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A writer goes to “ZEN” room (2) (あるグラフィティーライター20日間の拘留)

 
   

Interview by 有太マンーYutaman Photo by Yutaman, montanacolors@JP

2011年11月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

●最もアクティブだったのはいつ頃?

PP:一番は92年から99年。その間ずっと活発だったが、中でもさらにやり込んでいたのは95年から99年。その頃はNYの住んでる近所に警察が来ては、子供にまで「『NEWS』はどこだ?」と聞き込みをしたり、マイアミでも車の停止線無視くらいで停められたキッズのポケットにマーカーが入ってるだけで、警察が「お前まさか『NEWS』か?ぶっ殺すぞ!」と言い出したり、「気をつけた方がいい」と、いたるところから言われてた。そういう前兆の上に、NYでは本格的にトラブルが起き始め、「次に何かあれば本当にマズいことになる。このまま続けるのはそれに値しない」と。とはいえ、そもそも自分は一番活発に動いていた時から、警察に対して怒りの感情を持ったこともないし、捕まっても自分が被害者という意識になったことがない。それはいつも自分で自分にやったことであり、同時に、グラフィティがヴァンダリズム=破壊行為と思ったこともない。破壊というのはハンマーでも持って壁を崩せばそうかもしれないけれど、グラフィティは、ただそこに絵を描くこと以上の何でもない。誰かがそれを気に入らないのなら仕方ないけれど、オレはそれが好きだし、それが法律に反するのもわかるし、それをやることで発生するリスクもわかってるつもりだから。

●当時のグラフィティ雑誌にはNEWSと、一緒にはたぶんCERが一番多く、必ず掲載されてました。

PP:雑誌には、たぶん97年から99年頃に一番載っていた。映像としては「VIDEOGRAF」に出たのが98年頃。あとは公共テレビで「True New Yorkers(本当のニューヨーカー)」がテーマの、ディスカバリーかヒストリー・チャンネルがつくるような、真面目につくり込んだドキュメンタリーにまで、それはもうアートやストリート・カルチャーでもない文脈で、靴職人やパン職人、地下鉄の運転手なんかと並んで取り上げられたこともあった。

●あらゆる街に描き続ける「ALL CITY」と呼べる活動の中で、グラフィティの意義は何だと捉えていますか?

PP:「『ALL CITY』とその先の世界」というのは、今回も取調べで警察が「お前はそのためだけに来日したんじゃないか」と疑っていたけど、実際確かに昔は旅をする時、頭にそれしかなかった。違う州や、もし違う国に行ったりすればもちろん、美術館に行ったり食事や友達と会うことよりも何よりも一番大切なのは、できる限りのスローアップ、ピース、タグを残すことだった。それは強迫観念よりも強い何かだった。今、ライターたちは色んなことを言う。自分の行為を正当化して「広告会社はビルボードを街中に掲げるのに、捕まったりしないじゃないか」とか、それっぽい話を耳にする。でも確かなのは、最初にガキの頃始めた時、誰もそんな哲学的なことは考えてなかったということだ。

●ZEPHYRから、最初の「グラフィティ」と呼ばれているものは、ある男の子がクラスの好きな女の子の興味を惹くために、その子の通学路の壁に自分の名前を描いたものだと聞きました。

PP:それはフィラデルフィアの「CORNBREAD」のことだろう。それこそ、全てがコンセプトもなく、哲学もなかったところから始まったといういい例だ。それがたぶん、何度か逮捕されたりするとそこでいい言い訳を考えなきゃいけなくなるから、真面目に聞こえる理由づけをするようになったんだ。

●これだけリスクしかなく、ほぼ金にもならず、危険性にまったく見合わない行為だと思われるのに、多くの人の心を掴んで離さない「何か」は?

PP:実際特にここ4、5年は、まったくどこでも何もしていなかった。そのことについて考えなかったし、気をつけて見ることもせず、でもNYにいるといつもグラフィティには囲まれている環境はあり、最近また若い世代と出会い、少しは意識が戻されたかもしれない。止めている間は服装も変えたし、聴く音楽も、全部を変えて違う人生を歩もうと心掛けた。でも今、なんだか色々なことが改めて戻りつつある中で思うのは、結局「ずっとそれは自分の人生の一部としてあるんだろう」ということ。つまり、「受け入れよう」と。

●グラフィティに「意義」というのものがあるとして、どう定義しますか?

PP:その答えは難しい。一番活発だった頃、多くの人から認知されているという感覚はあったし、少なからずやっていることを賞賛されるようなこともあった。しかし、そもそも行為そのものの是非には議論の余地がある。確かにそういう認知や賞賛は少しは自分の背中を押したかもしれないけれど、一番最初まで遡れば、それは本当に自分のプライベートなものだった。1人で描いては後日そこに戻り確認するだけの行為で、誰に会いたいわけでもなく、確かに好きな作品はあったけど、「あのライターに会って、あのクルーに入れてもらいたい」みたいなこともなかった。いつか他の友達もやり出し、それでも誰にもわざわざ言わない、ひっそり人目につかないところで「自分だけのこと」としての行為だった。文化の他の動向も、もちろん知ってはいたし魅了され、見守ってはいたけれど、もっと純粋に「神秘的なもの」と捉えていた。誰がいつどうやってそれらの作品を描いているのかわからないまま、そこに残された作品を愛していた。

●それはいつ頃の話?

PP:当時はカリフォルニアのラグナ・ビーチに住んでいた。あたりにはサーファーが残した落書きがちょっとあったかもしれないけど、基本、何もなかった。まず「TURK 182!」という85年のグラフィティを描いた映画と、そのもっと前、父はその頃アーティストとして最も活躍していた。それでおのずとギャラリーに用事があったから、一緒にLAに行くことがよくあった。その道中、おぼろげに覚えてるのが「SHAKA」という名前のライター。ハイウェイを走っていても降りても、LA中に「SHAKA」、「SHAKA」という文字が溢れていたんだ。1、2週間に1度はLAに行く中で、自分も小さいながらその名前がそこら中にあることに気付き、「あれは何?」って父に聞いた記憶がある。何か手描きだということはわかったんだけど、確かその時、父は「知らない」とか、「どうでもいいだろう」という答え方はしなかった。だからといって「グラフィティ」という言葉を口にしたかも定かではないけれど、その頃はすでに、NYなんかでのムーヴメントが全土で有名だったはずで、ちゃんと説明してくれた。そしてその数ヶ月後、いつも「このエピソードから自分の名前を選んだ」って言うようにしている、その時は祖父母宅で5時のニュースを観ていて、目にしたものがあったんだ。ちょうど家族で夕食の用意をしている時、TV画面に、デカいサングラスをかけ、顔にTシャツかバンダナを巻き付けた、まさに「SHAKA」本人が出てきた!その時オレは、頭が破裂するような衝撃を受けた記憶がある。「父さん、おじいちゃん!観て、あの人だ!!」って大興奮で、インタビュワーは「あなたはなぜ、こんな破壊行為をするんですか?」とか、ありがちな質問をしていた。LAはアメリカでもグラフィティに対する姿勢が比較的東京に近いというか、街をきれい保つため、もし捕まればNYよりも大きな罪になる。でもSHAKAは、テレビ用に真面目に喋ろうなんてこともせず、今思えば「超」がつくヒップホップ・スピークで、「誰が何と言おうが関係ない!」とか、「オレには信じたことをやる権利がある!」と、反逆的スタンス丸出しだった。「オレは誰も傷つけてない」、「ビルも痛めてないし、何が問題なのか」とまくしたてていた。幼かった自分にその姿が強烈だった。あとは、そのことが直接関係してるわけでもないけれど、これは自分で確かな理由もわからないんだが、小さい頃から、例えば買ってもらった自転車で家から離れて最初に向かったのは、電車の線路だった。他に好きだったのは廃墟ビル、崩れかけた家、河の脇の橋の下、またはビルの裏手に放置されたボロボロの車とか、そういうものばかりだったんだ。

●なぜだと思う?

PP:わからない。ただ、すべてから離れた、また別の、違う一つの現実に見えたんだ。そういう場所に行っては、廃墟の窓を割ったり、捨てられたマットレスの上で跳ねたりしていた。「グラフィティ」はそういう行為の延長線上に、自分の成長と一緒に培われてきたビジュアル・センスと共にあった。幾重にも貼り重ねられたポスターが剥がされた跡がある古い壁とか、例えばホセ(・パーラ)は、それを「なんて美しい」と、オレよりもっとずっと真剣に捉える。でもオレにも確かに、そうやって古ぼけた、何らかの歴史が蓄積された壁を見ては楽しむ感覚があるんだ。ものが劣化、腐敗したかたちや、誰ももう考えすらしない、社会から忘れ去られた場所に意識を取り戻す行為としてのグラフィティ。もちろんシルバーや黒のフィルインもやるけれど、もっとオレンジや、明るい色のフィルイン。古い、腐敗した表面に、シャープで派手な色のスタンプが押し付けられたような、その様を見かけるようになったのが、自分にとっての強烈なフックだった。今でもそれを見ると、心が掻き立てられる。古ぼけた壁に、眩しく輝くカラーのスタンプがメリハリを効かせて押されたような様。映画「TURK 182」やSHAKAを観たインパクトよりも自分にとって鮮明な、その対置、組み合わせ。その、崩れ落ちかけた古いものから新しい何かが産まれてくる感覚に、心を掴まれた。そんな具体的な言葉は後からついてきたとして、最初はとにかく、その視覚的インパクトがオレを虜にしたんだ。3時間かけようが、2分だろうが、何か鮮やかでシャープなものをその場に残すこと。往年のお気に入りは、人に認識される目的のためではない、トンネルの奥の奥にある小部屋や、最も劣化の進んだ壁に鮮やかなピースを描くこと。そこでこそ一番のコントラストが生まれ、そのことへの興味が今日に至るまで、自分の中で高く保たれて続けている。「誰も見ないのに、ペイントの無駄じゃない?」なんて言われたりもする。でもそんな、今も自分から絶えないビジュアル・インパクトが、描く作品にも、文字じゃないどんな作品をつくるにしても、最初はあらゆる手段でそれにまず年季を入れ、そこに上から鮮やかな色を加えていくという、その喜びに繋がる。ここにきて、今さら20歳の若いライターに「ええ、あなたが、あの!」と、いくら認識されることに何の価値も感じない。その先の、見るだけで自分の心を掻き立てる、未だ夢見ることがあるんだ。

●アーティストである父上の影響は?

PP:彼はキャリアのピークでは、壮大な志と共に、巨大なメタルの造型物を世界中の海に沈めてまわる大プロジェクトを推進していた。自然と対峙してそれをやってきたことは、確かに今オレが言わんとしていることを究極のレベルでやっていたと言えるかもしれない(笑)。自分が11、2歳の頃に実際にそれを観て、何らか感銘を受けたのを覚えているよ。フロリダは熱帯魚がいる明るい海のイメージだけど、もちろんその脇には岩場で人が立ち寄れない海域もある。そこに眩しく光る巨大なメタルのオブジェを沈める行為が、今まで自分のやってきたこととどこかで繋がるのかもしれない。

●そういえば、そもそもこのタイミングで日本に来ることで、放射能の心配はしなかった?

PP:来るちょっと前までは心配もしていたけど、何人かに聞くと「別に大丈夫」と言っていた。東京から出てきた人たちの話も聞いたけど、それも特に避難命令が出たからとかでもないようだった。あとはウィリアム・T・ヴォルマンというジャーナリストの書いたストーリーも読んだんだ。彼は結構社会の暗部について書いたりする人なんだけれど、余計に危険を煽ったりする人じゃないことは知っていた。その彼が「ガイガー・カウンターを持って東京に乗り込んだら、サンフランシスコの線量とほぼ同じだった」と書いていて、東京には今も普通に人が住み、街が機能してるわけで、「1週間くらいの滞在で何があるわけもないな」ということで理解した。それで逮捕された後は、そういうことも全部忘れた。