ART

ED TEMPLETON

 
   

Interview by Yosuke ”CB” Ishii, Photo by Shizuo ”EC” Ishii

2018年2月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

スケーターでありペインター、カメラマンでもあるEd Templetonに生い立ちとその創造エネルギーをチェック。

●子供の頃の話を聞かせてください。

Ed Templeton(以下、E):僕の家族はとても貧乏だった。お金がないからカリフォルニア州コロナのトレーラーパークに住んでいて、父は僕らに手を上げたりする人だった。僕がスケートボードに出会ったのは両親が離婚した時で、それは混乱の中から自分にとってポジティブな何かが見つかった瞬間だった。最低だとは言わないけど、自慢出来るような少年期を過ごしてはいなかった僕が、ハンティントンビーチに移った時そこには大きなサーフィンとスケートのカルチャーが存在していて僕はスケートを始めたんだ。サーフィンよりスケートの方が安かったからね。まず最初は全てみんなのお古を貰って組み立てたんだ。だから少年期があまり良くなかったからスケートに出会えたっていうのは、僕にとっては良い事でもあったのかな。当時を振り返っても悲しんだりはしないし、それがあったから今の僕があると思うとハッピーだよね。

●兄弟はいますか?

E:1人いるよ。彼は18歳の時にガールフレンドを追いかけてウィスコンシンへ行ってしまった。それからずっと向こうに住んでいて、たまには連絡を取るよ。

●スケートを始めたのはいつですか?

E: 1985年だから13歳の時かな。周りの友達に比べれば遅い方だったね。また同じことになるけど、忍者に憧れているどこにでもいる子供がスケートを始めたとたんに人生を劇的に変えてしまった。小さい時は本当に忍者になりたいと思っていたからね(笑)。スケートを見つけてからは学校にうまく溶け込めなくなってしまった。というのも85年だから当時スケートをしていた奴らっていうのはだいたい社会のはみ出し者みたいな感じがあって、僕はみんながやっていたベースボールなどのチームスポーツに入る余裕が無くなっていた。僕がスケートを手に入れた瞬間から、怖くて近寄りがたかったはずのモヒカンのパンクキッズなんかが「こっちで遊ぼうぜ!スケートするんだろ、お前は仲間だ」って声をかけてくれるようになって“ワオ!この小さな乗り物がヤバいなと思っていた奴らの仲間入りをさせてくれた!”ってね。それからはパンクロックなどの音楽を彼らから教えてもらってスケートが新しい人間関係や音楽など色々な扉を開いてくれたんだ。それからは何も無かったのに沢山のコミュニティと繋がったよ。

●ジェイソン・リー(元プロスケーターで現在はハリウッド俳優)とスケートをしていたと伺いましたが?

E:そうだね、ジェイソンも僕と似た様な子供時代を過ごしたと聞いてるよ。当時ハンティントン・ビーチには2つ高校があって、彼は僕と違うもう一つの学校だったけど、お互い上手くなっていたから意識し出して一緒に滑る様になってたね。なんて言うか、ジェイソンの方が僕よりも先をいってて学校をサボリまくってスケートをしてたんだよね。僕はもうちょっとマシだったよ。だからジェイソンはプロスケーターとスケートするチャンスがあったんだ。ある日ジェイソンがマーク・ゴンザレスとスケートしたって聞いてとても羨ましかったのを覚えているよ。僕が学校でボーッとしている間にジェイソンは高校を抜け出して世界のマーク・ゴンザレスとスケートしてたんだよ! そのころから僕も学校はサボるべきだなと思ってあまり行かなくなったよ(笑)。それが彼はなんと今や有名なハリウッド俳優になってさ。

●今でも連絡を取り合ったりしますか?

E:うん、するよ。ジェイソンは今フォトグラフィーにハマッているから写真について話したりするね。以前はスケートボードの世界で、今はアートの世界で同じ世界にいるよ。

●ドローイングはどの様にのめり込んだのでしょうか?

E:本当に小さい時からドローイングをしていたからね。いつも言うんだけど子供の頃はみんな絵を描くんだ。それなのに大人になるにつれて絵を描かなくなる。理由は分からないけど僕はそれを続けてきたことは幸運だよね。上手ではなかったけどスケートを始める前から描いていたし。

●今ではRiddimはオンラインでも情報を発信していますが、Riddimは紙媒体でも作り続けています。あなたも今までに沢山のジンや写真集を出してきていると思いますがそのモチベーションはどこからきていますか?

E:きっとRiddimに携わっている人と同じ気持ちで、形として残る紙媒体をとてもリスペクトしているし、”手に取ってみる”ということが特にフォトグラフィーでは重要だよね。紙媒体で連続して写真を見ることはフォトショウなどで見るよりもひょっとしたら良い時があるかもしれない。単純に紙媒体として僕の名前が入ったものが本棚に並んでいる方がオンライン上よりも形としては良いかなと思う。僕は雑誌も読むし、Thrasherなんかもオンラインより雑誌で読む方が好きだね。

●それでは初めてジンを作ったきっかけは何だったのですか?

E:多分同じ願望からだと思うよ。自分で出版するには印刷費が必要だから、普通なら出版をOKしてくれる出版社を探さなきゃね。でもスケートカルチャーっていうのは大きなD.I.Y.カルチャーで、僕が考え出したわけではないけれど昔から多くの友達がジン・カルチャーに携わっていたし、誰も僕らにジンをくれなかったから自分達で作り始めたっていうのがきっかけかな。僕がパンクミュージックに興味を持ち始めて、Maximum Rocknroll Magazineのインタビューを読んだ時に、誰もが手紙を送ったりしていることを知ったんだ。インターネットや携帯以前の話だよ。

だから誰かに接触しようと思ったら住所を探し当ててジンと一緒に手紙を送ってさ。ブックを作ったら向こうは僕を知らなくても僕が好きな人であればブックを好きなフォトグラファーにも送ってるよ。そうする事で沢山の可能性が広がるんだよ。何かを作って誰かに送るというスタイルは外の世界に対して知ってもらうことにもなる。僕の好きなフォトグラファーのジム・ゴールドバーグにも住所を調べて送ったら「本が届いたよ」って電話をかけてきてくれたんだ。そして彼は「サンフランシスコで講義をしているから僕のクラスでスピーチしてよ」って言ってきて、そこから友達になったんだ。もちろん送っても見てくれないかもしれないし、返事をくれないかもしれない。だけど彼は電話をしてきて今は友達なんだ。
だから若い子達にはいつもジンを作れって言ってるんだ。売らなくて良いんだ、とりあえず友達からでも配っていくことが良いアイデアだと思うよ。それをきっかけにして自分が好きなジャンルの世界に足を踏み入れることが出来るんだ。

ある人達は高価そうな大きな本になるまで自分の作品をとても大切にキープし過ぎたりするけど、誰もが高額の作品集を欲しいわけじゃないかもしれない。だからジンはパーフェクトなんじゃないかな。今回渋谷のPilgrimで展示してもらっている写真もインスタグラムでしか存在していない写真なんだ。いつもはデジタルの写真は披露しないんだけど彼らの説得で“日常のある一瞬”を撮ったものが並んでいる。壁に展示されたのを見たら面白いと思ったけどね。

●自身のプロモデルのスケートデッキにグラフィックを描こうと思ったのは何故ですか?

E:きっとどこのキッズも同じだと思うけど、子供の頃にスケートショップへ行った時に売られているデッキのアートワークに興奮して、特に僕が好きなデッキの幾つかはそのプロによって描かれたものだってことが分かったんだ。マーク・ゴンザレスは自分で描いたアートワークをデッキにしているとショップスタッフに教えてもらって、それって他のデッキよりももっとクールだって思ったんだ。マークはプロスケーターで、さらに自分のデッキ・グラフィックもやってるのか、クリス・ミラーやニール・ブレンダーもとても良いなって。だから子供の時にもし自分がプロになることがあったら僕も自分でグラフィックを描きたいと思ったんだ。

そこから5年くらい時が流れて本当にプロになった時に自分でグラフィックを描かなくちゃダメだと思ったんだ。僕は絵が上手かったとは言えないけど自分自身に約束していたし、Toy Machineがスタートして数年後の2008年には、金銭的に会社がきつくなった。僕はToy Machineの親会社のTum Yetoというカンパニーのトッド・スワンクと仕事をしていたんだけど、彼もウチのカンパニーには金銭的余裕が無いから今後はToy Machineのグラフィックは全部君がやらなきゃダメだって言ってきて(笑)、だから2008年から今に至るまでToy Machineのグラフィックは全部僕がやってるよ。その前は友達の(故)マーガレット・キルガレンやクリス・ジョハンソン、トーマス・キャンベルなどにデッキシリーズをやってもらった時もあったからね。でも自分でやることは僕にとって良かったと思う。数ヶ月に1度、25枚くらいのデッキをデザインしなきゃいけないんだけどそれは自分自身に課されたテストみたいなものでさ。今でも楽しいと思ってるよ。僕の仕事だしね、ははは。

●マーガレット・キルガレンは古くから知っていたのですか?

E:そうだね、僕と僕の奥さんのディアナは当時マーガレットと前夫のバリー・マッギーとすごく仲良くしていた。僕達はイタリアに居て、たしかトービン・イェランドが電話してきたと思うんだけどマーガレットが亡くなったって伝えてくれたんだ。僕はその当時マーガレットが病いを抱えている事すら知らなかったし、同時にバリーはヴェネツィア・ビエンナーレでアートショウをやっていたから僕達はプランを変えてヴェネツィアへバリーのショウを見に行ったんだ。バリーはショウの準備をしている時からマーガレットの容体が良くないのを知っていたからなるべく早く終わらせてマーガレットの所へ戻るつもりでいたんだ。だから彼の作品のほとんどはマーガレットに関してのものだった。とても小さなものからタギングを見てもマーガレットの名前や彼女のグラフィティネームである“Matokie Slaughter”の文字や“Meta”のタギングが描いてあってショウを見ながら僕達の目からは涙が流れた。とても悲しいことだったね。

●エドの作品にはヌードやセクシャルな物も多く出てきますがそれについてご両親やご家族と話したことはありますか?

E: ははは、いくつかの作品は秘密にしてるね、僕の母は知らないからね(笑)。母はあまりアートに興味が無いから僕の本などもあまり見てないね(笑)。僕の祖父と祖母は数年前に亡くなったけど彼らも理解できないだろうと思って見せていなかったから僕のアートについても話したことはないかな。でも僕のおじさんはリベラルでクールだから僕の本を持っているね。僕の祖父と祖母は宗教心のある人達で共和制主義者だったからね。でもほとんどのヌードはディアナ(エドの奥さん)だよ、僕たちのセックスライフだね、ははは。

●Toy Machineはいつも素晴らしいライダーをサポートしていますが、どういう目線でスケーターを選んでいるのですか?

E:基本的に僕は人に恵まれていると思うんだけど、Toy Machineはスケートが上手いだけではサポートしてない。スケートがどんなに上手くてもパーソナリティーが良くないと僕には響かないね。クソヤロウにはToy Machineは乗って欲しくないからね。Toy Machineのスタイルに合っていて、僕らと上手くやっていけるスケーターだね。巡り合わせもあるけどもしかしたら僕にはそういったスケーターを見る目があるのかもね、ははは。

●なぜスケーターはアーティスト、ミュージシャン、フォトグラファー、ビデオグラファーなど沢山の才能を持った人たちがいると思いますか?

E:スケートボードはとてもクリエイティブだし、ルールがないんだ。世界を別の方法で見てクリエイティブなことを膨らませる。クリエイティブな活躍をしている人のほとんどは人としてスケート以外でもクリエイティブなんだ。“スケートボードが”というわけではなく、クリエイティブなことがスケートボードから人を集めるんだ。

当時僕と同世代のスケートボードに出会った多くは、それ以外には何もフィットしなかったからなんだ。これは”疎外感”にも少し繋がるかもしれないね。先程のDIY精神と同じで僕らは僕らで何かを作って動いた。ブックやジンを作り、音楽を作ってライブをしたり、特にパンクバンドなんかは誰からもショウのオファーがかからない。だから自分たちでウェアハウスを借りてショウをやる、口コミやフライヤーで告知をして実行するんだ。それがクリエイティブなんだ。視野を広げてやってみる、待っているのではなくてね。多分スパイク・ジョーンズが現在素晴らしい監督なのはスケートボードを通ってきたからだと思うよ。もちろん彼は小さい頃からクリエイティブなキッズだったに違いないけどね。

●あなたにとってRVCAとは?

E: RVCAは僕にとってのプラットフォームだね。歳を重ねるに連れてプロスケーターとしては引退したけど当初はスケーターとしてサポートしてもらい、今はアーティストとしてサポートしてもらっているからね。RVCAはアーティストの良きサポーターであり、僕の様なアーティストであっても、アートショウの開催を連絡すればスポンサーになってくれて、フライヤーが作れて、スペシャルなRVCAのTシャツを生産してくれる。彼らはいつも手を貸そうとしてくれるんだ。多くのブランドはそこまでアートに対して手厚いサポートをしてくれない。それだけでなくRVCAはブランドとしても大きく、きちんとサーファーやスケーターのチームメイトにもお金を払いサポートしているんだ。だから僕がアートショウという形でRVCAに貢献出来るのもとてもクールな事だと思う。今ここでCBにインタビューされてるのもRVCAがサポートしてくれているおかげだから本当に彼らの活動にはリスペクトしている。だから僕にとってはスポンサー・ブランドというよりはパートナーシップ、またはコラボをしている相手の様な存在だよね。僕はオーナーのパットとも古くからの知り合いで、彼のブランドがこれ程までに大きくなってもコアな部分は変わらずやっているのも見ている。スーツを着た様な奴らにあれこれ言われたくないしね。