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DJ KRUSH DJを全うして死んでいきたいな。

 
   

Interview by 有太マン Yutaman Photo by Nathan Hosken

2011年12月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

●ソロ活動20周年を迎えた本年度年末、つい先ほど、金正日総書記死去のニュースが入ってきました。

DJ KRUSH(以下、K):予想外でしたね、この年末にきて。 

●今年は他にカダフィ、ビン・ラディンも亡くなり、世界的にも激動の一年でした。そういった変化を、世界をツアーしながら感じることはありますか?

K:例えば、ギリシャの問題をとっても俺らギリシャには毎年行ってて、それで次のツアーでもって話になったら、やっぱり「経済が破綻してそれどころじゃない。クラブで踊ってる場合じゃない」みたいな、あからさまにそういう状態が世界中で起こってたりする。政治的じゃないことでも、どこに行っても「天気がおかしい」とか耳にするし、大きな天災もあちこちで起きてるから、「大きな波の中にオレたちいるな」って。昭和から平成に変わって、2000年、21世紀を体験して、いろんな意味で激動の時代を生きてるなとつくずく思う。不思議なもので、9・11の時もちょうど「ZEN」というアルバムを出したタイミングでね。それでNYで小玉(和文)さんなんかとライブをやった流れで、取材でツイン・タワーの下で、事件が起きる2日前くらいに写真撮影してて。さらにはアメリカ・ツアー中、その報復としてアメリカが開戦したりとか。偶然にそういった事に遭遇したりする事も少なくないんだよね。

●そういったことは音の制作やライブに影響はありますか?

K:意識して、その影響で「こういうことを言いたい」とか、「こういう音にするんだ」とかを直接的に出す事はあまりないかな。でも直接的に遭遇しちゃってる訳だからから、あの時も、まわりが反対しても無理矢理「イマジン」かけちゃったりとか、そういうかたちで自分なりの表現っていうのは素直にやってたりはするのかな。

●それは狙ってということではなく。

K:そう、自然に。その背景には自分にも子供はいるし、やっぱり、今起こっている出来事に対して、自分なりに考えて、自分なりの答えに沿って行動に移すっていう事の大切さは伝えたいしね。

●スケジュールを見るかぎり、とても精力的に世界中を廻られています。

K:世界中、経済的にもあまりいい情勢じゃない時代だけど、そんな中でもツアーができているという現状は本当に幸せだと思ってる。それでなくても、「DJで本当に飯食ってるやつ何人いる?」っていう時代だしね。

●間違いなくそれを実践されていらっしゃいます。

K:実際、それが僕の夢というか、常に根底にある活力の様なものだったしね。ここまできたら、「それを全うして死んでいきたいな」と。

●今おいくつですか?

K:今年50だよ。

●今日は金正日が亡くなりましたが、先日はカダフィ然り、イスラム圏各地で、いわゆる「アラブの春」と呼ばれる大きな革命がおこりました。「革命」に何か思われることはありますか?

K:下の方にいる人たちにすごい皺寄せがあって。そういう人たちが苦しんじゃったとして、でも時代も進んでまわりが見えてくると、今自分たちの畑、田んぼが、他と比べて如何におかしいことになってるのかという。それはインターネットを含め、そう気付くことができる情報がある。昔はそこに生まれれば「そういうものだ」と思っていたけれど、今は見えちゃっている。歴史的にも、「それでどんどん変わってきている」過去があるから、所詮人間が地球上で営んでいることは100%じゃないという。その中で色んなことがおこるというのは、内容がどうのこうの言うよりも、ある意味必然というか。

●KRUSHさんは、当時映画館で「WILD STYLE」を観られて、そのままターンテーブルを買いに行かれたのが今に繋がった、というのが有名なエピソードです。そこで、「ヒップホップ」は、非ミュージシャンが既存の枠を壊した「革命」的な音楽として、語られることが多くあります。

K:でもその時は「革命」というよりも、「身近に感じた」という感じだった。まず、DJに関しては、俺らは昭和生まれだから親父はレコード・プレイヤーでレコードを聴いていたわけで、でもそれが楽器として使えるなんて、夢にも思っていなかったから。指紋もつけないで聴くものだと思っていて、「WILD STYLE」を映画館で観た時は、「それが道具になっちゃう」ということをすごく身近に感じた。「これ、オレもできるかもしれない」みたいな。実は、一通り、グラフィティとかもやってみたんだよ。親父が職人でペンキ屋だったから、スプレーとか塗るものはいっぱいあった。でもやっぱり音楽が一番合ったんだ。だから「革命」というよりも、すごく身近に「オレでもできるかもしれない」と、何か希望の光りの様に感じたのが大きかった。

●とはいえ日本での通常の暮らしと、あの映画で描かれている日常には差もあって、すぐに「身近だ」と感じることができた感受性は豊かで、敏感なものでなかったかと思います。ということは、そのさらにもっと奥にも、何らか共鳴したものがあったと思うのですが。

K:よくよく昔を振り返ると、音楽とか絵とか、やっぱり子供の頃から好きだったんだよね。小学校高学年の時に朝礼で鼓笛隊というのがあって、俺はそこで小太鼓をやってたりして。それに絵も好きで、運動会で景品として配る小さな手帳があったんだけど、その表紙を生徒がデザインするということで応募したら採用されたりとか。それで中学生になってロックとかに興味を持ち始めて、真似事みたいなバンドを結成して、俺はドラム担当だったんだ。でも当時はドラムも買えないし金もなかったから、学校でキックのペダルとスティックだけはかっぱらってきて、それでその友人宅は金持ちだったから、キッチンに行くと見たことのない西洋のクッキー缶がいっぱい置いてあってさ。それをみんなで食って、蓋を並べてシンバル代わりに練習したりしてたなぁ。でもさ、中2の夏くらいからは、だんだんと音楽より楽しいことが出てきてさ。「バイク乗ってた方が面白い」みたいな…。その頃からちょっとグレ始めて、そっちの方にズレていった。今考えると、若いから何をしていいのかわかんなかったんだろうね。暴力で体を覆ってそれで自分を確認しているみたいな(笑)。色々迷ってて、結局、迷いながらそういうところで逃げ場を作ってたんだと思う。そんな中で新宿でプラプラしてる時にたまたま出会ったのが「WILD STYLE」だったんだ。その時に、幼い頃にものを作ったり表現したりする事が凄く好きだった事が何故かすごく思い出されて、それで観た瞬間に感化されたんだ。自分を発散できる、「革命」というよりも、ただ「これしかない」と。それで何週間後には、エナメルの靴を脱ぎ捨てて、アディダスになってたみたいな(笑)。

●いたって自然に入ってきたわけですね。

K:あれを観てなかったら「果たしてどうなっていたのかな」ということを考えると、不安になってくるね。

●「DJ KRUSH」の名前は、どのタイミングで付くことになるのでしょう?

K:その後何年か経って原宿のほこ天でやるようになって、そこではCRAZY-Aや、昔のZOOのメンバーなんかも踊ってて、その中で今度は「ラップ」っていうものが流行り出して。そこでB-FRESH3のBELL君と知り合ったんだ。それで「日本語でラップやろうか」ということで、KRUSH POSSEの前にB-FRESH3ってのを始めたの。そこでは僕と実の弟の2DJで、BELL君がラップとブレイクダンスを両方やってたんだけど、当時M.I.D.とかYUTAKAさんとかと繋がりがあった黒人が2人いてさ。彼らもラップができたからよく週末の営業とかに連れて行ってたんだ、。世界の大道芸人フェスで手品やってる横でDJやって小遣い稼いだりとか。それはやっぱり黒人いた方が派手だから、ということでだったんだけど、当時俺ら名前なかったから、奴らに「名前つけてくれよ」って頼んだら「お前らちょっとイカれてるから、(英語でものとものとがぶつかり合う)擬音語でクラッシュ・バーンというのが出てきてさ。それがきっかけかな。最初は特に大きな意味とかなかったんだよね。

●ご出身は茨城とのことで、今回の震災で少なからず被害を受けた地域だと思います。

K:親父の実家がしちゃって、本家の墓もぶっ倒れて大変だった。身内で怪我とか亡くなったりした人はいなかったのが幸いだったんだけど、それなりの影響はあった。あと親戚も茨城に多く住んでたり、母方も内陸の方だけど仙台だったりするしね。福島の問題も含めて、やっぱり今も凄く深刻には考えてるよ。

●当時はどこにいらっしゃったんですか?

K:家にいた。リビングで、揺れ出して、最初は結構ゆっくりだったから「大丈夫かな」と思ったら止まらないから、最初に娘をかばって。それで自分の部屋に戻ったらスピーカーもひっくり返ってて。

●日本での報道や政府の対応に関して、海外からの視点で見られていたかと思います。

K:それは正直あった。実は震災直後にアメリカでの仕事が入ってて、当時は福島も予断を許さない状況だったから渡米を凄く迷ったんだけど、逆に今俺ができる事は、俺なりに日本の状況を向こうの人達に伝える事なのかなって思って、家族と離れるのは凄く心配だったけど結局行ったんだ。そしたら、みんな凄く温かくて、自主的に会場とかで寄付を募ってくれたりもして、本当に感動した。と、同時に、向こうのニュースで報道されている事と日本で報道されている事が全然違う事に凄く戸惑ったね。正直、何が本当に正しい事なのかまだまだ全然俺自身も整理や判断ができない時期でもあったしね。

●ライブで行かれたんですか?

K:プリンストン大学で、俺の音を含めて東アジアの音楽を長年研究している日本人の教授がいてて、その方が発起人になっての学会に呼ばれて、そこでの講義と学内でライブもやってきたんだ。その教授っていうのが年配の女性の方なんだけど、とにかく俺の音の凄く細かいところまで見ているわけ。ドラムのディティールとか、俺でさえ意識していない様なすごい細かいことまで聞いてくるんだよ。俺も意識的に微妙にズラしてグルーヴつくったり、細かいところにまでこだわっているんだけど、そういうところまでちゃんとわかって興味を持ってくれる人がいるというのは凄く嬉しいし、「手を抜けないな」って改めて思ったね。

●海外では、KRUSHさんの音に、ある意味「日本らしさ」を見出している側面があると思います。それはご自身で、どこまで意識されているんですか?

K:聴き手側も、もちろん尺八だったり、三味線だったりの日本の伝統楽器の音の様な表面的なところで、そう感じてくれている人もいるとは思うんだけど、そういうところとは違う部分で、俺の音から「日本らしさ」を感じてくれている人も多いと思うんだ。特に海外の人はね。それは、空気感だったりとか、ドラム一つ一つの距離感、ドラムとネタの距離感の「間」の部分だったりとか。俺的にも、単純に日本っぽい音をただ乗せたりの直接的なアプローチというよりは、そういう日本人特有の繊細さとか職人的感覚とか、そういった表現に興味があるんだよね。でもそれはって、なかなか意識してできるとでもなかったりもするじゃない。それはたぶん、日本人特有の感覚的なところから来るもだったりもすると思うし、逆にそういう内面から出てくるものを、俺も良い意味で意識せずに追求していくところに俺らしさがあるのかなって。

●その、意識せずとも出てくる部分は、どこで培われた感覚だと考えますか?

K:何だろうなあ。よくわからないけど、昔から頭に描いているものをかたちにすることが、すごく好きだったし、自信があったりはしてたかな。家は裕福じゃなかったから、プラモデルとかはなかなか買ってもらえなくて。それで友達の家に行って、ロボットなんかをつくり終えた後の、骨組みとか余ったパーツとかをもらったてかき集めて、全然違うものつくちゃったりとかよくしてた。そういうルーツから来ているのかもね。

●マイルス・デイビスやジミ・ヘンドリックス等々、敬愛されているミュージシャンも多々いらっしゃると思います。「いい」、「心に響く」音楽の定義をお聞きしたいのですが。

K:やっぱり、今までフューチャリングしてきた人も含めて考えると、「その人にしか出せないもの」だったり、その人自身に「なんでこんな音ができるんだろう」、「なんでこんなラップするんだろう」って、興味を持てるというか。音を聴いただけで「あの人だよね」という、個性の強さだったりとか、マイルスなら常に、色んなこと言われるけど、「前に進んでいく」とか、変化していくことを恐れない。そういうことがすごく好きだし、やっぱりそれをやってこないと、「今のDJ KRUSHはなかったかな」と思う。KRUSH POSSEの時は価値観がそうじゃなかった。MURO君とかGO君も若かったし、いかに「本場のヒップホップに近づくか」、「本場のヒップホップをやるか」と、「ヒップホップの美学」を求めたと思うんだ。でも僕俺はそうじゃなくて、「ヒップホップの自由」に魅力を感じたし、可能性を感じたんだ。美学も大好きだけど、でもそこにいちゃうと、どうしてもアメリカがあるし、「勝てない」と。俺にしかない何かを確立させないと、「絶対世界は認めてくれない」と思ってたから。

●最初から世界を見てらっしゃった?

K:KRUSH POSSEを解散した当時から、青写真はあった。当時、レコード会社にデモ・テープ持って行ったりもしたんだけど、担当してるのがいいオヤジで、ラップとかヒップホップなんか聴いたことない人ばかりで。「こんなところでやっててもダメだな」と思って、そんなことがありつつKRUSH POSSEが解散になって、その時俺はもう日本は見てなかった。でも、いきなりアメリカには行けないとも思ってたんだ。「まだあそこで刀出せないな」と。まずヨーロッパでしっかりと基盤を作って、そこである程度ハンコ押してもらってそれなりのものを得たうえでアメリカかなと。そこまで行ければ、必然的に日本でも注目されてるだろうって、そういう構図はあったよ。

●その時にアメリカがヨーロッパの向こうにあったのは、なぜですか?

K:やっぱりヒップホップが生まれたところだったし、オレ的にちょっと壁が高かったというか、自信もなかったんだろうね。あと、アメリカのリスナーはなかなか閉鎖的なイメージもあったんだ。そういう意味でもヨーロッパはもっと柔軟な感覚や耳を持った人が多い様な印象が強かったし、実際に受け入れてくれる間口結構広かった。そこでまずはヨーロッパにターゲットを絞って、各所にカセット・テープを送り続けてたら、「ストレート・ノー・チェイサー」って雑誌のチャートにデモがボンッと入って、それでMO’ WAXのジェームス(ラヴェル)が、「こいつ誰だ?」って興味を持ってくれたんだ。

●先ほど、ヒップホップの「美学」を突き詰めるよりも「自由」を選んだと仰られました。とはいえ、本場アメリカのヒップホップに対する強い意識も感じます。「ヒップホップ」そのものを、どう捉えていますか?

K:やっぱり、自分の人生を変える方法をくれたわけじゃない。だから、意識的にそこで少し違うというか。そしてそこに行くには、ちゃんと「自分として『自信がある音』を持って行かないと失礼だ」と思ったんだ。そもそも自分なりのものを持って行かないと、本場だからとか言う前に、「勝てないな」と思ってたし、「(刀を持つ仕草で)抜けないな」と。そういう想いが強かった。さっきも言ったけど、ヨーロッパでツアーをたくさんやって揉まれて、アルバムも何枚か出して、ようやく自信もついてきて、そうしたら今度は「どの程度通用するのか、試してみたいな」って、やっと素直にそう思える様になったんだ。

●実際の受け止められ方は、どう感じましたか?

K:当時自分ではよくわからなかったけど、やっぱりちゃんと骨があるものを出せば、ちゃんと伝わるんだなとは感じた。だからやっぱり「音」で、そういう瞬間で言葉はあまりいらないと。(DJ)Shadowと一緒にやった時もそうだし、リズムでお互いにわかるし、ということはすごく感じたし、大きな自身にもなった。

●これまで約50カ国、300都市くらいを廻られているとのことで、逆にKRUSHさんご自身が見る、「日本らしさ」とは?

K:外に出てみて、客観的に自分の国を見た時に、良いところも悪いところも色々と感じることは多いよ。わかりやすいところでいうと、日本人は繊細な感覚を持ってるなとよく感じるよ。シャワーの微妙な温度調節だったり、便器のフィット具合とか (笑)そういう日本人的な感覚は、俺の音にも反映されてたりするんじゃないかな。

●逆に、日本に対して、「もっとこうしろよ」みたいなことも見えてくるのではと思います。

K:やっぱり島国だし、なかなか表に出る機会がないじゃない。ヨーロッパなんか陸続きで、休みになれば他の国の文化なんかも簡単に見られる。アメリカも広いから、あの中で全然違うじゃない。もちろん日本の中にもそれはあるんだけど単一民族だったりもするし、「違う畑を見る」ということは、すごく自分を冷静に見れる機会になるし、これは昔から言われていることだけど、それは「本当に大切なことだな」って思うよ。行ってみないとわからないことは山ほどあるから。簡単なことではないかもしれないけど、生きてる間に1つでも2つでもいいと思うんだ。「自分とは違う畑に足を突っ込んでみる」、「ちゃんと外の土を踏んでくる」ということをすれば、ちょっとは自分の国のいいところも見えてくる。それがないと、ずっと同じ中にいるとそれが当り前だと思うし、何か起きたら大騒ぎしちゃう。そんな中にいるからこそ自分の定規を持てなくて、みんなで他人が測ったのを見て、「ああ、オレもそっちに行こう」ってことになっちゃうんじゃないかと。

●長年に渡り、ビートだけで音を通じて表現活動を続けてこられたと思います。その上で、社会に対して音楽が果たせる役割、機能をどういう風に感じていますか?

K:俺は作品は絵を描いているつもりで創ってて、特にインストのものは言葉が乗っていないから、どこの国の人も聴けるし、国境なんてない。だから、音を聴いて感じることは誰にでもできるんだよ。そこで僕俺の音と絵を観てもらって、そこから何かを始めたりするような「きっかけ」になってもらえれば、僕俺はそれで十分。だからそこは、精魂込めた絵を、これからもみんなに魅せようと思うし、それができるように一歩一歩進んでいく。結局何が起きても止まるわけにはいかないし、後ろにはいっぱいいるし、そいつらのためのにも後ろ向きじゃなくて、背中を見せて、前に行くことしかできないからね。

●何かをつくる行為は、人間にとってどういうものなのでしょう?

K:ありきたりな言い方だけど、少なからず俺にとってはすごく大切なこと。見た人たちがどう感じるかはわからないけれど、でも俺は今、音楽で俺自身を表現してる。それができなかったら、たぶん具合悪くなって死んじゃうかもしれないね(笑)。俺が創った音を誰かが聴いたり、頭の中に入れたりしてくれて、いいかたちでループしていってくれればいいなと思う。少しでもそんな輪が広がれば最高だね。

●最後に今後の活動について教えてください。

K:20011年の9月から始まったマンスリーのシングル・シリーズがこのまま夏まで続いていって、その流れでアルバムを出せればって考えてる。シングル・シリーズは聴いてもらったらわかると思うけど、毎月1曲単位でりり
ースしてるものだから、良い意味で、それぞれの統一感とか共通性はあまり考えずに、曲毎にいろんなDJ KRUSHのカラーを見せていければっていうコンセプトでやってて、そうして、今の俺を様々な角度で吟味してもらった上で、アルバムで次を見据えた新しい俺の世界観を改めてしっかりと見せれればって考えてる。だから、シングル群とアルバムとは基本的には違うものになる予定。あと、これまでに出したマンスリー・シングルをまとめたアナログも今月末にリリースされるから、そっちも是非チェックして欲しいね。
ツアー面でいえば、12月から中国を皮切りに20周年のワールドツアーがスタートしてるんだけど、4月位まではその流れで、ヨーロッパ、北米、オセアニアなど30カ所程回るんだ。スケジュール的にはかなりタイトだけど、各所でしっかりと新しいDJ KRUSHを置いてきたいと思ってるよ。
(12/19/2011@新宿サザンテラス)