MUSIC

屋敷豪太(GOTA YASHIKI)

 
   

Interview by Shizuo”EC”Ishii Photo by up_tyo

2018年10月にRiddimOnlineに掲載されたインタビューです。

Mute BeatのドラマーからPlasticsを解散した中西俊夫、佐藤チカが結成したMelonに参加し、その後イギリスに渡った屋敷豪太(GOTA)は、日本人として前人未到の経験をし、今また日本の京都に居を移して活動している。現在の屋敷豪太の心境とは。

●では、昔話から。渋谷PARCO近くの店で「Mute Beatを脱けてイギリスに行きたいって言われて夜遅くまで話したのを覚えてる?「じゃあ、しょうがない、行ってきて」みたいになって。

GOTA(以下、G):その時は「1年、2年行きたい」みたいな話しで、最初はMelonで半年位行ってた。帰って来て1年位経った86年かな?その頃、Muteが初めての12インチ・シングルがファミマか何かのCMでね。

●「Coffia」「Summer Time~」「Echo’s Song」の3曲が入ってる12インチで「Coffia」がCMで使われたのが86年。3曲レコーディングして抜けるのはマズいなと。でもオーガスタス・パブロが来日して世田谷代田のスタジオで「Still Echo」のリミックスをやった時は帰って来てたんだよね。あれが87年だと思う。その年は青山スパイラルの3階のホールで、“Gladdy meets MUTE BEAT”をやって、その時は楽屋に来てたからロンドンじゃないよね。

G:そう、87年は日本にいて、あの時のグラディは、オーバーヒートで初めてのCDだったじゃないですか。

●そうだったかな?『Don't Look Back』ってレコードは出したけど、CDも出したかな?

G:あれは、愛聴盤でしたね、よく聴きました。

●今年の7月、渋谷クアトロ30周年記念でDUBFORCEが出演したけど、そのクアトロの88年のオープニング・イベントが“Roland Alphonso meets Mute Beat”で、ベースの松永(孝義)くんがちょっと引っぱられて、不在って話しになって・・

G:出演できないかもしれないっていうので、リハスタでベース弾いた事あるもん。

●そう、こだま(和文)君が「GOTAはベースを全部覚えたよ、やっぱ凄いよアイツは」って、だから俺はあの瞬間は2つの問題を抱えていた(笑)。松永君の名誉のためにも言っておくと、実は関係なくて数日で出てきたけど。

G:そうだよね。ローランド・アルフォンソも来日できるかどうかってことになってた。でも2人ともステージに立ってるのを僕は観たんですよ。あれでベーシスト・デビューしてたかもしれないっていうね(笑)。
 それで本格的にイギリスに行きたくなって88年の8月に行ったんですよ。前にMelonで行ってた時はずっとスタジオだったから、知っている人も殆どいなかった。でもボムザベースのティム・シムノンと、あとワイルド・バンチのネリー・フーパーは、たまに日本に来てDJをやっていたから知ってて。

●六本木インクスティックとかで俺も観に行ったことがあると思う。

G:そう、ワイルド・バンチで東京に来てたかもしれない。僕がメロンでロンドンに行ってる時に彼らに色々とクラブに連れてってもらってその2人だけはよく知っていた。その2人に「何かやりたいと思って来たんだよね」みたいな凄くアバウトな話をしたら、メロンのレコーディングの時に、僕が機械を色々操れるのを知っていて、ネリーが「今Soul Ⅱ Soulのレコーディングをしてるから手伝ってくれない?」って話しになって。「何それ、Soul Ⅱ Soulって毎週水曜日のクラブイベントの名前だよね?」って言ったら、「そうだけど、その雰囲気のチームでレコーディングしてるから、手伝ってよ」みたいな話しになって、割とSoul Ⅱ Soulの仕事ばっかりしていたんですよ。

●Soul Ⅱ Soulって言ったらジャジー・Bだと思うけど。でも作っていたのはネリーなわけ?

G:基本ネリーがプロデューサーとして色んな事を全部、スタジオのブッキングからミュージシャンの手配から全部やって、ジャジーはアーティストです。Soul Ⅱ Soulはジャジーで、それをプロデュースしているのがネリー・フーパーで、僕はドラムも叩くけどプログラマーとして彼に雇われた形。

●なるほどね。そうしたら、それが世界的に大ヒットしちゃった。

G:大ヒットして、その時は何を出してもチャートに入って大体1位になっちゃってね。あの頃はリミックスが流行っていて、だから色んなアーティストのリミックスをやりましたよ。僕ももう良く覚えていないけど、ジギー・マーリーとかも、B.A.D.とか、PILとか、あとB-52'sとか、とにかく凄くたくさん。もう社会現象みたいになっちゃって、日本ではグラウンド・ビートとか言われちゃって、なんでもかんでもどんなアーティストもあのリズムを使うようになったからリミックスも僕らがやってたけど、世間でワーワー言っている時はもう僕の中では古いものだったんですね。そうなってる時に、ネリーのところにアイルランドのシネイド・オコナーっていう・・

●そうだ、彼女もレゲエやって、ジャマイカも行ったよね?

G:そう、その彼女がネリーとSoul Ⅱ Soulの人達でああいう音を創りたいってオファーがきたらしく、それで「Nothing Compares 2U」っていうのをやったら、それもまた凄くヒットしちゃったじゃないですか。あの頃はネリーの家で基本のプログラミングとかストリングスとかを全部僕がやって、世に出ているやつはピアノ以外を全部僕がやっている感じかな。そんな事をやってるうちに業界で「Gota Yashikiって誰なんだ?みたいな話しになっていて、色んなプロデューサーが目をつけてくれて、その中の1人にスチュワート・レヴィンっていうSimply Redのプロデューサーがいたんだけどね。
 僕はその頃、Soul Ⅱ Soulをやってて、別に僕のバンドでも無いし手伝っているだけだし、こんな話しをここで言ってもしょうがないけど、ジャジーとかもワァーって売れちゃったから、だんだん裸の王様みたいになっちゃって、僕がもう嫌になって半分喧嘩別れみたい。向こうは凄いギャラ貰っているのに、一番仕事しているのは僕なのに「だったらいいよ」って、離れる離れないですごく揉めたことがあったり、そうこうしている内に「GOTAっていうのが、縁の下の力持ちみたいなのをやっているらしい」っていう話しが伝わって、来た話しのひとつがマイケル・ローズのソロアルバムですね。

●ああ、ブラック・ウフルを抜けたマイケル。

G:東京にいる時に、ブラック・ウフルをずっと聴きまくって大ファンだったから、彼と小さなスタジオでプリプロから曲作り始めて。レコード会社は、それこそグラウンド・ビートで凄く流行っていたマキシ・プリーストの「Close To You」の二番煎じみたいな曲をやらせたかったんだと思うのね。でも僕的にはもはやそんなの全く無理で、凄くコアな音作りでフェラ・クティにサックス・ソロをやってもらったりとかしたの。「アフリカの代表って言ったらフェラ・クティだろう」って半分冗談で言ったら本当にやってくれる事になって、パリまでレコーディングに行ったり。そんな事をしてたらレコード会社的にも、コマーシャルじゃないのもアリだってことでアルバム全部を僕が作って納品したんだけど、結局彼らは、また違うプロデューサーとかリミキサーを入れて数曲は僕の本意じゃないものになっちゃった。でもフェラ・クティが入っている「Just Do It」という曲は、コルグのキーボードだけで作ったトラックにフェラ・クティが吹いていてマイケル・ローズが歌っている曲は、そのまま使って貰えてて良かったなと、まあそんな事があってアルバムは出たけどそこまではヒットしなかったのかなあ。でも、ジャマイカもそのレコーディングで何回か行ったりしてマイケルとはずっと今も良い友達。
 後は自分のソロ・アルバムをやったり人の手伝いをしているうちにSimply Redのレコーディングに行く事になって・・・。
 あの頃はプログラムっぽい音がもてはやされていて、スラ・ロビのスライもだけど、打ち込んでハイハットだけを生でとか、そんな感じで僕もやっていて、それがその当時の主流だった。そのSimply Redが借りてたスタジオが、ホテルの敷地内にスタジオがあるって言った方が良いのかな。凄く広くてレーガン大統領か誰かが来たみたいな所で、ゴットファーザーの映画に出て来る様な5メールくらいのカーテンが廊下にズラっとあって、ゴルフ場も、サッカー場もあるし、乗馬も出来る。プールも畑もあるみたいな敷地の一部にスタジオがある凄い所でレコーディングが始まって、何日か経つとうちとけてきて、ホテルに帰る前に酔っぱらってジャムセッションになったら「GOTA、ドラム叩けるの?」とかなって、結局『STARS』っていうアルバムの半分くらいは僕が生ドラムを叩いて、半分くらいは打ち込んだんですよ。そうしたらリーダーのミック・ハックネルが、「ここまで一緒にこんなサウンドで作ったら、俺はお前無しではツアーに出たくない。バンドに入ってくれ」って言われて、前のドラムはクビになっちゃって僕が入ってワールド・ツアーをやることになった。それは凄く良い経験だったなと思います。既に売れていたバンドだし、そのアルバムでよりもっと売れちゃったので、皆“ファースト・クラス・ワールド・ツアー”って言っていて、行った街では絶対に良いホテルだし、移動もリムジンで、「何か俺もロックスターになった気分だな」とか思いながら良い経験をさせてもらった。でも僕的には今思うと凄く売れすぎちゃってね。イギリスのアルバム年間1位ってあるじゃないですか、それが2年連続でそのアルバムが1位だった。それってちょっと考えにくいでしょ?

●う〜ん、考えられないね。

G:考えにくいでしょ。今でもギネスに載ってるらしいんだけど、そんな状況で2年間そのアルバム・ツアーをやって、僕の誕生日を2回迎えたの。そうしたら「俺、こんな事をやっていて良いのかな。もっと曲も作りたいし」という気がしてきて。勿論ツアーは楽しいけど「ちょっと僕が思っているやりたい事とは、ちょっと違う」って言って、そのツアーが終わった時点でミックに「ツアーで良い経験させてもらったけど、もうちょっとできない。レコーディングだったら喜んでやるけど」って言って。それで離れて自分のソロアルバムを作ったり、他の人のプロダクションをやったりだとか。そうしているうちにまたミックともレコーディングをするようになるんだけど。その頃スタジオも作って、なんだかんだやっているうちにまた石井さんから連絡をもらってMOOMINのレコーディングをやったのが2000年に入ったくらい?

●99年の「MY SWEETEST」って曲かな。

G:90年代後半だからSimply Redのワールド・ツアーを2年やったのが、90年、91年、92年とかその辺で、93〜94年くらいにソロアルバムを作って、そのまま自分でスタジオ作ってやっているうちに3〜4年経って石井さんにまた会ったって感じ。

●凄かったんだね。ちょっと話しが逸れるけど、97年くらいかな、俺はジャマイカでスリラーUをマネジメントしていて、一番でかいアンカー・スタジオをブッキングしてたら、スライが「お前が押さえてるスタジオ時間を俺にちょうだいよ、ミックが来てるんだ」って言ってきて、俺はレゲエ好きのミックならミック・ジャガーだと思ったんだ。実は80年代に自分のOVERHEATレーベルでバニー・ウェイラーのアルバムをライセンスして出してたんだけど、その中の曲をSimply Redが1曲カバーしていて、グラミーにノミネートか何かになったことがあったからミック・ハックネルがレゲエ好きだってことは知ってたんだけど、ミック違いだった。

G:それは、ジャマイカで?「Night Nurse」のレコーディングかな?

●そう、グレゴリー・アイザックスの曲のカバー。後で分かったんだけど。

G:だから僕もね、Simply Redって曲は知っていたけどバンドを殆ど知らなかった。それこそタワーレコードでリー・ペリーの名前で「Massive Red Mix」を買って「へえ、Simply Redか、ミックス良いな」って。その後の「Holding Back The Years」とか「If You Don't Know Me By Now」とかも聴いて「これもSimply Redなのか、レゲエのバンドじゃないんだ」と思いながらレコーディングに行った覚えがある。彼らはそれまでにもうアルバムを3枚出していたから、たくさん資料を貰って聴いて「この曲知ってる」とか。この間も宮崎(DMX)と話していたら、そのMelonでレコーディングか何かをやった時に、宮崎もロンドンでK.U.D.Oちゃんとハマースミス・オデオンでJBの前座でSimply Redを観たって言ってた。「まさかそれをGOTAがやるようになるとは」とか言って、僕はそのライヴの時はニューヨークに行っちゃってた。

●日本にまた軸足を移し始めたのは?どういう心境の変化?

G:それは2000年前後からまたSimply Redのレコーディングをやるようになって、「ちょっとだけツアーやろうよ」って、またワールド・ツアーとかをやったりしていても日本の仕事はずっとしていて、うちの母ちゃんも歳をとってきたりして、帰って来る回数も増えてきて、自分自身も食べ物が最終的には辛くなったっていうのが一番ネックだったのかなって思う。若い時はパンとコーヒーがあれば良かったけど、京都の山奥の野菜を食べてた人間が、東京に出て来て「野菜ってこんな感じ?」って思って、それが今度はロンドンに行って、野菜なんてほぼスペインからの輸入だったから、食べ物に関しては本当に大変で。 40歳を超えたあたりから日本に来ると食べ物だけじゃなくて日本語の歌詞も刺さるようになって、その歌詞が刺さるスガ(シカオ)君だったり、槇原(敬之)君だったり、それまでは只の遊び仲間だった(藤井)フミヤの事務所に所属してフミヤの仕事もやる様になったりしてる。音楽の情報も2000年辺りからどこにいてもインターネットで入ってくる様になったでしょう? もう当たり前の様に東京にいても京都にいても極端に言えば情報的には困らない。
 ソロアルバムを作っていても、Simply Redのサックスのイアン・カーカムっていうのに、「この部分にサックスが欲しいよ」って言ってデータを送ったら、ビューって吹いてそれもすぐ来るしね。

●そうだね、この15年くらいで一気にそうなってしまったよね。俺もジャマイカに行かなくてもトラックもミックスも頼めるし、相手の顔を見てコーラスの指示だってある程度はできる。

G:向こうに住んでいる時に日本の歴史のことを聞かれても全く分からず恥ずかしくて。「天照大御神って何?神社や寺ってなんであるの」とか、今は凄く日本の文化を知りたくなって、そういう年齢になってきたのかなとも思う。でも音楽を長くやり続けていれば「人間にとって音楽って何」って思うし、元々僕も祭り太鼓からドラムに入っているから祭りの音楽とかも凄く興味が出て来て、京都に住み始めたら踊りとか陶芸、絵も版画も日本の文化は凄いなと思っている。80年代後半から2000年位迄は、凄く洋楽かぶれ、洋バカだったのが今は邦バカみたいな感じで、今はそれが楽しくてしょうがない状態。

●なるほど、今やっているソロと、DUBFORCEと、小原礼さんとやってるRenaissanceと、あと他には何が?

G:スガ君とやっているNHKの「プロフェッショナル」の音楽を作ったkokuaってバンドと、DUBFORCEでしょ、Major Forceもちょっとずつやったりね。
 礼さんとのRenaissanceは2枚目のアルバムがもう出来る。あと自分のソロのコンセプト・アルバムを今年中に発売出来たら良いなと。これはA面B面があるアナログ盤でジャケ買いするくらいの大きさが良いよね。海外でも出したいから、英語でやりたいと思っていたら、僕が住んでいる近所にクリス・モズデルが家を買って引っ越したんだって。僕は加藤和彦さんが亡くなる前に一緒にVITAMIN-Qっていうバンドをやってたんですよ。その時に加藤さんが歌詞を頼んでいたのが、クリスで。

●YMOとかもやっていたよね。

G:YMOの「Behind the Mask」なんて、マイケル・ジャクソンが歌って、エリック・クラプトンで大ヒット。そのクリスに、「京都にいるってことは日本の文化や歴史に興味があるんでしょう?」って話したら「あるある」って。それこそ歴史の話しじゃなくて日本人の精神的な話しとか色んな事をクリスとお茶を飲みながら話して、それでクリスが詞を書いてくれてる。曲が先のもあるけど、詞を見ながら歌を作った事が今まで無かったから凄く新鮮で、面白くて。
 さらに京都でファーストコールってスタジオを持ってる谷川さんという人と3年くらい前に知り合って、それこそ石井さんも来たロンドンにあった僕のスタジオの機材と同じようなスペックが、まさかの京都にあった。マイクから、ヴィンテージ機材から、僕が持っていたのと同じ卓まであって、谷川さんも僕の事を凄く知ってくれていて、「アルバムを全部持ってますよ」みたいな話しで、そこでソロアルバムを作ったり、大沢君(モンドグロッソ)の「ラビリンス」のDUBFORCEリミックスとか、今回の7インチ・シングルの「LIAR DUB/光り出しそうだ
もそこ。徐々に僕の音楽制作環境が、京都の中でまさかの凄い展開になってきています。
 あとは、自分の妻がちどりやっていうオーガニック化粧品をやっていて、彼女の影響が凄く大きい。「You are what you eat」ってことわざで、あなたの食べたもので体の全てが構成されているみたいな意味。僕の田舎の綾部は、京野菜のメッカみたいな所で、そこの野菜を食べると「子供の頃はこんな味だったな」と思い出すし、水道水にしても塩素を使ってない井戸水で全部やるようにしている。
 ちどりやの工房として、色んな野草の力強さのエネルギー源とかビタミンとかを調べたり製品も作れる家があれば良いと思って探したら、畑も田んぼも山もついてめちゃくちゃ安いんですよ。そこを改装して稼働しはじめて、近所の人とも仲良くなって野菜のことを教えてもらったり。その野菜は本当に美味しいし柔らかくてドレッシングも必要無いんだよね。無農薬の野菜は置いておいても腐らなくて只枯れて皺になっていくだけ。農薬を使ってる野菜は腐るし皮は厚いし堅い。買った野菜に農薬がかかってると嫌だから湯沸かし器を50度にしてガーッて洗うと溶けて流れるし手が荒れてカサカサになる。でも地下水で50度洗いを始めたらカサカサしなくなった。毎日塩素を飲んでいるんだなとか、頭洗うのにいつも塩素を浴びているんだなと段々思ってきて(笑)。そっちの方向にけっこう入っている今日この頃の僕ですみたいな感じ・・(笑)。