MUSIC

VPレコーズ40年の軌跡

 
   

Text by 藤川毅

2019年4月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

2019年、VPレコーズは40周年。VPは、VincentとPatriciaの頭文字をとったもの。本稿はVとPの足跡を遡って、40年より前のジャマイカから話を始めることにしたい。

 Vことヴィンセント・チンは、1937年ジャマイカ生まれ。彼の親は中国生まれの大工で、キューバを経由して1920年代にジャマイカにやってきた。ヴィンセントがティーンエイジャーだった50年代の早い時期に、彼はシリア系ジャマイカ人アイザック・イッサが経営していたジュークボックス会社イッサズ(Issa’s)の仕事をしていた。ジュークボックスは、バーなどに設置されるレコードの再生機。お金を入れて好きな曲を選ぶと再生機内に置かれているレコードが自動再生される。ヴィンセントの仕事は、機械の中のお金の回収とレコードの交換。そこで交換したレコードが倉庫に眠っていることに目をつけたヴィンセントは、それらのレコードを販売するために1958年、ランディーズ・レコード・マートを開く。店の名前は、ヴィンセントが聴いていたアメリカ、ナッシュヴィルのラジオ局WLACが深夜に放送していたR&B番組(ホストはジーン・ノーブルズ)のスポンサーだったレコード店が由来。そしてその名前は、ヴィンセント自身のニックネームともなった。

ヴィンセントと妻のPことパトリシア(以下、パット)がスタートさせたランディーズ・レコード・マートの最初期は、ジュークボックスで使用済みの中古レコードを販売。当時の他のレコード店が、特定のプロデューサーのレコードばかりを売っていた中、ランディーズは、様々なプロデューサー、レーベルの作品を取り扱いし、成功する。そして自分たちで音源制作も始めるようになる。

 

1962年、店が有名なノースパレード17番地に移転した頃には、ヴィンセントは、ロード・クリエイター「インディペンデント・ジャマイカ」を手がけるなどプロデューサーとしてもその手腕を発揮。ノースパレードの店の2階にはスタジオも併設され、レコード販売のみならず制作拠点として機能する。順調なジャマイカでのビジネスを受けて、60年代の末にはヴィンセントの兄弟、ヴィクターとキースがランディーズの支店をニューヨークに出す。

70年代、レゲエの時代になると、ヴィンセントの息子、クライヴが71年にスタジオの新しいエンジニア、エロル・トンプソンらと手がけたオーガスタス・パブロの「ジャヴァ」をヒットさせるなど、制作面の主導権を取るようになる。この時期のランディーズについてはVPからリリースされた50周年記念盤『Reggae Anthology Randy's 50th Anniversary』に音源やドキュメンタリーDVDも収められているのでぜひ入手頂きたい。

レコードの小売も順調、階上のスタジオも設備を増強し、名エンジニア=エロル・トンプソンとともに優れた作品を生み出し、更にはインターナショナルにレコードの通販サービスをスタートさせるなど順調に思えたチン家のビジネスだったが、彼らはジャマイカの政情に不安を覚えていた。1967年の総選挙までは拮抗していたジャマイカの2大政党JLPとPNPの議員勢力だが、72、76年の総選挙で親キューバのPNPが優勢となったことをチン家の人たちは脅威に思ったという。社会主義的な市場では自由なビジネスが出来ないというのがその理由。素直に音楽の仕事をしたいというのがチン家の気持ちだったわけだ。そこでチン家は、アメリカへの移住を考える。ジャマイカに近い温暖なマイアミも考えたが、ヴィンセントの兄弟のいるニューヨークをチョイスした。

移住準備の時期にはパットと息子のランディ・ジュニア、娘のアンジェラはジャマイカに残り、キングストンの店とスタジオを守った。ニューヨークに先乗りしたヴィンセント、息子のクライヴとクリストファーは厳しい時期を過ごしたようだ。最初はニューヨークの数軒のレコード店にジャマイカのレコードを卸す仕事から始めた。この時期、パットはジャマイカとニューヨークを行き来。ビジネスのためにジャマイカからレコードを送ろうとするも輸出規制にかかり出来ないときにはパットがジャマイカとニューヨークを行き来する際の荷物にジャマイカからスタンパー(レコードをプレスするための型)を借り受けて、アメリカに持ち込みプレスしていたそうだ。そのようなビジネスを重ねながら1979年にヴィンセントは小売レコード店をニューヨークのクイーンズに開店する。それがVPレコーズ。つまり、40周年とはこのレコード店の開店を起源にしている。40周年に水を差すわけではないが、VPという名前では、僕の知る限り1977年あたりから使用され、すでにVPレーベルが印刷されたレコードがリリースされている。その頃の盤面にはVP RECORDS 170-03 Jamaica Avenue, Queens, N.Y.のクレジット。この住所こそVPの最初の本拠地だ。その後。同じ通りの170−21に移転する。

ニューヨークのVPレコードは、ジャマイカ時代のランディーズがそうだったように様々なプロデューサーたちの作品を取り扱った。当時のニューヨークのレコード店も関係の深いプロデューサーの作品しか扱わない店が多かったから、VPはここでも旧弊を打破して成功する。VPが正式にニューヨークで産声を上げた時期は、ニューヨークでさえ、まだカリブ系のラジオ局がない時代だった。その後WLIBなどが積極的にレゲエをかけるようになり、徐々にレコードの需要が増えていったという。そして、 レーベル、小売店、そしてディストリビューター(流通業者)としてVPはニューヨーク、ひいてはアメリカのレゲエ・シーンを支える存在となり、VPはアメリカに根を下ろしていった。

地道な卸作業を中心としながらネットワークを構築していたVPだが、80年代半ばのレゲエにおけるデジタル革命が起こるとVPの仕事量は大きくなる。打ち込みによってリズムが制作され、レコーディング費用や制作時間が圧縮され、結果的に大量のリリースが生まれるようになったからだ。ダンスホールの現場も音楽のみならず、ダンス、ファッションをも巻き込み大きなうねりになっていく。さらに、それらの音楽はアメリカでも徐々に大きくなってきていたヒップ・ホップとの親和性も高く、アメリカでヒップ・ホップの人気が大きくなるに連れてVPのプレゼンスは増して行った。

僕が熱心にレゲエを聴き始めた80年代の日本では、ジャマイカの7インチ・シングルの入荷はほとんどない時代だった。ジャマイカ旅行を斡旋する旅行代理店に7インチが少し置かれていたり、数少ない専門店にほんの少量が入荷する程度だった。そんな時代だったからジャマイカの最新ヒットを聴くには、ジャマイカのプロデューサーたちからVPなどの欧米のレーベルにライセンスされ、リリースされた12インチを聴くしか方法がなかった。当時のVPでは、ジャマイカから送られてきたマスターテープを店の2階でカッティングし、それをもとに自社でプレスをし、かなりの種類のジャマイカのシングルがVPからリリースされた。ジャマイカ盤7インチがほとんど入荷しない時代、日本に住む僕らはVPや英ジェットスターやグリーンスリーヴズからの12インチで親しんでいたわけだ。

80年代末〜90年代初頭のデジタル・ダンスホールの初期、日本に入ってくるレゲエのアルバムは、アメリカのRAS、ハートビート、VPや、イギリスのグリーンスリーヴス、ジェットスター、そしてチャームといったレーベルのものが中心。それ以外だとジャミーズやスーパーパワーのものは割と入ってきていた印象もある。それでも今の品揃えに比べればまだまだで、先に書いたようにヒット曲は12インチで入手することはできたけれど、買い逃すと再入荷はあまりなく、ジャマイカでヒットしているらしいと話題の曲でもなかなか聴けないことも多かった。そんなときにお世話になったのがヒット曲のコンピレーション。英ジェットスターは、80年代から『レゲエ・ヒッツ』というシリーズを出していた。ジャマイカのヒット曲に混ざり、イギリスのローカルヒットも多く収録されていたから、イギリスのシーンを知りたい人にとっては貴重な情報源だったけれど、ジャマイカ好きにとっては物足りないという人も多かった。アナログ盤に曲数を詰め込むのでカッティング・レベルが低く、音質的に物足りなさもあった。同じ時期、イギリスのヴァージンから『Massive』というシリーズもリリースされていた。このシリーズはアナログ2枚組でイギリスのヒットが混ざっているのは『レゲエ・ヒッツ』と同様だったが音質的には『レゲエ・ヒッツ』より上だった。このようなコンピレーションなども交えながら聴きたい音を求めていた時代。もしVPがなければ、ここ日本でのレゲエ・ライフは貧しいものになっていたはずだ。すべてを把握していたわけではないけれど、VPの名がレコードになくてもVPの流通を通じて入ってきたレコードは相当数に登っていたはず。割と入手しやすかったはずの英グリーンスリーヴズの作品の中にもVP Distribution(VPによる流通)のシールが貼られたものも多く入ってきていたし。VPがなければ日本のレゲエ・ファンは今のようには育たなかっただろう。日本のレゲエ・シーンへのVPの貢献は大きい。

90年代に入ると、状況はだいぶ変わり、ジャマイカの7インチがダイレクトに日本に入ってくるようになった。アルバムは、欧米のレーベルにライセンスされたレコードやCDで聴くというのが標準で、その中でもVPは最もチェックしなければならないレーベルだった。しかし、当時のVPはジャケットのデザインがダサかったりして、洗練されていなかった。同じ内容のものがイギリスからも出ると、そちらの方を手にすることが多かったのも事実。しかし、90年代の半ばに入るとVPの仕事ぶりは飛躍的に向上していく。それはレーベルとしての実務がヴィンセントとパットの創業世代からクリストファーとランディ・ジュニアという若い世代に移ったのが大きい。この時期、VPは『ストリクトリー・ザ・ベスト』と『レゲエ・ゴールド』というヒット曲コンピレーションをスタートさせている。シングルでのリリースが多く、ヒット曲をなかなかおさえることができないという層に対してこのようなベスト盤の提供はとても有効だった。先に書いたジェットスターの『レゲエ・ヒッツ』シリーズも同様の役割を果たしていたわけだが、90年代に入ってからのVPは、取扱いレーベルの数は群を抜くようになり、数多くのレーベルの楽曲から選ばれたベスト盤の選曲レベルも必然的に高く、他の追随を許さなくなった。余談だが、90年代初頭までは世界最大のレゲエ・ディストリビューターと言われたジェットスターだが、今では買収されその名前はない。

さて話を戻そう。90年代に入るとヒップホップのマーケットはますます大きくなる。それに呼応するかのようにシャバ・ランクスやスーパー・キャットなどのダンスホールDJたちも続々とアメリカの大手レコード会社と契約し、ダンスホール・レゲエのマーケットは飛躍的に拡大する。その後もブジュ・バントン、ビーニマン、シャギー,ケイプルトン…と続き、マーケットが拡大していく中、VPはベレス・ハモンドやレディ・ソウなどと専属契約を結び、ライセンスした作品を出すだけではなく、自ら作品を生み出すレコード会社となった。この時期にVPが出版会社を設立して、権利関係を自社でコントロールするようにしたのは、将来のことを考えてもとても大きなことだった。この時期にこの態勢を整えていたからこそ、2000年代に入ってからのショーン・ポールやウェイン・ワンダーの全米、いや世界的なヒットに貢献し、それにより財政的な基盤を確固たるものにすることに繋がった。他のレゲエ・レーベルがCDやレコードが売れず不振に陥る中、VPは権利ビジネスを構築し、配信時代にもすばやく対応。2008年にイギリスの名門レゲエ・レーベル、グリーンスリーヴスを買収したのも権利強化の一環だ。

我々の音楽の楽しみ方が多様化していることからもおわかりの通り、今、音楽ビジネスの環境は激変している。レゲエという音楽ひとつ見ても、ジャマイカを中心にアメリカ、カナダやヨーロッパそして日本にコアなレゲエ・マーケットがあって…というのは過去の時代。イギリス以外のヨーロッパや、ここ数年でのアフリカにおけるレゲエ市場は無視できないどころか驚くべき規模になっている。アフリカでのレゲエの拡大はスマートホンの普及と大きくリンクしているが、スマホで聴ける、購入できるレゲエのプラットホームを率先して整備してきたのこそVPだ。VPもニューヨークを本拠地に、マイアミ、ジャマイカ、ロンドン、ブラジルに拠点を置き、そして日本やアフリカの提携企業と連携しながら、激変する音楽ビジネスの中にあって、常に「Miles Ahead in Reggae Music」な姿勢で挑戦し続けている。今やVPなしにレゲエのビジネスは成立しないし、VPを無視してレゲエの現在は見渡せない。40年間、変化を恐れず環境の変化に対応し続けてきたVPだからこそ、これからの動向にますます目が離せない。

創業者のヴィンセントはマイアミに居を移した後の2003年に他界。パットはニューヨークで健在だ。