MUSIC

Wayne Wonder

 
   

text by Minako Ikeshiro (池城美菜子)

2013年10月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

 最新作『MyWay』を引っさげて、ウェイン・ワンダーが3年振りに日本にやって来る。スレンダーな長身からくり出す甘い歌声。90年代前半のペントハウス全盛期で名を挙げ、後半は盟友デイヴ・ケリーとマッドハウスでダンスホールの流行を塗り替え、2002年にモンスター・リディム<ディワリ>の代表曲“No Letting Go”で一躍インターナショナルなレゲエ・スターに。その後もコンスタントにヒット曲とアルバムを放ち、いまや世代や国籍を問わず、みんなに親しまれるアーティストとして安定した人気を誇る。その軌跡と素顔に迫る90分インタヴュー。

●以前、日曜日のオールディーズ・ダンスで有名なレイ・タウンで育ったのが、音楽的に影響を受けたと言っていましたよね。

Wayne Wonder (以下、W):俺の出発点だね。外に行かなくても全部曲が聞こえるくらい近くに住んでいたから、物心がついた頃は玄関先に座ってずっと聴いてたよ。

●あなたがメロディー重視の曲が得意なのは、スタジオ・ワンやモータウンがよくかかるあのダンスを聞いて育ったからでしょうか?

W:それは絶対あるだろうね。新しいアルバムを取り組む度に機材やシンセサイザーをアップグレードして、昔とは違う音が出て来るけれど、コアにあるのはオーセンシティ、そこは変わらない。俺はボーカリストだから、これはR&B、これはダンスホール、これはレゲエ、という風に分けて歌ったりしない。その曲のムードを重視して歌うだけだよ。

●子供の頃のお気に入りのシンガーは?

W:ヘプトーンズが好きだった。ボブ・マーリー&ウェイラーズ、ボブ・アンディ、デルロイ・ウィルソン、ジュニア・バイルズ、バリー・ブラウン、ベレス・ハモンド…、ダディ・U ロイやランキン・ジョーもよく聴いて、自分でもDJができるようになった。リサーチするタイプだから、ファンデーション系のDJはカセットで、(レゲエの)ヒストリーを追うような聞き方した。

●デルロイ・ウィルソンとジュニア・バイルズはとくに納得が行きます。どちらもソウルフルで、泣きのメロディーが得意という点が、あなたに似ています。

W:デルロイ・ウィルソンは特別な存在だ。ペントハウスで実際に 会った時に、“あなたの歌を聴いて育ったからカヴァーしたいと伝えたら、本人が “ 君は歌えるから大丈夫だ”って<Movie Star>(注: 元曲は“I Don’t Know Why”)を歌ったらいい”と言ってくれたんだよ。ブジュ(・バントン)のパートが加わったのが、“Bonafide Love”だ。

●80年代の修業時代は、メトロ・メディアで歌っていたんですよね?

W:88年の頭から水曜日の夜にメトロ・メディアのダンスに行って、マイクを握るようになった。当時はサウンド・システムで自分を鍛えてからスタジオに入るのがふつうだった 。

●ニンジャマンはキラマンジャロ、とか当時はサウンド・システムにアーティストが所属していたんですよね? その場合、ほかのサウンドでは歌いたかったら、ピーター・メトロの許可を取らないといけなかったのですか?

W:許可とまでは言わないけど、ほかのサウンドで歌うのはメトロ・メディアのダンスがないときだったね。 ステレオ・マーズが俺を使いたかったら、 もっと払わないとダメだったし。

●最初のレコーディングがキング・タビーというのはスゴいですね。

W:ダブ・オーガナイザーのやり方はユニークだったね。スタジオでしばらくウロウロしていたら、ある時、肩に手を置いて“ユース、明日の朝、8時に来い”って言われた。レコーディングもファンデーションのやり方で、ミスしたら頭からやり直しだったから、勉強になったよ。かけがえのない体験をさせてもらったと思っている。

●キング・タビーは早く亡くなってしまって残念です。

W:売れた後のウェイン・ワンダーを見せられなかったのは、心残りだよ。最初の45を切ってくれたのは本当にデカい。夢が叶ったのが嬉しくて、どこに行くにも25枚入りの箱を持って行った。キング・タビーに紹介してくれたのは、シンギング・メロディーだ。

●90年代に入ると、20代前半だったトニー&デイヴ・ケリー兄弟と多くのヒット曲を作りました。元々、友達だったそうですね?

W:デイヴは音楽関係なしに10歳からの知り合いなんだ。トニーとも地元やサウンド・システムで会っていたから、すぐに仲良くなった。

●ブジュ・バントンとの出会いについて教えて下さい。

W:彼とはウィンストン・ライリーのレコード屋で会った。 (サウンドの)シンジケートが“Stamina Daddy”をもうかけていたから、名前は知っていた。声をかけたら俺と一緒にダンスに行きたいと言い出して。その夜、リッチー・Bのダンスにアパッチ・スクラッチとかと出るとき、クラレンドンの奴の家まで迎えに行った。そのときからずっと仲良しだ。

●ブジュ本人もあなたに面倒を見てもらったと言っていました。

W:俺だけではなく、レッド・ローズやバニー・リーもブジュがスタートしたときに力を貸しているけどね。俺はスタジオに連れて行ったり、91年のスティングでステージに呼んだりしたし、キングストン東部出身だから、その辺りでのショウでは必ず紹介した。ほとんどのスタジオは西部にあったから、東部で顔を知られるのは大事だった。

●91年には一緒にジャパンスプラッシュで初来日を果たしています。

W:俺、ブジュ、カティ・ランキン(ランクス)、トニー・レベル、デイヴとトニー。みんなで行ったよね。

●あなたはヒット曲もあって知られていましたが、ブジュは契約の段階では無名で、来日直前にジャマイカで火がついて面白かったです。みんな、仲がよさそうでした。

W:うちは母さんと弟がアメリカに移住して、ジャマイカには俺一人だったから、フランキー・スライとブジュは俺にとって弟みたいなもんだった。デイヴとトニーも兄弟、ジャーメインは父親のような存在だった。

●ペントハウスの名曲の中で、思い入れがあるのは?

W:“Saddest Day”は高校のときに書いた実話だ。休暇が終わって新学期に学校に行ったら、彼女に“この関係は発展しないと思う”って振られたんだ。

●ペントハウス・クルーは音楽だけでなく、髪型や服装も流行らせましたよね。ぶかぶかのビギーの服とか。

W:あれを有名にしたのはシャバ(・ランクス)だよ。シャバはビッグスターで、イケていたから、俺らも素直にマネしていた(笑)。外見から振る舞いまで、初期のブジュ・バントンはシャバの影響を受けている。まぁ、引き込んだのは俺だけど。当時はまだ、ブジュは俺の言うことをよく聞いていたから。

●90年代が進むとあれほどヒット曲があったカヴァーをあなたは一切止めました。その際、ドノヴァン・ジャーメインに相談、もしくは宣言したのでしょうか?

W:いや、それはしなかったな。シンガーとして知られて来て、海外によく行くようになってから、ほかのジャンルのアーティストの曲を歌うのはおかしい、と思うようになった。同じステージに立つことだってあるんだし。高校のときから曲は書いていたから、 曲の構成から考えて音楽作りをするようにした。ベレス(・ハモンド)が“外国の曲と同じくらい(上手に)、自分の曲を歌えるじゃないか”って言ってくれて、励みになったね。

●分かりますが、R&Bやカントリーの曲をカヴァーするのはレゲエ・カルチャーの一部ですよね?

W:オリジナリティが大事だよ。それをずっと続けていたから、ビルボードのチャートに入るような曲ができて、グラミー賞のノミネートももらえたと思っている。

●ペントハウスを離れた話を…卒業の時期について聞いていいでしょうか?

W:卒業はいい言葉だね。ペントハウスは俺らの大学だった。すごく楽しかったんだよ。みんなが朝起きて仕事に向かうのと一緒で、朝起きたらペントハウスに行くのが当たり前だった。でも、そのうち、すごく政治的というか、駆け引きが生まれてしまって。デイヴ・ケリーとジャーメインの間に挟まれて辛かったよ。

●デイヴは、きちんとクレジットされなかったのが原因と言っていました。

W:それは事実だ。俺自身、ジャーメインを知る前からペントハウスでレコーディングをし始めて、全部デイヴが作っていたし。彼が自分でマッドハウスを始めると決意したのは、自然の成り行きだった。ブジュの存在も大きかったね。俺達がブジュをスタジオに連れて行って曲を作り始めたとき、ジャーメインはカティ・ランキン(・ランクス)のヨーロッパ・ツアーについていて、その場にさえいなかった。

●そうなんですか! カティ・ランクスはUKで“Dibbi Dibbi DJ〜”(注:“The Stopper”)が大当たりしましたものね。

W:そう、カティがヨーロッパでディビディビ言ってたとき(笑)、俺たちがブジュを売り出す準備をしていた。それで彼が当たって、プロデュースはドノヴァン・ジャーメインってあったから……。でも、デイヴはしばらくはペントハウスを使っていたんだよ。ジャーメインはデイヴに木曜日にスタジオを貸していたんだ。

●マッドハウスは、ペントハウスに頭に来て名付けられた、と聞いていますが、スタジオを使わせてもらっていたんですか。

W:それも誤解だよ。マッドなヴァイブがあるレーベルだから、マッドハウスなんだ。俺らは新しい、試験的なことにチャレンジした。俺はみんなが予想しなかったような、スィート&サワーな感じ、ハードコアなダンスホールのリディムに甘い歌を載せることを始めた。ジャーメインには反対されたけどね、“受け入れられないよ”って 。ずっと“Die Without You”(PMドーンのカヴァー)みたいな曲を歌って欲しかったのかもね。でも、おかげで、俺はシンガーなのにDJ達のステージに上がって行けるようになった。ブジュやバウンティ、シャバの後にマイクを握っても違和感がないシンガーはほとんどいなかったから、戦略通りだった。

●ファンの立場で見ていると、ペントハウスを離れたあなたやデイヴがフリスコ・キッドやベイビー・シャムを巻き込んで新しいムーヴメントを起こしている一方で、ラスタに転向したブジュがどんどん大きくなって、同じ家から出たふたつの勢力が拮抗しているようにも見えました。

W:ああ、そうかもね。ブジュがラスタになったのも大きかったかな。初めの頃は俺も巻き込みたかったらしくて、ああしろ、こうしろってうるさかった。俺は“自分で好きにしたらいい”って感じで、それまで通りに音楽を作っていた。無名だったシャムがいいと思ったら、すぐ一緒に曲を作ったり。ベイビー・シャムは俺のアパートに3年くらい住んでいたんだよ。スプラガもベイビー・シャムに目をかけていて、やっぱりペントハウスで、“No Cokemania”を作った。

●ご自身のレーベル、SingSoは2000年にスタートしたんですよね。

W:そうなんだ。自分の周りにいるアーティストをもっと売り出そうと思って始めた。ほかの人の曲を書いたり、トラックを作ったりするのが好きなんだ。アントラージュっていうプロジェクトもやったしね。

●その頃はまだ、ジャマイカに住んでいたのですか?

W:基本的には。ただ、グリーン・カードを取得したから、アメリカで過ごす時間は必然的に長くなった。ニューヨークにも住んでいたよ。

●えー、それは知りませんでした。ジャマイカのアーティストが長く滞在していると、耳に入ってくるものですが。

W:内緒にしていたから(笑)。クィーンズの母親の家にいたけど、ダンワン(ブルックリンのダブ・スタジオ)で “いつまでいるんだ”って聞かれても適当に濁して。シャバが“keep it red carpet(人前に出るときは特別にしろ)”って言ったように、人前にあまり出過ぎないのも大事だと思う。“No Letting Go”を書いたのもクィーンズの地下室だよ。

●“No Letting Go”のヒット、及び『No Holding Back』のときは、 よく取材をさせてもらったので、最新作の『My Way』について話しましょう。シャギーとマイアが客演しています。シャギーと一緒のショウに出演したところを見ていましたが、実際に仲いいですよね。

W:彼とも長い付き合いだ。『Boombastic』(95年。グラミー賞の最優秀レゲエ部門を獲得)にも “Something Different”で参加している。この業界にもリアルな人はいる。シャギーは、“俺の方がスターだから”とかいうエゴを出さずに、仕事をする。その点は本当に尊敬しているよ。朝、目を覚ましてみたら自分の曲がアメリカのチャートで上位に入っていた。そういう経験が彼にも俺にもあるし、これからだってあり得る。エゴもハイプも要らない、という点で俺たちは似ている。

●マイアが参加した“If I Ever”がお気に入りです。彼女との共演は、どうやって実現したのでしょう?

W:あの曲がある程度できていて、マイアがマイアミにいるって電話が来たから、スタジオに来てもらったら、あの曲をすごく気に入ってね。詞を少し自分向きに変えて、すぐに歌ってくれた。

●新しいプロデューサーとも組んでいますね。

W:ドレー・デイやフリーランサーとかはそうだね。フリーランサーは甥のショーンなんだ。リディム・フィンガーは俺のバンド・リーダーでもあるクリストファー・ガーヴェイだよ。今度、一緒に日本に行くのが彼だ。キーボードを持って行くから、単にリディムをかけるショウとは違う感じになるよ。

●以前、スタジオ内での作業はほとんどご自分でできると話していましたよね。

W:“First Time”は自分で演奏している。エンジニアもできるよ。スティーヴン(・マクレガー)や、ドン(・コルレオーニ)の曲だって、トラックを送ってもらって、自分のスタジオで自分でレコーディングをしている。ミックスはスティーヴンだけど。

●あなたはブジュの裁判を公聴しています。その話をしてもいいですか?

W:2回とも行ったよ。最近は連絡こそ取っていないけれど、どこにいるかはいつも把握している。長い付き合いだから、どう接すればいいかは分かっている。 彼が刑務所にいるなんて、とんだ才能の無駄遣いだ。早く出て来てステージに立ったり、レコーディングをしたりして欲しい。でも、彼はソルジャーだから、大丈夫だよ。ファンのみんなは祈っていればいい。

●あなたやスティーヴン・マーリーがサポートしているのは大きいと思います。最後に、今回のツアーがどんな感じになるか話して下さい。

W:今度で7回目かな…。みんなを音楽的な旅に連れて行きたいね。音のお祭り。楽しんでもらいたいし、自分も日本のファンに会うのをとても楽しみにしているよ。

 長いキャリアの持ち主なので、間を端折ってしまったが、来日前にペントハウス時代の名曲の再発盤や、マッドハウスからの名曲が入っている『Da Vibe』、ヒップホップとの融合を目指した『Schizophrenic』、VPレコーズからリリースされた前作『Forever』などもチェックしてほしい。来日ツアーは8カ所。スケジュールをチェックして、ぜひ足を運んで下さい。