもやっていたんだけど、だんだんとそれも難しくなってきたことがターニングポイントだった。ある日のこと、Beresが俺を座らせて「素晴らしいマネージャーを付けること、いくらお金が入ってきてもキチンと貯めておくこと、自分自身が適切に行動出来る環境を作ること、チームを組むこと」と助言してくれた。それと、本当に誰も俺に言ってくれなかったから知らなかったんだけど、RobertはShaggyのマネージャーを辞めていたんだ。2年間もBig Yard Studioに出入りしていたのに、他人のビジネスにはあまり頭を突っ込みたくないから気が付かなかった。だからそれを知った時は、これが俺に与えられたチャンスなのではないかと思ったけど、いざ話そうと考えるとRobertにどうやって話しを切り出したらいいのか悩んで、チャンスを逃がしていたんだ。でもある日、彼のオフィスのドアをノックした時に、彼はきっと俺が何を言い出すのかを分かっていたと思う。彼はスマートだからね。何度かミーティングをした後、彼にマネージャーになってもらった。俺はずっとRobertを信じていたし、彼と働くことができるなら何でも出来ると思っているよ。素晴らしい結果が残せるはずだよ。
●それではRobertに聞きます。なぜJah Cureと働くと決めたのですか?
Robert:まず一番の理由は、彼の優れた才能とタレント性、それに彼はスマート(賢い)だってことだ。さらに彼は、話しをよく聞いて学ぼうとする姿勢がある。Cureと直接会って分かったことだが彼には自分を磨く向上心がある。だいたいのアーティストは自分自身が成長することではなく、金を稼ぐことに走ってしまう。それはアーティストを見る時に大きな要因だ。こういうジャンルの世界で働くには、ある程度の規律を持てる人間でなくてはいけない。お金が欲しい、ライフスタイルを向上したい、全ての物を手に入れたい、、、だいたいのアーティストはそうなってしまうものだ。ただ彼は自分の成長を考えていた。だから実を言えば、彼にこんな注意めいたことを俺はまだ言った事がない。もちろん彼についてもきちっとリサーチをしたよ。だが実際は、彼と働くという意味ではまだ始まっていないと思う。今はまだ、彼をよく見て観察して学んでいるところだ。だから最も大事なことはアーティスト自身が成長したいかどうかにかかっている。だぶんECなら分かるはずだ。ECもそういう人間であると思うし、彼だってそういうアーティストを捜しているはずだ。ただそういうアーティストは中々いないんだ。
●二人とも今日はありがとう!