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Ken Goto

 
   

Text and Photo by KOSEKI 小関聡

2012年8月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

KOSEKI(以下、K):まず、生年月日は?

GOTO(以下、G):1978年11月3日です。

K:最近ますます年齢不詳になって来たよね。

G:そんなに貫禄出てますか(笑)?

K:今後藤がやってることって、全てスケートから始まったと思うんだけど、スケート始めたのはいつ?

G:スケート始めたのは、中学3年生で91年ですね。

K:じゃあ最初にアメリカに行ったのは何年?

G:1番最初に観光で行ったのが、95年の夏ですね。高校3年のときから夜の10時から朝の6時まで宅急便の仕分けのバイトして金を貯めてて、高校卒業してすぐに行きました。スケーターの友達数人と。

K:高校在学中から夜勤のバイトしてたの?スゴいね。そのときが最初の渡米で、その後は?

G:帰ってきて、また1年間同じバイトをして、96年に今度は1人で行ったんですよ。最初の渡米で知り合った向こうに住んでる日本人の女の子と1年間文通してて(笑)、その時はその子の家に2ヶ月間いたんですよ。

K:それで、後藤がアメリカにちゃんと住み始めたのは?

G:そのまた1年後の97年の3月ですね。

K:その向こうに渡ったときって留学だったと思うんだけど、基本的には学校に行きながら、アメリカでスケートしたいから留学したの?

G:まあスケートはやっぱりすごくしたいと思ってましたけど、高校卒業して2年間のあいだに、英語を勉強したいって本気で思ったんですよ。あと1番の理由が、日本の生活で将来が見えなかったっていうのがあるんですよ。若いながらも。

K:どういうこと?

G:オレ日本にいてもどこにも行けないな、って。高校生のころからいろいろ悪いことも覚え始めてたんだけど、そこから抜け出せる場所が日本にはなくて、それでアメリカに行った時に、本当に向こうで自分が羽を伸ばせた気がして。誰も気にしなくて、日本であった何の偏見も持たれなくて、自分のしたいスケートができて、自分でいたい自分でいられて。それでアメリカに行ったとき、スケートだけしながら仕事して生活してる奴とか、スケートだけで食ってる奴、写真撮ってる奴、絵を描いてる奴、オレそういうのを地元の川口市で育ってきて見たことがなくて、すごい刺激になって。そういうモノがサンフランシスコに行ったときにスゴい見れたんですよ。『あ、こういう生き方って出来るんだ』ってそれで帰ってきて、川口ってスゴい微妙なところじゃないですか、ただの郊外だし。

K:そうだね。

G:それで将来こんなことが出来るんだとか、あんなことが出来るんだとか、っていうアイデアもなかったから、サンフランシスコを見て、この街だったらオレでも何かできるんじゃないか、って感じて。それでもう引っ越そうと思って。

K:最初に留学したいって言ったとき、親はどんな反応だった?

G:親父は何も言わなかったです。親父とは上手くいってなかったんですよね。親父は警察官だったし、世代もあると思うんですけど、今思うと愛情表現が下手で、それでオレもオレの姉ちゃんも当時スゴい反発してて。お母さんとは昔から仲が良かったんだけど、親父とは上手く行ってなくて、家を出たいと思ったんだけど、金もなくて、それで金を貯めて出るんだったら、東京に住むとかじゃなくて、アメリカに行っちゃおうって感じだったから。だから親の反応は、やりたいことはやれっていうノリじゃなかったっすね。親父は警察官だから姉ちゃんとオレが家で悪さをしてるのも気づいてたし、だから半分あきらめられてたんじゃないですか。オレもロクでもないガキでしたし、結構家の中もギクシャクしてた感じでしたし。でも母さんは、息子がどこかに行って悲しいっていうのはあったけど、あんたの人生だから好きなように生きなさい、っていう感じでした。でも留学するときに、帰って来るためのお金が銀行口座に入ってる、っていう証明をアメリカ大使館に出さなくちゃいけなくて、140万円くらいの残高を示さないといけないんですよ。留学にする時に親父には助けは求めないと決めたんですけど、それだけは自分で出来なかったんで、親父にそれを頼んだら、親父はそれをやってくれたんで、親父は特に何も言葉では言わなかったけど、助けてくれてたんだな、って今は思えます。

K:良い話だね。じゃあ留学してたときっていうのは、親からの仕送りなしだったの?

G:仕送りなしです。でも、学費が1番安い学校に行ってたんですけど、インターナショナルスチューデントだと、半年に20万円くらいかかるんですよ。それで節約して貯めるんですけど、たまに学費が数万円足りないときがあって、そういうときは親父が助けてくれました。

K:そうなんだ。学校はなんの学校だったの?

G:学校はコミュニティカレッジっていう、こっちで言う短大で、アメリカではそこから入って4年制に移るとかそういうのが一般的なんですよ。公立で安いんですけど、色んなコースがあって、写真のコースとか、絵を描くコースとか、ダンスのコースとか。

K:なるほどね。じゃあ最初は何年で帰ってくるつもりだったの?

G:最初から5年は日本に帰ってくるつもりはなかったです。

K:学生ビザってそんなに居続けることができるの?

G:普通はだいたい5年間出してくれるんですけど、オレは高校生のときの成績が本当に悪かったんで、ビザが1年しか出なくて。でも最初から5年間は必要だと思ってたんですよ。若いながらに色々思ってたのは、1年間だけ行って帰って来た人って、帰って来ても何も変わってないんですよ。だから5年間は日本に帰って来ないって思って、だから帰らなかったですね。ビザも向こうで更新して。

K:仕送りなしってことは最初から仕事したの?

G:オレ日本で100万近く貯めて持ってったんですけど、家を借りたり学費を払ったりで最初の2、3ヶ月でそれがなくなるの分かってたんで、アメリカ着いて2週間後にはもう日本料理屋で働いてたんですよ。

K:すばらしいね。写真は学生のときに始めたんでしょ?どうやって始めたの?

G:これは何回も色んなところで話したことなんですけど、写真は向こうに引っ越して、1、2年くらい経ってから親父が、母さんに近況を送れ、ってコンパクトカメラを送ってくれて、じゃあそれで撮ってみようかな、って思って。そのときちょうどルームメイトのデトロイト出身のスケーターでルーカスっていう奴がいたんですけど、そいつがジョー・ブルックと友達だったんですよ。それである日そいつと、ジョー・ブルックの家に行って、当時まだジョー・ブルックはスケートの写真は撮ってなかったんですけど、白黒の鳩とかホームレスの写真があって、写真ってこんな風に撮れるんだっていう、今まで無かった写真の見方をそこで教えられて、それで、オレもやってみたいなって思って、ちょうどコミュニティーカレッジの写真のコースがあったんで、次の学期から写真のコースを取り始めて、そこで白黒の写真で、暗室作業から全部勉強して、そこから本当にハマり始めて。そうなってから学校だとある程度までしか勉強できないから、写真のことをもっと勉強したいと思って、最初は日本料理屋で働いてたんですけど、白黒のガンマっていうラボがサンフランシスコにあって、そこで働き始めたんですよ。

K:日本人の学生なんて雇ってくれたんだ。

G:ええ。偽物の名前で偽物のグリーンカード作って、それで雇ってもらって。最後の方ではもう会社も偽物だって知ってたんですけど、向こうの人はそういうのに寛大で、人が良ければ大丈夫だ、っていうのがあって、オレのことをちゃんと信用してくれて。それでラボで働き始めて、そこのラボにゲイブ・モーフォードとかルーク・オグデンとかデニス・マクグラスとかトビン・イェランド(全員スケート・フォトグラファー)とか全部白黒のフィルムを現像に持って来るんですよ。だからオレが一番最初にあの人達の写真を見るの。オレが現像するから。

K:確かに(笑)。じゃあ結構早い段階でそこで働いてたんだ。

G:いや、でも日本料理屋でも4年近く働いてましたよ。

K:コミュニティカレッジは2年間?

G:普通だと2年なんですけど、オレが行ったのは4年間ですね。

K:4年間行ったんだ。

G:働きながらだし、最初は英語の勉強だけで大変だったっていうのがあったし、学位をちゃんと取るのには4年かかりました。

K:じゃあその日本料理屋とラボ以外の仕事って今までやった?

G:日本料理屋の後にちょっとだけフランス料理屋で働いて、その後ラボで働いて、その後はフォトアシスタント。

K:意外とカメラマンになる王道を行ってるんだね。

G:まあ1人に弟子入りしてじゃなくて、何人か人に付いてですけど。

K:アシスタントは何年くらいやってたの?

G:いやそんなにはやってないです。オレ学校に行って、ラボで働きながらも、写真で少しお金をもらえるようになってたんですよ。一番最初にお金もらったのが、学校行き初めて、キャノンのAE-1を友達から買って、それで街中を歩きながらいつもカメラを持ってるような感じになって、いつもロブ・ウェルシュとかマーカス・マクブライドとか周りのスケーター達を被写体にしてて、あるときジョン・イゲイの写真を撮ったら、あいつが何かの雑誌のインタビューでポートレイトが必要だからあれを送ってくれって言ってきて、それで送ったら使われて、50ドルのチェックをもらったんですよ。それから本当に、これで稼げるんだって気づいて、そこから本当にお金を貯め始めてフラッシュ買って、フィッシュアイ・レンズ買って。だからちゃんと機材を買い始めたのは、そのポートレートが使われてからですね。最初はポートレートしか撮ってなかったんですけど、その一枚が使われてから、ちゃんとしたスケートのアクションを撮るようになっていったんですよね。

K:なるほどね。4年学校行って、学生ビザも切れたと思うんだけど、その時は帰ろうとか思わなかったの?

G:まったく思わなかったですね。そのときやっとアメリカでの4年間が経ってから、本当にアメリカ人とコミュニケーションが取れるようになったんですよ。やっぱり4年かかったんですよ。本当にオレの気持ちが伝えられて、人の気持ちも汲みとれるようになるには。最初からスケーターとは遊んでたんですけど、ノリでつきあってた感じで、色々話せる本当の友達が出来たのが4年後だったんですよ。だからこの状況で帰ってもしょうがないな、って思ったんですよ。

K:そうなんだ。それで卒業してどうしたの?

G:学校を卒業をすると、1年間働いていいっていうビザがもらえるんですよ。ちょうどそのビザをもらって卒業するときに、写真を色んなところに送ってて、その中にSTRENGTH MAGAZINE(スケート雑誌)があって、オレのことを気に入ってくれて、スタッフ・フォトグラファーにならないかって誘ってくれたんですよ。

K:なるほど。そういう流れだったんだ。

G:それで確か2001年だったと思うんですけど、WESTERN EDITIONとFTCのチームで、ステービー・ウイリアムスとパット・ワシントン、マーカス・マクブライド、ブラッド・ジョンソン、ジェイソン・ワスラーとオーナーのケントとチームマネージャーのニック・ロックマンと一緒に、STRENGTHのカメラマンとして日本に来たんですよ。それが97年にアメリカに行ってから、初めて日本に帰って来たときですね。

K:その仕事はちゃんと食べていけたの?

G:月に1500ドルです。それで写真撮ってるとやっぱり色んなブランドの広告の写真とかも撮るようになってくるから、靴のブランドだと一枚で1000ドルとかになってたんで、金持ちではなかったですけど、食べるのは問題なかったです。

K:なるほどね。それが1年間?

G:そうです。それから、ちゃんとしたワーキング・ビザをSTRENGTHが出してくれるって言って、ちゃんと弁護士も入って手続きをやってたんですよ。でもそれをやってる間にSTRENGTHがつぶれちゃったんですよ。

K:う〜んそうか。

G:そのとき既に1年間のワーキング・ビザがオーバー・ステイしてて、帰って来れない状況になっちゃってたから、そのときに、オレはもうここにいるって決めたんですよ。

K:決めちゃったんだ(笑)。

G:その頃は大金ではないけど、もう自分でお金を稼ぐ方法も分かってたし、そのままいようと思って。

K:それでお姉さんが亡くなって帰って来たのはいつだっけ?

G:姉ちゃんが亡くなったのが確か2007年だったかな。

K:それでお姉さんが亡くなって帰って来たのはいつだっけ?

G:姉ちゃんが亡くなったのが確か2007年だったかな。亡くなったときにちょうどLAにいたんですよ。親友のサイラス・バクスターニールとフィルマーのスキューバ・ステーブといっしょにいるときに、親父から電話がかかってきた。「姉ちゃんが事故で今危篤状態だ」っていう電話で、頭の中が真っ白になって、その次の日にSFに帰って荷造りして。お姉ちゃんの危篤状態が5日間くらいだったんですけど、チケット取れたのがお姉ちゃんが亡くなった3日後とかで。

K:確かお通夜をやってる最中に現れたよね。

G:そう。だからお姉ちゃんの最期には間に合わなくて。そのときはとりあえずアメリカにまた帰って来るつもりで日本に行ったけど、何年も日本に帰って来てなかったから、日本の自分の家の状況も分からないし、日本に帰ってからの自分がどうなるかも分からないじゃないですか。だからとりあえず、当時アメリカで一緒に住んでた自分の彼女には、オレ日本に帰るけど、(ビザのこともあって)どれくらいでアメリカに戻ってこれるか分からないって言って、そこで別れちゃった感じになりましたね。

K:そうなんだ。

G:そのときに日本でずっと森田(F.E.S.N/LIBE)にお世話になって泊まらせてもらって、結局日本に4〜5ヶ月いたのかな。だけど4ヶ月くらい経って落ち着いてきて、その頃は日本で写真の仕事も始めたんですけど、やっぱりオレの居場所はサンフランシスコだなって、心の中でずっと思ってて、それが4ヶ月、5ヶ月経ってもずっと変わらなくて、それでサンフランシスコに帰ろうって決めたんですよ。

K:でもアメリカには(オーバー・ステイもしてたので)何年も入国できないはずだよね?

G:だからアメリカに帰る方法は、日本に来たときはまったく考えてなかったんですよ。それが、帰ろうって決めたときにメキシコから帰るかって思いついて。オレ学生ビザで滞在してたときに取った、カリフォルニアの運転免許証があったんですよ。今はもう無理なんですけど、当時はカリフォルニアの運転免許証があれば、メキシコのティファナとカリフォルニアのサンディエゴは自由に行き来できたんですよ。

K:へーなるほど。

G:それだったら帰れると思って、サンフランシスコの友達に連絡したらティファナまで迎えに来てくれる、って言ってくれて。まずメキシコ・シティーに飛んで、そこで2週間過ごした後ティファナに行って、そこから車で迎えに来てくれた友達5人と、サンフランシスコに戻れたんですよ。

K:さすがだね(笑)。

G:だからそこからが、本当の不法滞在(笑)。

K:確かにオーバー・ステイじゃなくて、不法入国だもんね(笑)。

G:そう、オレは書類上ではメキシコにいることになってたんで。それで今のアメリカ人の奥さんと結婚したのが2011年だったんで、お姉ちゃんが亡くなった年から、結婚した日まで書類上ではオレはメキシコにいたんですよ。

K:危ない(笑)。今は結婚してグリーンカードを持って、日本でもアメリカでも合法的にいられる状況なわけだけど、自分は日本人だと思う、それともアメリカ人だと思う?

G:今のオレは考え方はアメリカ人だけど、心は日本人です。

K:難しいな(笑)。じゃあ最近は日本とアメリカだけじゃなくて、ヨーロッパでもアートショウをやったり、どんどんワールドワイドに活躍の場を広げてるわけだけど、将来また日本で生活することってイメージすることはある?

G:イメージはあります。

K:そうなんだ?

G:っていうのは、将来的にはやっぱり、親父と母ちゃんは、姉ちゃんもいないから面倒見るのはオレしかいないから、そのときは帰ると思います。

K:すばらしいね。

G:だけどやっぱり暮らしやすいのはアメリカなんですよね。本当に自分が自分でいられるってあるじゃないですか。

K:だからこそ、そんな不法入国してまで戻ったんだろうからね。

G:今はある程度、日本語で敬語を使えなくても、たまにとんでもないことを言っても周りが許してくれるような状況を、そういう自分が自分でいられるような状況を日本でも作れるようになってきてるけど。

K:まあでも、ずっと日本で暮らす日本人となった場合だと変わってくる可能性もあるもんね。

G:そうなんですよ。だから1番やりたいのは日本とアメリカ半々ですね。日本もアメリカもやりたい仕事があるところにいられるのが1番です。

K:それがベストだね。

G:だから今の状態は良いですよ。グリーンカード取れて日本に帰ってきたのはもう4回目ですし。1番最初に帰って来た時は、トミー・ゲレロに、グリーンカード取れたんだ、っていう連絡をしたら「3週間後に日本にツアーに行くから来い」って言われて、ソッコウセットアップしたんですよ。だからそういうアメリカとのつながりを使いながら日本に帰ってきて仕事をしたりだとか、今回のCOMMONのギャラリーの人たちから「日本での仕事をいっぱい入れてあげるよ」って言ってくれたり、今はそういう良い流れの中にいるんですよね。

K:そうか、それ良いね。

G:今回のCOMMONでのショウで、野坂(稔和)君の友達の1人がスゴい酔っぱらってたんだけど、「よう後藤、みんながこんなにお前のショウに来たのは、おれ達が本当にしたくても出来ないことをお前がやってくれて、それを見られるのが本当にうれしいからなんだよ」って言ってくれて、オレそれを聞いたときに本当に感動したんですよ。オレはそんなことのためにここまでやってきたわけじゃないけど、自分で精一杯やってきただけなんだけど、周りでそういういう風に見ててくれる人がいるんだなあ、って思って。やっぱり日本人の外人コンプレックスを失くしてって欲しいなと思うから、こんなバカな日本人がアメリカ行ってなんとか出来るんだったら、あなた達にも出来るよっていうのを、見せたいですよ、ちょっとだけでも。それで、アメリカの人達でもオレを認めてくれてる人は認めてくれてるから。日本人ってアメリカに行ったらなんでもスゴいっていう、変なアメリカの意識の仕方をするけど、そんな壁があるわけじゃなくて、行って経験したら、こんなもんなんだ、って思えるような状況をみんなに分かって欲しいなって思います。今はそれが次の目標みたいな感じっすね。オレの。

K:なるほど。今後の目標聞こうと思ってたら言われてしまった(笑)。

G:あとは嫁さんと仲良く暮らしていく。嫁さんのおかげでこうして日本に来れてるっていうのもあるし、すべてスケートのおかげですよ。こうやって、ここまでって自分で言うのも変だけど、こうやって自分の生活が出来るようになって、川口のロクでもないガキだった奴が知らぬ間にサンフランシスコに住んでるんだから。

K:OK、上手くまとまった感があるから、ここら辺で終わりにしよう。お疲れさま。

KEN GOTO
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