Text By Yutaman(有太マン)
2012年4月にRiddimOnlineに掲載された記事です。
ラッパーとしてだけでなくDAME Recordsを主宰するダースレーダーが若くして脳梗塞に倒れ、その後に出したのがこの2枚のアルバム、「NO拘束」ともう一枚の「夕日のガンタイ」である。「脳梗塞、3.11、人生何があるかわからない」と語るダースに旧知の有太マンがこの2枚のこと、心境についてインタヴュー。
●新作にはヒップホップ本来の自由さ、初期衝動、そして蓄積されてきた経験なり、大切な要素が多く詰まっていると感じました。ただ、わからなかったのは「これは誰に向けてつくられたものなのか?」ということでした。
ダースレイダー(以下、D):まず、前回の「NO拘束」と今回の「夕日のガンタイ」に関して「想定した層」は、いわゆる「誰かに向けた」のではなく、むしろ「自分に向けて」つくってるくらいの勢いです。何より自分が聴いて「納得がいくものかどうか」という位置がスタート。そして、もしそこから、万が一その隣の人が「いい」と思ってくれたら「それは幸い」という感じです。たぶん、特定のマーケットを想定してそこに向かって投げるということではなくて、だから「こういった年齢層がどうとか」という想定もまったくない。何よりもまず、つくったものを自分が聴いて「面白い」と思えるかどうかというのがハードルで、それを「自分でつくれるのかどうか」という。子どもの頃から色んな音楽を聴いてきて、そんな自分に対して「今、こういうことをやってます」ということを聴かせ、納得できるものをちゃんとつくれるか。それがハードルで、それをもし、他の人が面白いと思ってくれたら「良かった」というサジ加減です。だから、すごくパーソルって言えばパーソナル。でも「売り物」である以上、自分に向けてつくったものがちゃんと売り物として成立するレベルでつくれるか、それが基本的な目標というか。「渋谷の若者に受けたい」とか、「レベル・ミュージックとして、今闘っている人たちに向けて」とか、そういう漠然とした層ではなく、「僕個人というリスナーに対して訴えかける」というか。
●昨今、そういう気持ちを持っていたとして、実際にそれをつくれるミュージシャンはあまりいないのでは?
D:僕の場合は病気したってこともあり、まずは「個に立ち戻らなければ」どうしようもないっていうところでもありました。脳梗塞になって倒れて、やっと「録音とかできるようになったぞ」となった時、もう「極小、ミクロの自分っていうところまで立ち戻らないことには何もできない」ところまで戻れた。というか、「戻っちゃった」ので。退院してきた後、心配してくれたり、応援してくれてた人もたくさんいるので、色んな人の協力を求めて、たぶん「withフレンズ」みたいな、ドラマチックな内容にすることもできたと思うんです。「お涙頂戴」って言うとあれですが、色んな人にフィーチャリングで入ってもらうようなかたちで。でもそこで、選択肢としてそうじゃなくて、「一人前の人間に戻る作業をここでやんなきゃダメだな」と思って。それで、自分でレーベルをやっているということもあるので、その瞬間につくらなければいけなかったものは何かと考えると、まず「自分を復活させる」というか。自分が通ってきた道をしっかり記録しておかないと、それこそ3・11もあったし、それは、突然夜倒れたってこともそうなんですが、後日何があるか、この先「人生何があるかわからない」ということが実感としてあった。何かしら表現しているものとして、まず自分を納得させるものをつくっておかないと、人とやる以前の問題かなと。
●そうしないと、向き合えない。
D:人と向き合うためにも、順序として、まず自分と向き合うという。
●前作「NO拘束」とは、どういった意味で対になっているんですか?
D:「NO拘束」はわざと音を人工的につくっていて、極力音を少なく、ドラム+αくらいのサジ加減の、「リズムと言葉」みたいなつくりにしています。それで「夕日のガンタイ」に関しては、むしろ音楽そのものをそのままで、サンプリングとかっていう意味を超えてそのまま使っちゃうというか。だから音数も多かったり、色んな楽器が鳴ってたりしています。この2枚は同時期につくっていたんですが、人工的でモノトーンな、暗くなる傾向もあった、そういうパーソナルなすごい狭い空間としてのつくりをしたのが「NO拘束」。そこで、今まで色々聴いてきた音楽から引用してきて、カラフルになっていった曲たちは「NO拘束」に入らない。そういった曲が気付いたら10何曲できていたので、「これはこれでまとめよう」と。だから、同時期につくっていながら「NO拘束」と「夕日のガンタイ」に入ったものに分かれていて、それで6ヶ月のインターバルでできたってこともありますね。
●「自分を納得させるためにつくる」作業は、今までの方法論とは違った?
D:そうですね。「新人」というとあれですが、「一人でも聴いてくれればいいかな」くらいのところからスタートでした。
●つくる過程、できたものへの想い、作業後の充実感とか、結果としてどう違いましたか?
D:少なくとも、昨年中にアルバムを2枚つくって2012年になった今、ようやく人とまた曲をつくったりとか、お願いできる心境になったかな、みたいな(笑)。去年までは、「絶対一人でやるぞ」って意地になってたところもあるんですが、そこからようやく抜けられた。ラッパーとして、「普通に人と対等に付き合えるようになったかな」というところまで、戻れた気がします。
●それにしても、脳梗塞はもっと年配の方がなる印象です。
D:入院している間は病院でも、一番若いくらいの若造でした。それまで病院の検査とかを全然受けてなかったせいで、後からだと厳密な原因はわからないらしいんです。推測では色々できるけど、データがない。昔にうちの父親も調子を悪くしたみたいな遺伝の可能性もあれば、当然不摂生の可能性もある。シグナル的には当たりどころが良かっただけで、もし場所がずれてたらもっと深刻な障害が残っていた可能性もあった。不幸中の幸いらしいんですが、そこに関しては医者も後追いではわからないと。ただ、予防策として血液をサラサラにする薬を常用しなきゃいけなくなったし、他に今回わかったのは生まれつき膵臓が悪かったらしくて、それは「いちがた糖尿病」っていうんですが、元々の体質としてインシュリンの出がものすごく悪いと。それは糖尿病患者の中でも1割未満らしく、それが原因かもしれないし、ただ、直接的にはどうかわからない。
●こんな質問で恐縮ですが、障害は何らか残らなかったんですか?
D:今は左目がボヤけちゃってて、見えていません。ただ、倒れる前から視力は落ちてきていたので、原因が実際どうなのかはわかりづらいところです。眼科の医者曰く、左目は結構深刻とのことで、実は右目も結構マズかったんですが、それは手術を何回かして食い止めることができました。言語だったり記憶だったりは、全然大丈夫でした。
●そして「脳梗塞」が「NO拘束」であり、もう一枚「夕日のガンタイ」はサブタイトルに「Chill After Blood」とあります。
D:まあ、「夕日のガンタイ」は単純な「夕日のガンマン」との語呂合わせですが、「Chill After Blood」というのは、去年右目も一時期見えなくなって、それは大丈夫だったはずなのに出血があって。視界が真っ赤になったまま3週間くらい過ごさなきゃいけなくて、その間は何も見えない状態で。
●「視力を失うんじゃないか」という恐怖と闘った。
D:相当危なくて道も歩けないし、単純に食事もできない。実際「あ、眼の端に血溜まりが見えた」と思ってから40分くらいで真っ赤になっちゃって、どうにもならなくて。すぐ眼科に行って、「血の塊が眼を覆ってるから、これが自然にひくのを待ちましょう」と。「眼は精密機械だから、あんまりイジるとよくない」ってことで、でも1週間半経ってもひかなかった。「この状態は一ヶ月以上続きます」とのことで、それは僕的にも生活が不便だし、手術で取り除いてもらうことにして。今は、それが上手くいったので、右目は一応出血前の状態くらいまでは回復しました。ただその間、視界が真っ赤だった時期というのは精神的にも結構辛かった。何も見えなくて、何もできないからとりあえず音楽だけ聴いていたんです。でも音楽を聴くにも、iPodとかはモニターが見えないから操作できなくて、使えない。データは使えず、CDプレイヤーもボタンがわからないから聴けなくて、その時にアナログ・レコードは聴けたんです。視界が真っ赤でも、あのサイズだとおぼろげにどのLPかはわかる、みたいな(笑)。あとはターンテーブルが手で回して押せばわかるから、とりあえずアナログを聴き直し続けて。だからその時に聴いたアナログ・レコードは、「夕日のガンタイ」のサウンド面にかなりフィードバックされたかなと思います。手当たり次第、朝から起きてる間はずっとレコードを引っ張りだしては聴いて、という繰り返しだったんで。
●普段だとそんなに真摯に、まっさらな状態で音楽と向き合うことも、なかなかないかもしれません。
D:やっぱり「ながら族」というか、漫画を読みながら、テレビを観ながらになりがちなのがまったくなくなって、椅子に座り、前のスピーカーから出てくる、流れてくる音を受け止めて。A面全部聴いたら裏返してB面聴いて、時間潰すにも本も読めないしテレビも観れないから、ひたすら朝起きては1枚聴き始めて、昼ご飯食べてまた聴き始めて、みたいな。
●リリックの「1秒前の自分を殺す 1秒後の自分を生かす」というのも、特にその頃強く思ったこと?
D:「その瞬間をちゃんと味わわないとダメだ」と。その時は「音楽を100%味わっている」状態で、「その1秒間をマックスで体験する」みたいな。かつ、勝負事、例えば僕はMCバトルとかにも出てきて、勝負事を挑む姿勢というか、ちゃんと「自分の1秒後を獲得していかないとダメだ」というか。ただ過ごしていても時間は過ぎていくんですが、しっかりそれを掴むかどうかで「内面のカラフルさ」が変わってくる。それは何も見えなかった分だけ、「その中にあるもの」が大事になってきて。そこは考えました。本当に「1秒先のこともわからない」中で、その「刹那的な一瞬をどれだけ燃焼できるか」みたいな。
●去年の3・11の時はどんな状況でしたか?
D:ちょうど普通に家族でご飯を食べていて。眼が見えなくなる前で、脳梗塞からは退院してきて、ちょうど真ん中くらいです。脳梗塞で倒れた時は、退院できて「こういうことも人生では一回くらいあるか」と思ってたら、3・11があって、そういう「全部変わる」みたいなことがもう一回あった。さらにはその後眼も見えなくなって、「これは何度でもくるぞ」と。だから「ちゃんと捉えておかないと」ということもあった。今年は3・11の時は沖縄にいて、ちょうどエイサーの太鼓を叩きながら踊る青年団を見ていて。そこで、あれは「生命力」というか、「希望」みたいなものをすごく素直に感じられたんです。それもやっぱりドラム、和太鼓のリズムだったりと、その上に乗っかる青年のかけ声とかから。そこで力をもらえたから、もらえたってことは返すこともできる。それはそういった体験に対しての答えとして、リズムがあって、その上に何かしらを乗っけることで力、エネルギーを産み出せるというのはわかったから。だから「それは今後もやっていかなきゃな」と思ったんです。
●リリックには他にも色々な名称が出てきて、それこそ音楽界からはアーチー・ベルやKool G. Rap、マイルスもあり、座頭市や黒帯ジョーンズといった映画陣、さらにプロレス界からファンク兄弟までありました。脳梗塞前と後で、魅力を感じることに変化はありましたか?
D:よかったのがよく見えなくなったという、減ったものは実際なくて、それよりも、中高時代から聴いてたり観てたり読んでたものの輝きが増してきたというか。「黒帯ジョーンズ」も、眼が見えなくなった時に舞ってる姿が鮮明に出てきたり、テリー・ファンクは、横浜アリーナで大日本プロレスの興行があった時、僕が入場曲を歌ったことがあったんです。そのリハの時、来日中だったテリーがそれを見てくれていて、リハ後「お前等よかったよ」って言ってくれたのが単純に元になっている曲です。ドリー・ファンクの方は、後楽園ホールで試合を観ていただけなんですが。「ファンクがこっちを見てた」っていうリリックは、アイドルのライブと一緒で、ステージを見ているのはこっちなんですが、「あ、今ドリーがこっちの方見てた」みたいな(笑)。でもそういう、「一瞬一瞬をもう一回大事に思い出そう」というか、実は記憶障害の可能性もすごくあって、最初のうちは検査があったんです。新聞とかを持ってこられて、「この日、何をやってたか覚えてますか?」みたいな中で、自分でも「ちゃんと覚えてんのかな?」と不安になって。それで結構、自分の後を振り向くじゃないけれど「こういったこともあったな」と、考えるきっかけにはなりました。あとは眼が見えなかった時、どうしても思考が後ろ向きになって、それは先が見えないから、昔のことばっかり考えるんです。どうしても、「もしあの時あれをしてなかったら、今こうなってなかったんじゃないか」みたいな考え方というか。それは例えば単純に女の子と遊んでた時、「あの子にあの時告ってたら、結婚して別の人生になってたかもしれない」とか、そういう後ろ向きな思考で結構バックインザデイズしちゃって。手術をするのが決まる前、ただ「血がひくのを待ちましょう」という間、本当に一日が終わって朝起きて「ああ、まだダメだ」。また次の日起きて、「まだ真っ赤だ」という繰り返しで全然前に進めなかった。それは「手術をする」って決めたら、その日が目標になってちゃんと前向きになれたんですが、その間は本当にずっと後ろのことばかりだった。曲で言うと、「SHAPE OF MY HEART」が完全に後ろ向きな頃の自分を歌ってて、その中で細かい固有名詞だったり好きだった音楽、レスラー、漫画だったりがフラッシュバックしてきて、それは同時に、記憶がちゃんとしてるってことの証明にもなったんですが。
●世代として「ジョジョの〜」くらいまでは出してくるのもわかりつつ、「奇面フラッシュ」(ハイスクール!奇面組)まで出てきてました。
D:あれは未だに、「どういう構造の必殺技だったんだろう」って(笑)。奇面組の主人公「一堂零」は、僕が本名が「和田礼」なんで、なんとなく親近感があったという。
●リリックが色々な展開の最後、「飛ぶ」という表現で終わることが多いような気がしました。
D:それは前に進まなきゃいけない時、ガタガタ震えるというか、「怖い」気持ちが常にあって。手術の直前は本当に「飛ぶ」感覚というか、特に眼の手術は、脳梗塞をした後で全身麻酔が使えなかったので、局部麻酔だったんです。だから、ある一帯しか麻酔をしていないため、全部見えていた。眼に針が迫ってくるのも全部見える状況で、「覚悟を決めるっきゃないんだぜ」って、YOU(THE ROCK★)さんじゃないですが、「あぁ、もう行くしかないな」みたいな、そういう気持ちになることが多かった。でも、飛ばないことには先に着地できないし、同時に問題は着地だってこともあって、飛んだから済むって問題じゃない。とはいえ、どうしても飛ばなきゃいけないタイミングが多くなってきて、だったら「ドーンッ」と行かなきゃなと。
●また、「ドラム経由でGROOVEが一つに」、「ロックもラップもない」あたりのリリックから、アフリカ・バンバータさん直系のメッセージも感じました。
D:「バンバータの教え」は当然、僕も生徒なので(笑)。そしてそのあたりは、P-FUNKの曲でも「BY WAY OF THE DRUMS」って「ドラム経由」ということもあり。ドラムって、「ドラムが鳴ってなくてもドラムを感じられる」というのが大事で。「跳ねた、跳ねた」って、ドラムがないんですけれども、「ビートが効いてる」、「ドラムがここにちゃんとある」というか。ドラム、リズムを意識してやっていて、ちょっと前の作品でも僕は「すべてのリズムで踊ろう」という風に言っていて。それは例えばサルサでも、または和太鼓だろうが何だろうが、やっぱりバンバータも探求者というか、「パーフェクト・ビートを探す旅に出ている人」だと思うんです。それさえもリズムがあれば、そうするとそこには絶対「FUNK」が生まれるから、それを強引にでも肯定する考え方というのが「ヒップホップである」と。もう、「ドラムが鳴っていて、上に自分がドーンッと乗っかっちゃえばヒップホップだぜ」というのが、基本なんだろうなと。「ヒップホップ・ミュージック」というフォーマットはヒップホップの1側面でしかなくて、結局「誰が叩いたドラムであろうと、上に乗っかっちゃえばヒップホップになる」という考え方があれば、それはロックだろうがジャズだろうが何だろうが、というのが究極のところです。それはすごく、自分でやりながら実際そう思ったというか。
●「対自分」を突き詰めて作品をつくっていく上で、そう思った。
D:そして、それは「対世界」でもあります。世界中のリズムの力を借りていると言うか、同時に、世界のあらゆるリズムの上に自分一人で乗っかれるのもヒップホップだから、その面白さというか。それを感覚としてやれて、「ドラム経由でワン・ネーション」というのを言語化して、ラップして。それでそこでもまた、「飛ぶ」話をしてると思うんですが(笑)。