MUSIC

いとうせいこう 『再建設的』

 
   

Interview by  平井有太(マン) 

2016年9月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

『建設的』から30周年、『再建設的』をリリース。さらに自身のコネクションを縦横無尽に体現する「いとうせいこうフェス」の開催。一筋縄ではいかない、いとうせいこうにロングインタヴュー。

●『業界くん物語』のアルバムが85年、同年にはハードコアボーイズ「俺ら東京さ行ぐだ」(ほうらいわんこっちゃねえMIX)もあります。ですので、「30周年」と言った時、せいこうさんにとってスタートは『建設的』(86年)だったのかな?と。

いとうせいこう( 以下、S):今オレが入ってる事務所の社長が、当時『建設的』のディレクターだったの。それで「いとう、30年だぞ」とか言い始めて、だからオレがちゃんと数えてるわけじゃないんだよね。

●「東京ブロンクス」という言葉は、大きなキーワードです。同時に大都会「東京」と、当時のブロンクスの在り方はかなり乖離しています。東京でブロンクス産の文化を受け止めるということは、どういうことでしたか?

S:当時いろいろな音楽を先に聴いたり、体験もできる人たちは限られていて、そういう人たちはヒップホップの構造をいち早く敏感に受け止め、「これは面白いぞ」ってヒップホップにいったんだよね。ブロンクスでは遊びとして、楽器もないからターンテーブルを使って、盗電して、そういう成り立ちで、彼らは無意識なわけ。それはつまり、『建設的』に対する『業界くん』みたいなもので。彼らが無意識にやっていることを、僕らは意識的に見て「これ、サンプリングじゃん」、「現代音楽だよ、これ」というものと、同時に「こんなに乱暴に幼稚な脚韻を踏むんだ」という「韻の在り方」。つまり、ほとんど童歌みたいな面白さと「誰も楽器を弾いてない」という反音楽性を、現代音楽的に感覚で捉えた人たち。それがヤン(富田)さんとか(高木)完ちゃん、(藤原)ヒロシもそうかもしれないけど、そこで起きていたことがどんな価値を持っているかということを、別の側面から見たんだよね。つまり、俯瞰で。

●最近完さんと渋谷でお会いしたら、ボソッと「渋谷がヒップホップのメッカって、なんか違うよね」、「本来もっと下町の方がそうであって」と。

S:それは今、あまりいいこととも思わないけど、川崎とかさ、本当にヒップホップになっちゃったっていうね。

●今はそれを至近距離から見てもいる。

S:あとは下町ね。下町もラッパーは若い子たちが多くて、それこそまじブロンクスだよね。「貧困」という構造がそれを生み出すということが、起きちゃってるんだという。逆に言えば、30年の間に世の中がひっくり返るくらいのことが起きていて、そこを僕らの世代がもう一回捉えないといけないと思って見ているけど。

●ヒップホップの生い立ちを追えばジャマイカに辿り着き、その核心にダブがあります。そういった想いでダブの世界に身を投じ、DUBFORCEの一員になられたんでしょうか?

S:自分にとってもレゲエ、ダブ、ヒップホップの先見性みたいなものは、海の向こうから来たものに日本語を乗せる最初の最初から好きだったし、意識していた。なんせオレは「ジャパラパマウス」だから。だから当時ヤンさんとライブをやっても、必ず1曲はダブというか、ラガマフィン、トースティングの曲があって、日本語で乗せてたの。でも、あんまりそこを語ってくれる人はいなくて。だって、むしろジャマイカ英語と日本語英語が近いから、トースティングの方がラップより日本語に合ってるんだよ。その親近感みたいなものはずっとあった。だから今回DUBFORCEが立ち上がったのを見ていた時、それはAsamoto(朝本浩文)Lovers Aidの時にみんなが集まってそこにオレもいて、もともとDUB(MASTER X)ちゃんには、「『いとうせいこうイズ・ザ・ポエット』というバンドをつくりたい」ってDMをしてたわけよ。そしたらDUBちゃんが、「実は増井とGOTAと3人でDUBFORCEってやろうと思ってる」と言ってて。だから「たまにそこに混ぜてよ」って、でもいろいろ面倒臭いから、もう「オレが入っちゃえば早い」と(笑)。自分としては、『MESS/AGE』を出した後ヒップホップの世界から遠ざかってる時期、その間も(須永)辰緒とかDUBちゃん、完ちゃんをDJに据えて、その上でポエトリー・リーディングをしてたんですよ。そこでは、ラップは4小節、8小節の中に収めなきゃいけないということ自体に窮屈な感じがあって、それがある限り音楽に言葉が負けちゃう。楽器はみんなずっとソロでも弾いてられるけど、ラップは用意してたものがなくなっちゃったらできないわけ。あ、もちろん、フリースタイルは別だよ。『MESS/AGE』のリリースパーティをラフォーレ飯倉でやって、ヤンさんとDUBちゃんが演奏の中でサンプリングでどんどん曲を出してる時、オレは「そこに音楽として入れない」限界を感じて、やめちゃったんだよね。

●PUBLIC ENEMYの台頭も大きかったと理解しています。

S:あれは、思想的にね。すごく連帯したいけど、あまりに人種のためのものになってしまっていて、「黄色人種は関係ない」と感じて。

●音楽活動の休止には、2つ理由があった。

S:でもそのうち「ダブ・ポエトリー」を思いつき、マイクの音を変調してもらって、本をたくさん持って行って曲によって読み替えるみたいなことをやってたら、それはいくらでもできた。それにリフレインって、何回も同じ場所を読んでると、聴いてる方も演る方も高揚してきて、それこそ「グルーヴ」なんだよね。それをダンスミュージックにならないくらいに抑えておくとか、あるいはオン・ビートにしちゃうとか、そういうことをやってるうちに「これは脈がある」って。そこにDUBFORCEが出てきてくれて、そこのみんなはすごいから、オレが違う本を読み始めても、音楽で反応してくれる。リフに行く約束が、オレなんか音楽的じゃないから盛り上がってきちゃうと「わかんないけど、とにかく読んじゃえ」ってなれば待ってくれたり、リフにはその後みんな目配せで入ってくれるし、その上しかも「演奏がいい」なんて、そんなバンドないでしょう。

●贅沢の極みです。

S:逆にオレも、みんなが出す音に反応して「じゃあ、あそこ読もう」、「ここは控えて、音と一緒にもう一回リフレインしよう」とか、その場で思いついてセッションしているというか。もちろん僕が音になっちゃう時もありますが、それができるということは、最高ですよね。それが、一番やりたかったこと。つまり、ラップだって「意味をどう音、どうリズムにするか」と考えてきたわけだから、DUBFORCEでは、日本語はもともとレゲエに乗せやすいから、乗っちゃう。むしろ、乗せても乗せなくてもどっちでもやれる。あとは、意味を人の心の中にズドーンと入れるようなテクニックを使うと、DUB MASTER Xが反応してビヨビヨ~ンと飛ばしたりしてて「うわ、ここでそれくるか。やるなあ!」みたいなことでやれてるから、そんなことまでできるバンドって、今までも見たことがない。

●日本語ラップのパイオニアとして「道なき道を切り拓こう」という自負、矜持はおありですか?

S:基本はまず、天然でやってるんだよ。だけどそこに何かが見つかるというか、「あ、無意識にこれをやりたかったんだ」という風に、どんどんどんどん行くわけよね。あと例えば、フリースタイルをやれる子たちを、ああやって観るじゃん?あの反射神経、脳みそには絶対敵わないじゃん?

●あ、「敵わない」と思っているんですね?

S:敵わない、敵わない。こっちは年寄りだからさ、人の名前だって「うーんと」って言ってるのに、韻なんか踏めないですよ。だから、逆に行くしかない。言葉をどれだけ洗練させられるかとか、どういう発音、声で人が「わぁ」と思うように朗読するかというのは、やっぱり若い子にはできないと思う。人生を重ねてるから。

●そこで読まれる詩の与謝蕪村、ナナオサカキは著名な詩人としてわかるものの、九鬼周造という、哲学者の方が含まれています。『「いき」の構造』(岩波書店)の著者で、詩との関連は予想外でした。

S:九鬼周造はハイデガーの弟子で、全集の中に『押韻論』というのが入っていて、20世紀前半に日本語の脚韻のことをすごく考えた人なんですよ。彼は、「日本において美学はどうあるべきか」ってことを考えて『「いき」の構造』をやったわけだけど、じゃあ「日本語において、西洋的な脚韻はどういう風に考えられるのか」ということもやったわけ。だから「韻」において、ものすごい先駆者なの。『「いき」の構造』は割と恣意的なところがあるけど、『押韻論』の場合はもっとちゃんと「韻」を分析して、しかも自分でも詩を書いちゃってる。その「自分が書いちゃってる」というところが、すごくいいと思うんだよね。哲学者が詩人にチャレンジしちゃったことが面白いし、すごくロマンチックな、青年みたいな詩を読んでるわけ。

●「粋」のスペシャリストなだけでなく、「韻」の先駆者でもあった。

S:そういう意味でのラッパーは僕よりも前にたくさんいる。本当の洒落で意味も音もかかってるのって、近松門左衛門なんてオレは「MC門左衛門」って呼んでるけど、韻の嵐なのよ。だから、過去どういう人たちが日本語をどう扱ったかということを含めて、今「自分が何をやるか」という問題にチャレンジできる場がDUBFORCEという。

●確かに、若手には達せない境地かと思います。

S:でも、「なんだか言葉ってすごいんだ」って思わせたら、オレの勝ちなわけじゃないですか。それを、すごいバンドのメンバーがいるから、「虎の威をかる狐」ですよ。あのバンドとだったら、何を言っても格好良く聴こえるんだもん(笑)。

●多岐に及ぶ活動のモチベーションは何でしょう?

S:DUBFORCEでも、政治的なことをアジテーションする詩が乗ってるけど、まず一方では「政治を歌ってどう踊らせるか」というのはあるよ。「腰が動く演説ってなんだろう」って。だからモチベーションとなると、かねてからずっと、「ダンスミュージックの中にこれだけ政治がないのって、面白くないよな」と。だってそこはボブ、リントン、マーヴィン・ゲイ、スティービーとか当り前にみんなあるし、ヒップホップだったら絶対でしょう。「なんで日本だけ当り前のことがないの?」、「嫌だな」って思ってたから、普通に政治的なことを考えたら、それをどう踊るかというのは、ちょっとDUBFORCEで扇情的なメロディーがあったら、すぐ乗せたくなっちゃう。だから、「昔からずっと考えてたことができる場が、今ある」ということの面白さの中にいる自覚が、自分にあるんじゃない?「ここでやらなかったら、いつやるんだよ?」みたいな。

●最近取材で行かれたハイチでは、街中で聴こえてくるドラムがすごかったとのこと。そこからのインスピレーションもありますか?

S:結局言葉も打楽器だから。そこに意味が乗っちゃうことが言葉のすごい強さで。

●「言葉も打楽器」も、強いパンチラインです。

S:もちろんラップをやる以上は、「打楽器的に乗せたい」と思ってる。そこは打楽器であると同時に、「意味がきちゃう」というのは時間も地域もぶっ飛ぶ、3次元を超えた、4次元だよね。4次元が入り込む隙があるというのが、言葉なんだよね。「脳」というものを持った人類が良かったか悪かったかはわからないけど、猿ではなかった大変化が我々に起きた。「言語の意味」というものが出てきた。人間の言語だけが時空を超えることができて、それも「ビートを伴って」ということがいいわけ。だからオレは、ポリティカルなことでも何でもいいから、「踊る」ことが大事だと。人間が偉そうにしちゃうと、つい「意味が偉い」みたいになっちゃって。

●感覚的な部分がなくなってしまう。

S:それもすごくおかしいと思う。

●まずは踊るだけでも違う。

S:同時に「ヘイ、ヘイ」言ってるだけじゃ、「言葉持って生まれたのに、それだけかよ」ってのもあるわけ。だからそこに、さらに4次元的なベクトルを入れながら踊るって、すごいよね。

●アフリカ・バムバータさんは、「すべてはドラム。世界で人類が共有できるのがビートだ」と仰っています。そこに「言葉も打楽器」と加わると、それこそ世界を繋げるためのツールだなと。

S:ゆっくり喋ってもグルーヴは出る。今まで小唄や義太夫節をやってきて、能の「謡」というものも月2回習ってるの。それは広尾のお寺で、「この人にだったら教わりたい!」という方がいて、すごい博識だから、音を西洋的に当てはめて説明できるし、西洋では言えない部分も、「ここは『拍子合わず』と言って拍子に合いませんが、大きい意味では合ってます。では、それはどういう拍子か」という風に説明してくれる。それって、聞けば聞くほど「グルーヴ」なんだよね。

●日本語を掘り下げ、自分のものにされる活動に加え、「国境なき医師団」の取材もされています。先ほど伺ったハイチの話もそうですが、唐突に国外までアンテナが伸びた気がしました。

S:まずは直感なんですよ。「国境なき医師団の役に立ちたい」という気持ちでインタビューに応じてたら、「そんな素晴らしいことしてるのに、知らなかった」ということがいっぱいあったわけ。だから、「もしや、伝えベタなんじゃないか」と思って、僕ならもう少し伝えられるかもしれないから「やりましょうか?」と、無意識に出てきてしまった。でも後から考えると、自分が国内的な政治に飽き飽きしてるというか。この国は全然良くなろうとしてないし、昔と同じような過ちを犯すようなことを平気でする。どんどん理性を失っていっちゃうことに、嫌気がさしてるところがあるよね。じゃあ、「国外に行ってみたらどうなんだろう?」ということと、そこから自分も日本を見たり、何かを人に言う時に説得力が持てるんじゃいかと。例えば、「ヨーロッパや中東ではこうです」と言うのは、自分で行って見てくると、代え難い重みを持つわけです。

●「リアル」や「現場」という感覚。

S:国境なき医師団については、全然誰にも決められてない〆切を自分でつくって、10日に1度10枚くらいは書くし、広報の人にチェックを受けて直す。おかげで小説は、結果書けないんだよね。

●方向性がノンフィクションになられた。

S:フィクションがつまらなくなっちゃって、自分で「もうしばらくいいや」って、それもどこか理由があると思うんだよね。だいたい自分が好きなフィクションはやり尽くしたんだ、今は。

●「良くなろうとしていない社会に嫌気」と仰いました。過去、「芸能界には違和感しかない」という発言もあります。日本は他の先進国と比べ、テレビをよく観て信じる国民性と言われますが、せいこうさんはそのテレビにもよく出られています。どうバランスをとっていますか?

S:僕はリアルな世界とわけのわからなくなっちゃった世界を繋ぐ、短い小さなパイプみたいなものだと思ってる。やっぱり、テレビの中にオレがいるといないじゃ、違うと思うんだよね。いないと、さすがに閉じちゃうというか、オレの役割は微かでも違和感を出し続けること。でもちゃんと、テレビ的なテクニックもやらせれば上手いという。「あの人、本当のこと言っちゃいそう」という感じで、そこに「いる」ということが大事なんだよね。

●そこは意識的に?

S:やってるよね。だから、臆せずゴールデンに出ていくというか、そこに「ただ、いる」だけでも、もちろんそこで何が言えるというわけでもないし、だいたい本当のことを言おうとすると長い時間が必要だから、テレビでそれは言えない。だけど、いるだけで「多少の亀裂は走るんじゃないか」ということは思う。

●絶妙なさじ加減が必要とされる。

S:いい違和感を出し続けないと、気持ちの悪い違和感だと、テレビを観る人たちも拒否反応を示しちゃうわけで。「あの人、何か面白いこと言うな」と思ってツイッターをフォローしてみたら、ものすごく政治的なことを平気で言ってるという、そうやってパイプをつくってるわけだから。

●今度開催されるせいこうフェスには、いわゆる「芸能人」の方々から「ストリート」な人脈まで、他にないハイブリッド感です。

S:僕は全然そんなに大きな存在じゃないですが、そこにいることで「せいこうさんもやってるから、いいか」と思えるということは、重要なことなんだよね。同時にそれはしんどいから、全部無責任に放り出して「しばらく南の島に逃げて休みたい」という気持ちは、ここ数年すごくある。

●姿勢や立場を共有できそうだと感じるのは?

S:水道橋博士じゃない?あいつは、テレビの側からそれをやってるじゃん。すごくちゃんと物を言うもんね。喧嘩するし、しかもちゃんと番組の中でそれをやる。博士はプロレスってものをよくわかってるから、どこで引くかとか、そういうことができる。オレはマジになっちゃうから、その土俵ではやらない。テレビという土俵でそれをやったら確実に負けさせられて、「ほら、ダメでしょ」となっちゃうから、自分のところに水をひいてきて、自分の場所で人を洗脳するということをやっています(笑)。

●プロレスが重要(笑)。

S:そういう人は他にも何人か、石田純一さんだってそうでしょう。黙らされちゃったけど。

●大変なことを、すごいバランスでやろうとされました。

S:石田さんとも楽屋で普通に、報道の話とか、政治の話とか、ほんの数回だけどそういう話もしたから。「この人、すごい芯がある」ってことが、その時にわかったの。ああやって自分の役目を果たして、負けたフリしてスッと身を引いて。「バカだ」みたいに言われてるけど、あの人がやったことはそんな話じゃないよ。だから、そういう人は、まだ、いる。でもちょっと足下すくわれたらお終いだから、その危うさの中で何人かの人たちがやってるんだなと思うと、「南の島に行ってらんねえな」というのは、あるよね。

●そんな想いも抱えながら開催されるせいこうフェス、会場のキャパは8000人とも聞きます。

S:入るのは、いいところ3000人とかだと思うよ(笑)。でもそれも、北巻という社長が(会場を)取っちゃったから。やっぱり、「建設的」を一緒につくったディレクターだけあって、「面白いことするな」という気持ちですよね。フザけたことをするし、全然、守りに入ってない(笑)。むしろ、オレがビビッたもんね。「何言ってんの?」って。だから、つまり「あの時ピテカン見ておいて良かったな」みたいな感じのことにしたい。「あれ見てなかったら、ちょっとわかんないよ」、「あそこでカルチャーがこうなっていったじゃん」というものになっていかないと、やった意味がないよね。同窓会じゃないんだから。

●ある意味そこは、社長に焚き付けられた?

S:何にも言わないけどね、彼は。「いとう、どうしたいの?」としか言わないから。「えー、オレは後ろをグラフィティにしたいんだよね。大山エンリコイサムっていう面白いアーティストいてさ」とか言うと、「いいじゃん」って(笑)。

●細野(晴臣)さんがコントをされ、Sandiiさんと竹中(直人)さんは「建設的」から曲をやり、Tシャツはナンシー関さんで、、

S:細野さんからは昨日弱気なメールが来て、「オレも歳だからちょっと、、」とか言ってるから「どう、もう一回口説きなおそう」と。Sandiiと竹中さんには「恋のマラカニアン」を歌ってもらって、Tシャツはナンシーと、さくらももこからリリー・フランキー、蛭子(能収)さん、(寿)さんとかみんなが全部一緒になった、普通なら権利がうるさくてありえないものを(笑)。「今回はお祝いだから、いい」って。

●安直に、そのハイブリッド感、マッシュアップ感がそれこそ現代の「ヒップホップだな」と思ってしまいます。

S:ナンシーのご遺族に連絡したり、岡崎京子とか、こういう機会だから、一緒にやった人たち「みんなが揃ってる」という風にしたい。この世にいる、いないは関係なくね。あと、今年川勝(正幸)さんが生きてたら還暦なの。それはオレにとって「なぜやるか」という隠れテーマ。これ、川勝さんのためにやってるだけだから。だって、小泉今日子がDUBFORCEで歌うんだよ!だから、「中央の席を一つ空けとけ」って言ってあるの。そこには「SP」って書いてあって誰も座れないし、すべてはそこに向かってやるんだ。

●そこまで想像できていませんでした。

S:そうすると、確かに「細野さんがコントやったら喜ぶよね」とか、「『再建設的』とか言って、カバーしちゃったわけ?」みたいな。喜ぶでしょう。「いとう君、やりますね」、「面白かったですね」って、言うにきまってるんだから(笑)。だから袖では「手を抜くな」、「わかってるんだろうな!」って言うよ。「誰が見てると思ってるんだ」って。

●現代に「文化の力」を見せる、ある一つの到達点な気がします。

S:文化、カルチャーがすごく面白かったのに「なんであんなに謳歌してたものが、急に低下しちゃったんだろう」ということがあるじゃん?戦後、80年代、90年代とあって「え、文化ってことごとく政治でダメになっちゃうの?」、「そんなに簡単にダメになっちゃうものだったんだ」って思うじゃん。するとジタバタするし、「100年、200年読まれるものを書かなきゃ」と思うし、「引っ掻き回したい」とも思うわけじゃないですか。こういう面白いこと、「やればできるんだ」って。そういうことに、「いとうせいこうフェス」はすごく関係してるよね。今、世の中にはヘイトが満ち満ちちゃって、「不況ってこういうもんだな」と思うんだ。しかも弱いモノに対するヘイトがこんなにあって、福島に対してだってそうだし、その福島の中にもヘイトはある。そうしてカルチャーの側が「ヘイト」になっちゃったとすると、カウンターカルチャーは「愛」なんだよ。だから、今「カウンターカルチャーをやりたい」と思ったら、「ラブ」しかない。あるのはハッピーなラブだけで、それをやるしかない。

●それを言うだけでなく、実践する。

S:「うわー、すげえいいわ」、「ラブだわ」、「愛なんだ」ってことを言えるバカさ加減が文化だから。ヘイトは全部政治、経済、メインカルチャーに持ってかれちゃって、中でも一番のメインであるネットの中にヘイトが渦巻いている。だからこそ、平気で「ラブだ」って言わないと。

●今までなら恥ずかしかったり、格好つけてたら言えなかったこと。

S:これは、カウンターカルチャーだから言っていいわけだよね。つまり、「悪いやつって、やっぱ『ラブ』って言うよね」みたいな感じがないと。「お前悪かったらさ、人を殴るんじゃなくてハグるんだよ!」って。それが本当のカウンターなのに、今はカウンタ―カルチャーがしょぼんとしちゃって。今までは世の中が夢のようで、ヘイトがカウンターだったから、みんな「ウォー」とか叫んだり、粗暴にするのが格好良かった。でも、それは今も粗暴にしてもいいんだけど、その代わり「ラブ」が中心だから。「ヘイトごとき、簡単にカウンターカルチャーがラブで潰せるんだ」ってことを、示したいよね。

●ヤン(富田)さんが仰る「何ごとも始まりはマイノリティから」という、そこに希望や可能性があると思います。

S:単純に、支配しようとする欲望に対して、「どう抗っていくか」ということがカウンターだから。「ヘイトさえもラブの力で包んでしまう」というようなことをしないと、ヘイトにヘイトで返し続けるのは、続かないし、問題が解決しないし、より悪くなってしまうと思うんだよね。

●雑な言い方になってしまいますが、マルコムXよりもキング牧師ということ?

S:あるいはガンジーだよね。マルコムXも格好良いし、憧れるんだけど、やっぱりそれってテロリストがみんなやってるからさ。今の世界にとってはマルコムXが普通で、珍しくないわけ。そういう時代だから、ガンジーにはものすごく学ぶ点がある。彼のデモとか、運動が過激化した時には「デモをやめる」とか、「そこに留まる」とか、ああいう人は日本の歴史上、鎌倉時代とか、いっぱいいたと思うんだよね。

 そう、せいこうフェスは「愛のフェス」なんだよ。