Interview by Shizuo”EC”Ishii Translated by Ichiro Suganuma
2017年8月にRiddimOnlineに掲載されたインタビューです。
Lloyd Barnesにインタヴューの約束をしていた。NYを代表するレゲエ・レーベルWackie’sのボス、Bullwackieことだ。だがその約束の日に電話の応答がなかった。何となく気になっていて、数日後の彼の誕生日にSkypeをしてみると、心臓バイパス手術で入院し、昨日退院して来たと言うではないか。
「それではまた1週間後に」と約束して電話を切った。
●手術後1週間経って調子はどう? インタヴューできるかい?
Lloyd Barnes(以下、B):気分は前よりずっといいよ。まだ家で休んでいるけど、でも大丈夫だ。
●まず子供の頃の話から、Lloydはどのような環境だった ?
B:私の父は私が8歳の時に死んだんだ。私が生まれた第二次世界大戦のころ彼はジャマイカの軍人だった。私が生まれたのはトレンチタウンのジョーンズタウン。あの地域はジャングルと呼ばれる以前はゴミ捨て場だった場所だ。そこの生活も悪くなかったよ。兄弟姉妹とともに公立の学校に通っていた。母と住んでいたんだ。母は裁縫した服をマーケットで売ったりしていた。自分も裁縫を学んで助けるようにしてた。その後仕立ての仕方を学んで男性用の服をつくったりもした。興味があったんだ。Stranger Coleの服を作ったりしてたんだよ。彼とは幼なじみで、一緒に育ったんだ。Ken BootheやGladdy(Gladstone Anderson)らも皆同じ地域の出身なんだ。だからそこにはいつも音楽が溢れていた。内装や室内装飾をやってたこともある。クリケットやサッカーが好きで遊んでいたよ。
当時はスカが全盛だった。つまり初期の頃だ。私はDuke Reidのトレジャー・アイル・スタジオによく行くようになっていた。Stranger Coleもそうだった。彼はDuke Reidと多くの仕事をしていたからね。 あとはSkatalitesだ。彼らとも当時はよく一緒にいたんだ。Prince Busterのために歌ったこともあった。子供の頃だ。ずいぶん昔の話さ(笑)。Prince Busterとレコーディングした曲の一つは「While I was walking」だ。スカのスタイルの曲だった。あと子供向けの曲で「Ging Gang Goolie」をスカのスタイルでやったこともあるんだ。ミュージシャンはJohnnyがドラムで、Leroy (Sibbles)がベースでね。いつも音楽の近くにいたんだ。
●それは何年ごろのことですか?
B:60年代の初めごろだ。アメリカに来たのが1967年だからね。その頃はトレジャー・アイル・スタジオにいつもいたよ。当時、Stranger Coleがレコーディングセッションを仕切っていることが多かったからね。Tommy McCookもDon Drummondもいたよ。それはずっと初期の話だ。Prince Busterが「Wash Wash」とかを歌っていた頃だった。その頃、Muhammad Aliが彼を訪ねてジャマイカに来たことがあるんだよ。
●えっ、本当?
B:そうだよ、Prince BusterとMuhammad Aliは友人だったからね。Prince Busterがボクサーだったのは知ってるだろ?ムスリム(イスラム教徒)という共通点もあってね。Prince BusterはMuhammad Aliに「俺と戦ったら2ラウンドでノックアウトで勝利する」と彼に冗談を言い合うくらい二人は同じような性格で気があっていたんだ。
●ロイドはなぜNYに移ることになったの?
B:当時のジャマイカは政治的な対立が激しくてキングストンは治安がよくなかったんだよ。それ以前はジャマイカのどこに出歩こうが全く問題なかったのに、政治的な紛争が全てを変えてしまったんだ。ジャマイカを分断してしまった。それは音楽にとって良くないことだった。たくさんのシンガーが、住む場所の違いで対立しあわなければならなくなってしまった。政治的なことに関わりたくはないけど、普通にいつも行ってた場所に突然行けなくなったんだ。若い奴らにとっては気に入らないことだった。自分はBunny WailerやPeter Toshと同じエリアに住んでいて、Bob (Marley)もそこで練習していたよ。White Streetだ。いつもBongo Jerryがギターを弾いていた。 初期の話だ。その頃二人のキーボーディストがいた。一人はTheophilus Beckfordだ。ボグジーってよばれてた。彼自身が歌ったのも何曲かあって「Easy Snapping」という曲は彼のだよね。彼はトレンチタウンの出身だ。もう1人が”Gladdy”Anderson。その頃良く一緒にいたシンガーはKen Boothe、Stranger Cole、Patsy(Millicent Todd)らだった。Gladdyはその時代のキーボード・プレイヤーだった。とても良い時代だった。Jackie Mittooはそのあとだね。
●どうやってNYで自身のスタジオやレーベルを始めたの? それはなぜですか?
B:NYに来た時に思い描いていたヴィジョンがあったんだ。当時ジャマイカではスタジオに行っても、なかなか楽器や機材に触れることはできなかった。誰もが何にも触っていけないし参加するのがとても難しかった。だから自分に言い聞かせていたんだ。いつか自分も自分のモノでプレイするんだ。そして他の人々も触れられるようにとね。もしキーボード・プレイヤーになりたいなら、キーボードに触れてもいいとね。ジャマイカではとても厳しかったんだ。ミキサーなんてエンジニアしか触れなかった。エンジニアになりたくてもミキサーが触れなくてはどうしようもないからね。楽器を所有していたら誰にも触らせたくなかったんだ。だから自分でやろうと思ったんだ。NYに引っ越して来て建設現場で働いたし、学校で学んだ室内装飾で働いたんだ。そしてある日稼いだ全てのお金をもってミュージック・ショップに行ったんだ。ドラム、そしてミキサー卓、、、すべてのお金をつぎ込んで買ったよ。マンハッタンにSam Ashっていうミュージック・ストアがあって、当時所有していた大きなシボレー・インパラのステーションワゴンで乗り付けて全ての機材を乗せてブロンクスに戻ったよ。それ以来、以前の職場に戻ることはなかった。それから毎日毎日自分のスタジオを作ることだけに没頭した。それはすごくタフだったけど、それが心から自分のやりたいことだったからね。そうやってスタジオが少しづつ機能し始めたら、ジャマイカから友達がNYに来た際に立ち寄ってくれるようになって次第に良くなっていったんだ。
●いつからWackie’sを始めたの?
B:70年代の初めごろ、自宅で始めたんだ。サウンドシステムをやっていて自宅でダブプレートを録音するようになったのが最初だ。ブロンクスの211ストリートにあった。それが70年代の後期から80年代にかけてだね。実は最近リリースしたJoe Morganは、その211ストリートのスタジオで80年代頭にレコーディングしたんだ。みんなが興奮していた。いいものは永久に続くんだ。
●そこからまた移るんだよね?それはどうして?
B:そこは地下にあるスタジオだったから、上の階で水の配管トラブルが発生してスタジオが水浸しになってしまったんだ。だからもう地下は勘弁だ。それで4731 White Plains Roadに移った。そこががWackie’s House of Musicだ。そこに13年ぐらいいて、80年過ぎくらいかな、Sonny(落合)に出会って、OVERHEATのことを知ったんだ。ニュージャージーのSonnyの家の地下にWackie'sが移ったり、もうずいぶん昔のことだね。今でもこうやって石井と話をする。とても嬉しいことでとても尊敬してる。違う所で違うことをやっているが自分にとってOVERHEATはWackie'sだと思っている。お互い心を込めてやっている。関われてとても嬉しく思うよ。
日本に行った時、日本の人々は色々良くしてくれた。ある日のことだ、ステージショウの前にバックステージのずっと奥に連れて行かれてジョイントを渡されて「ジャマイカ、ジャパンはジャーピープルだ」ってその彼は言っていた。ずいぶん昔の話だけどよく覚えてるよ(笑)。
● Wackie'sの名前の由来を教えてください。
B:当時ヨーロッパではグループが流行っていて、Teddy Boysとかイギリスのグループがあったんだ。街角で独自のスタイルの格好をしたりね。その影響がジャマイカにも来ていて、それで自分たちもグループの名前を考えていたんだ。女がいなくて男だけのグループだ。牝牛はHeiferって呼ぶけど男しかいないグループだからそれで牡牛のBull、そしてWacky(変人)は冗談でね、ジャマイカでは男性器のことをCockyっていうんだ。それで造語してBullにくっつけたのさ。おかしな話だが、Bullwackieの響き、悪くないだろ。最初はジャマイカの自分たちのグループ名だった。Bullwackie Boysってね。その後アメリカに引っ越して来たときサウンドシステムを作って、色々なパーティーに出て行くようになった。そのサウンドシステムの名前がBullwackie's Discoなんだ。地下でやるパーティーとかに呼ばれたりしていて、スピーカーやレコードを持ち込んで音楽をプレイしていた。そのサウンドシステムの名前がBullwackie's Discoだから自分はBullwackieと呼ばれるようになったんだ。だから元々はジャマイカの自分たち友達のグループの名のBullwackieが、サウンドシステムのBullwackie's Discoになって、それで皆が自分のことをBullwackieって呼ぶようになり、いつのまにか個人の名前みたいになっていた。だからレーベルを作った時には、Wackie'sにしたんだ。その方がグループの感じがするからね。自分が影響を受け一緒に育った友達のことを想ってね。
●90年代だったかな?ジャマイカにレコーディングしに3ヶ月に1度くらいのペースで行ってる頃、Lloydがキングストンにずっといるらしいと聞いて夜中にちょっと時間ができたからSugar MinottのYouth Promotionに行ったら、ほんとにいたよね。あの時って何をしてたんだっけ?
B:Sugarがアメリカに来た時にはWackie'sでよくレコーディングしていたのを知ってるだろう。当時はNYに存在した唯一のジャマイカンのスタジオだったからいい関係を築いていたんだ。だからあの時はYouth Promotionをもっとステップアップさせるために手伝いに行っていたんだよ。スタジオで必要な機材を購入してジャマイカに送ったり、中古の楽器だったり、自分が手に入れられる全てをね。彼のヴォイシングもしていたし、それは大変な作業だった。NYとジャマイカを行ったり来たりしてYouth Promotionのスタジオを作っていたんだ。
●実は今日(7月10日)がSugar Minottの命日でした。Youth Promotionからは、ほんとにTenor Saw、Yami Boloなどスゴいアーティストが沢山出現した。親友だったSugarについてLloydから聞きたいね。
B:彼は音楽を愛していた同志だ。一緒になって違った試みをした。彼は常にYouth Promotionのことを考えていた。ジャマイカの今、まさに成長させようとしている若いアーティストたちを何とかしようとしていた。だがYouth Promotionのアーティストたちをジャマイカでレコーディングしてアメリカで売り出そうとしたけど、人々はSugar Minottを聴きたがったんだ。だから結局は(そのトラックで)Sugar Minottとしてアメリカでレコーディングをし直したりしていた。それはYouth Promotionにお金を注ぐためにね。だけど若いアーティストたちには、それが理解できなかったんだ。なぜそのトラックにSugarがヴォイシングをするのか。それはYouth Promotionのためには仕方がなかったんだ。最初の頃はそんな感じだったが次第にやっていることも認められていくようになった。これらは彼の人生の一部でしかない。よく一緒にいたし、旅をしたこともる。友人として一緒に住んでいたこともあるよ。今日までまだやり残してきたことがある。実はSugar Minottの未発表のレコーディングがアルバム2枚分ぐらいある。まだリリースされてない楽曲だ。いつも考えている。突然Sugarは逝ってしまったんだ。自分にとってはその彼の新しい音楽をプロモートすることがとても難しいんだ。何年も経っていてほとんどの楽曲は誰も聴いたことがない。そのレコーディングを気に入っている。でも彼は死んじまった。時が傷を癒してくれるとも思っている。彼は自分にとって特別だったんだ。私は彼から沢山学んだ。彼も自分から学んだこともあると思う。いいことを一緒に沢山成し遂げた。
●そのレコーディングは将来リリースされる?
B:いつかはリリースするかもしれない。とても特別なんだ。だからお金ではなく特別な機会でなければいけないと思っている。そのレコーディングはとても興味深くて好きだ。だからいつか皆に届けられればと思っている。誰もがどうなるかわからないけどね。
●1984年にSugar Minottが来日した時にバック・バンドのGladdyを「この男は特別だ」と紹介してくれました。
B:そうか。自分は(ジャパン・スプラッシュを主催していた)タキオンとよく仕事をしたがOVERHEATも好きだよ。その頃のOVERHEATはファンデーションのタイプのレゲエをリリースしてた。Mute Beatのことを覚えてるよ。トランペット、あのホーンの感じが好きなんだ。タキオンも機会を与えてくれた。こうやって何年も経ってみると分かるよ。この仕事が好きなんだってことがね。石井は心を込めて仕事をするからね。それは違いを生むんだ。
●そういえばMute BeatをWackie'sからアメリカ発売して、SF(サンフランシスコ)にLloydが来てくれて一緒にSF、LA、NYまでMute Beatツアーもした。逆にWackie'sがレコーディングしたLee PerryやSugarのアルバムをこっちが日本発売したりね。ではWackie'sを運営してきて何が一番大変でしたか?
B:スタジオを存続させるための経費の問題かな。でも常に音楽が先だった。自分がやっていたことを信じていたし経済的な理由があっても自分の考えは変えなかった。今の自分はとても幸せだ。我々は今もなお変わってない。色々な人に会って来た。多くの男や若者が私に「インスピレーションを与えてくれたことを感謝する」と伝えにきてくれるんだ。中にはミュージシャンじゃない者もいる。自分が信じていることを続けるインスピレーションを私から受けたとね。中にはアーティストや絵を描いている人もいたよ。インディペンデントで活動して何かを成し遂げようとしている人たちだ。彼らはWackie'sにインスピレーションを感じ、信じて戦い成し遂げるシンボルだとね。Wackie'sが彼らの人生に影響を与えたと聴いて、私はとても幸せだ。私がやったことはただ自分の感じた何かをそこに込めただけだ。好きなことには犠牲が伴うのさ。Wackie'sを45~50年間続けているけど、その間私は戦って来たんだ。
●今や沢山のレゲエ・レーベルが存在しますが、他のレーベルとWackie'sはどこが違いますか?
B:音楽を単にビジネスと考える人たちが多くいる。でもWackie'sは音楽を愛だと思っている。タダでも百万ドルでやる仕事と同じことができる(笑)。それはとても大きな違いだろ。お金だけで考える人たちがいる反面、自分達は音楽だけを考える。そうすれば正直になれるし自分の気分をクリエイトすることができる。余計なことを考えなくて済むからね。クリエイティビティを愛している人たちを一番に俺は考える。我々は皆違う。誰一人として同様ではない。指紋も違えば考え方も違う。自分は変わったグループの方でいたい。すべてが同様でなければいけないわけじゃないからね。自分の”違う”ところが好きだ。だから自分が頭の中で考えたことを今でもプロデュースするんだ。頭の中でやりたいことが常にあるんだ。それが私の人生においての仕事だから、これをやり続けるのさ。
●ドイツのBasic ChannelがWackie'sのヴァイナルをリイシューしていますが、どのような経緯でそうなったのですか?
B:それ以前にもアシスタントからリイシューしたらと言われていたが、でも彼が私のやりたいことを理解しているとは思えなくてやっていなかったんだ。
だが、ある時ロンドンの友人が、Basic Channelのマーク(Mark Ernestus)を紹介してくれた。それで何かをしようということで最初は12インチ一枚の話だった。片面がWackie'sで片面がBasic Channel だ。それから5年ぐらい経ってまた彼と話をすることがあって、Wackie'sのカタログをBasic Channelからリイシューすることを決めたんだ。マークをリスペクトしているよ。彼はアメリカの私の家に来てくれて一緒に時を過ごした。仲もいいよ。理解して支えてくれる。私が大丈夫かどうかいつも心配してくれるんだ。愛を持ってリスペクトしてる。石井みたいにさ。
●レゲエに何か求めているものは?
B:音楽が変化しているのは理解している。でもあの時代は私たちと共にあった。オリジナルのダンスホールだ。Sugar Minott、Little John、Johnny Osbourne、ダンスホールといえばこういうアーティストを思い浮かべる。今はもっとポップなレゲエだからね。リリックが大分違う。コンシャスさが少なくてもっと性的だったりする。もちろん音楽は音楽だから聴く人の自由だ。でも若い奴らも成長していくし、いつか家族を持ったり子供ができたりして、リスペクトすることを覚えるようになっていく。そうやって変わっていくんだと思う。オリジナルのルーツ・ロック・レゲエ、ラヴァーズ・ロック、ダブ・ミュージック、ダンスホール、ステッパーズ・スタイル。そして今の音楽をダンスホールと呼んでいるけど違う名前が必要だ。ちょっと紛らわしい。他ははっきりしているからね。レゲエはいつもラヴァーズ・ロックでルーツ&カルチャーで、政治的な視点だったりね。レゲエはセックスのような性的な面だけじゃない。でも音楽が問題なんじゃなく、ただ名前が紛らわしいだけだ。ダンスホール・ミュージックっていうとどっちのことを指してるのかわからないからね。ニュー・ダンスホールなのかSugar Minottのようなタイプのダンスホールなのかね。世界をツアーしてSugar Minottのダンスホールを広めて来たけど、それはルーツ&カルチャーでラヴァーズ・ロックでもあったんだ。
●いま取りかかっているのは何?
B:いまでもルーツ・ミュージック、ラヴァーズ・ロック、 ワンドロップを作ってるよ。80、90年代のアグレッシブなステッパーズ・ダンスホールだ。オリジナルスタイルさ。ヨーロッパにファンが沢山いてくれるからね。彼らは私の80s、90sスタイルが好きなんだ。それを求めてるのさ。今はJah Loveと一緒にやっているよ。U-ROYのような感じだ。若くてもっとライブな感じだ。もっと高低があってね。90sスタイルのステッパーズ、アグレッシブなスタイルのレゲエだ。あとはラヴァーズ・ロックもだね。二人の娘と作っているよ。才能がある奴らがいて音楽ができるいい場所もあるし、若い奴らが育って来ていいんだよ。腕が立つミュージシャンのクルーがいて、良いシンガーもいる。私がやることを人々が注目してるのを感じてるよ。私はいつも音楽を愛している。
●今日はインタヴューありがとう、Lloydの回復記念にWackie’sとRiddim OnlineのコラボTを作ろう。こんなことは初めてだな!
B:今でも色々な人がアプローチしてきて、何か一緒にしようと持ちかけてくるけど、自分は基本的にやらないんだ。何か特別なことなら別だけどね。友人とオリジナルのシャンパンを作ったり、新しくデザインした壁に飾る特別なスケートボードも製作しているよ。石井なら1枚でも100万枚のTシャツでもOKだよ。私の意見だけどいい奴は数少ない。でも石井はその中でも一番上の奴らだよ。石井が何かをしたいと言ったら決して俺はNOとは言わない。
ということで、Lloyd Barnesの心臓バイパス手術の結果も良好のようだ。クールなNY DUBを作り続ける彼にさらなる期待をする。