Interview by Shizuo Ishii
MUTE BEATのリミックス・アルバム『DUB WISE』を出す。このアルバムにはリー・“スクラッチ”ペリー、Wackie’sのブルワッキー、そしてキング・タビー、もちろんDMX宮崎も参加しているリミックス盤。制作したのは1988年、翌年にCDのみで発売したが、今回はデジタル・リマスター盤となってアナログで再発する。
石井:俺が撮ったかなり個人的に思い込みのハゲしい(笑)キング・タビーの写真がある。それをタビーの家族の了解を得てTシャツにしたんだけど、やはりレコードを出さなきゃと思って『DUB WISE』を再発することにしたんだ。で、昔のCDを聴いたら特にWackie'sの音が残念でリマスターしたんだ。だから『DUB WISE』のエンジニア3人の中の1人で、88年に俺と一緒にキングストンまで行ってタビーにも会ってるDMX宮崎君に今日は来てもらいました。
宮崎と初めて会ったのは1985年くらいのMUTE BEATだから40年近い知り合い。でも実は知らないことだらけ。話が太平洋に出て漂流しないように気をつけながらいきます。
ではまず、なぜエンジニアになったの?
宮崎:子どもの頃からオーディオをいじるのが大好きだった。バンドもやっていたから、高校の学祭で機材を借りてきて「宮崎、詳しいからやりなよ」とか言われて楽しかったっていうのが一つあって、その頃に吉野金次さんの本『ミキサーはアーティストだ』とか細野晴臣さんの『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』とかそういうのが4冊くらいまとめてCBSソニー出版から出て、それを読んで音楽ってミックスで全て変わるんだと知ったのね。でも仕事にしようとは思ってなかった。俺はスキーをずっとやっていて、高校を卒業したら国際的なスキー・インストラクターを育てる学校に行って、スキーの世界的な講師になろうと思ってた。中学のときに1級を取って本当にスキーがうまかった、今でもうまいけど。
石井:想像つかないな〜。
宮崎:藤原ヒロシをして「ミヤちゃんがこんなに雪の上で軽々と動いてるのを初めて見た」って言ってた。
それで高校の先生に「フランスにこんな学校があるらしいけど」って調べてもらったわけ。しばらくして「宮崎、調べたぞ、スキーは問題ないけど入学の最低条件にまず自国語の他に2カ国語マスターが最低条件とあるけど、どうする?」って言われて、無理っすみたいな。
大学に行くかどうかってときに、北海道のでかいコンサル会社にいたおやじが、1年前から東京支社長に単身赴任して、ずっとピアノをやっていた妹も東京のピアノ学校に受かって、じゃあ俺も音楽の勉強しようかなみたいな気で蒲田の日本電子工学院に受かったから、おふくろと全員で東京に出てきた。
高校の頃からだけどコンサートやライブのチケットをプレイガイドで買うときには必ずPA席の近くを取って、今日の音はいいなとかへただなとか思うようになって、その頃からなんとなくエンジニアになりたいっていうのがでてきた。
石井:原宿のピテカントロプスでバイトをしていたんだよね?
宮崎:MELONをやるK.U.D.Oさんが六本木のディスコからピテカンに引っこ抜かれて、俺の友達も六本木のディスコでバイトをしてたからピテカンがミキサーを探してるみたいだって話を聞いてきて、面接に行ったわけ。
石井:K.U.D.Oちゃん、クライマックスにいたよね。
宮崎:そう、行ったらK.U.D.Oさんに面接されてピテカンに入ったんだけど、俺も若くて世の中分かってない。専門学校でミキサーの勉強をしていたからそれで雇ってもらえたと思って入ったら、オープン当時のピテカンは死ぬほど混んでて、朝から行ってライブの準備を仕込んで、これから本番だっていうときにレストランから「皿洗いに来い」みたいな声が掛かって、えーっ、とか言って俺はずっと皿洗いしているとかね。だから5年くらい前にK.U.D.Oさんに「あのときになんで選んだの」って聞いたら、「ガタイもいいし、ガッツありそうだから雇った、以上、終了」みたいな。そうやって下働きみたいなのを続けながらしばらくやっていたら、ピテカンに入る前に一度見ていたMUTE BEATがライブをしますって来て、豪太とかみんながディレイのボタンを足で踏みながら演ってて、こだまさんも自分で持っていてプッとかやりながらパララーなんてやっていて、このバンド、俺がディレイやったほうがいいなと単純発想で「演奏に集中したほうがよくない?」って豪太に言ったら、「そうだね、宮崎やんなよ」って。
石井:それでMUTE BEATに入るわけだ。う〜ん・・・・・ここから先を二人で話しだすとすげえ長くなるからやめよう (笑)。
では宮崎が、ミックスが一番大事だと気付いたのは、どういうときだったんだろう。例の吉野金次さんの本からじゃなくて。
宮崎:吉野さんはこの世界のフリーランスの草分けでトップに位置するレコーディングエンジニアだと漠然と考えてたけど、自分がMUTE BEATのPAを色々やってたあるときに「これこそアーティストだ、ライブでダブをやるってこの瞬間にしかできねえ、俺の存在意義はここにあった」ってことに気づいて。
石井:そのあるときっていつなの。
宮崎:ピテカンでMUTEの頃。
石井:宮崎はライブ・ミックスとスタジオ・ミックスの両方をやるけど、それはどこがどう違うの。
宮崎:すごく似ていて同じエンジニアって仕事なんだけど、実は似て非なる部分が結構ある。バランスを取ってミックスをつくるところは一緒だけど、例え話として、コップに音を圧縮してギューっと詰め込むのがレコーディングだとすると、ライブは樽に音を詰め込むくらいのダイナミックレンジが違うわけ。そもそもの表現できるエネルギーが。だからコップに詰め込むための技術と、大きい所で鳴らす技術は異なるのよ。
石井:なるほどね、ジャマイカ人アーティストがまれに日本に連れてくるエンジニアが色々いて、俺の知り合いが多いんだけど、自分のスタジオならとても優れたエンジニアなのに「あれっ?」て感じでたまにダメなやつがいるね。
宮崎:レコーディングには、ハウリングマージンっていうのがないわけ。でもライブのときは大きい音で出すために処理しなきゃいけないことが色々あって、テクニカルの違いがある。同じことを表現しようとしても、下地づくりが違ったりするわけ。ボーカルの音量だって簡単に上げられない。レコーディングなら小さな音でもどこまでも上げられるけどライブでド〜ンと大きい音を出そうとすると、出てくる音に対してマイクに被ってくる音のループが起こるわけ。あとは会場の鳴りもある。そうすると、そのループがあるからステージ上でモニターができないだの何だのって問題も色々出てきて単純にミックスできるわけじゃない。イメージしたミックスをつくるためにはどうやればいいかという部分が違うから、その両方のノウハウを持ってないと対処できない。PAのノウハウとレコーディングの両方のいいとこを取って解決できることもある。意外と同じ様な機材を使っているにもかかわらず、全く違う部分があるんだよね。これは音楽業界にかなり精通している人でもその違いを意外と知らない。
石井:80年代終わりくらいかな、ライブの箱で後で壊せるような建物が色々できたけど、ああいう倉庫みたいな箱はほとんど駄目だったね。
宮崎:それで音楽を聴かせるのにスピーカーの位置とか何にも考えてないから音の良くない場所が出来る。 ブルーノートみたいなのは飯を食わせて、酒を飲ませて、もうけてなんぼなんだから、プライオリティーが違うってのは分かる。それでも音のクオリティーを求めるというむちゃにも対応しなきゃいけないから頑張るっていうことになるんだけど、音楽を聴かせる場所なのに音をコントロールする環境をおざなりにしてる現場も意外に多い。
でも最近ちゃんと考える場所も増えて、クワトロなんかも困難な小屋なりに考えて、良くしようと努力はしてる。昔みたいなむちゃくちゃなやつはさすがにあんまりない。今は機材も良くなったし、テクノロジーも進化したので、いろんなことができるようになって昔よりは全然いいよ。
新宿の今のバスターミナルがあるあたりかな、ドーム状のテントのビアホールみたいな所でライブをやったこともあったね。
石井:あ〜、MUTE BEATでやったね。外にダダ漏れだけじゃなくて外の音も入ってきちゃうようなところで近所の人の通報で警察が来て音を止められたりとか。
宮崎:そう。でもその最たるもののひどいところはピテカンだったから。
石井:あそこも変なつくりだったね。
宮崎:ものすごくやりにくかったしMUTE BEATをやっていた時代はそういうへなちょこなバブルな現場、結構いっぱい行ったから、怖いものはないよ。ひどい所はあらかたやったから。みんなが「ここひどいっすね」とか言っても、昔はもっとひどい所いっぱいあったんでとか言いながら、今は全然楽勝とか言ってやってる。
石井:世界的に見て、影響されたとか好きなエンジニアはいる?
宮崎:それはZTTのトレヴァー・ホーンと一緒にやっていたスティーヴ・リプソンっていうエンジニアがすごいと思ったのと、あとはスティーヴン・スタンレーだね。スタンレーが一番好きかも。それも彼がレゲエをミックスしたのじゃなくニューウェーブをやったのとか・・・。
(注Stephen J. Lipson:アニー・レノックス、グレース・ジョーンズ、プロパガンダ、フランキー ゴーズ トゥ ハリウッドなどのエンジニア、プロデューサー)
石井:じゃあナッソー(バハマ)のコンパス・ポイント・スタジオでトム・トム・クラブがそうだね。
宮崎:トム・トム・クラブとかB-52’sのノンストップミックスとかリミックスみたいなのをやっていたあのあたりの仕事が一番好きで影響を受けた。
石井:それはスティーブンが喜ぶなぁ、きっと。
宮崎:俺はあの人こそ本当にレゲエとポップミュージックを結び付けた人なんじゃないかと思うんだよ。レゲエ・テイストをポップミュージックに持っていった人。
石井:スティーヴンはコンパス・ポイントだとアレックス・サドキンと一緒の時代にやってたね。
宮崎:やっぱりコンパス・ポイントだよ。すごいのは70年代後半から80年代頭くらいまでアイランドが一番とんがってた頃のレコーディングっていうのはすごいよ。石井さん、クリス・ブラックウェルの家まで連れてってもらったんでしょ。飛行場があるって所でしょ。
石井:そう。彼の家というよりは彼が経営しているリゾート地っていうか公園というかカリブ海に面した岬の全部みたいな。そこはあの007の原作者イアン・フレミングの別荘だった場所で、その名もゴールデン・アイ。その岬の先には小さい島とかもあってそこにヴィラを作って売ってて、「あそこに橋を架けておくからまた10月に来い」とか言われて、そんな簡単にその距離の橋はできねえだろみたいなレベルね。近くにはイアン・フレミング・インターナショナル空港なんてのがあって多分、彼の空港。プライベートジェットのやつらが来るんだろうけど、一般のフライトはなさそうな小さな空港まであって、世界が違うね。
宮崎:秘密基地みたいなものだね、もはや国だよね。しかしあの70年代後半からのアイランドってすごかったね。
石井:そうだね、クリス・ブラックウェルのすごさっていうのは、レゲエじゃないんだよね。レゲエやボブ・マーリーを世に出したのは事実だけど、本当はロック関係がすごい。だってスペンサー・デイヴィス・グループで15~6歳のスティーヴ・ウィンウッドを見つけてからグラミーまで受賞させて、フリーとかトラフィックとかイギリスのロック発展の部分をやって、分かりやすくいえばさらにU2からエイミー・ワインハウスまでってことだよね。
そのゴールデン・アイの敷地が広いから携帯で秘書を呼んで持ってこさせたのがアイランド50周年の本『The Story of Island Records』。その本にサインしてもらったんだけど、その中にクリス氏が50年間関わったレコードがぎっしり掲載されてて、それって俺たちが大好きで影響された音楽の歴史なんだよね。レゲエも売ったけど、世界的にロックを売ったらこの岬を買うのは楽勝だな〜と思ったよ(笑)。
宮崎:スティーヴン・スタンレーっていうのは、もともとどこの流れなの。
石井:ジャマイカのアクエリアス・スタジオのエンジニアだったって言ってたね。初めてミックスを頼んだ時は、家を調べて押しかけて行って頼み込んだ。その頃は超多忙で、知らない人の電話には出なかったからね。
宮崎:それもだいぶイカれてるよね。それを探しに行くのが本当に石井さんっぽいよね。
石井:スティーヴンはキャリアがハンパないから忙しいうえに、ちょっとだけ人嫌いだけどお茶目なところがあるんだ。色々やってもらって仲良しになってくるとスタジオのアシスタントも入れない自分の部屋でコンパスポイントでのリンゴ・スターとか世界的なスターとの写真を見せてくれたり、ホテルまで送ってくれたり、カネを使い果たしてツケでやって帰国してから送金したりね。彼の1日のスタイルは7〜8時間かけて1曲ミックスしてそれしかやらない。だけど明日帰国って時に、なんとか2曲やってくれって頼んだことがあった。今みたいにデータで送れたら楽勝なんだけど。
まず1曲を終えてから、お互いもう一回出直そうって俺もホテルに帰ってシャワーを浴びて休憩して、夜のうちにホテルのチェックアウトを全部終えて荷物をレンタカーにぶち込んで、そのまま朝までミックスして、スティーヴンのところから空港まで狂ったようにアクセルベタ踏みでぶっ飛ばすなんてのもあったなぁ。
あれれ、Mute Beat『DUB WISE』の話で来てもらってるのに横道にどんどん逸れてる。キング・タビーの話に戻そう。