Interview by 有太マンYutaman
2012年8月にRiddimOnlineに掲載されたインタビューです。
福島県はいわき市を中心に、北は原発から20キロ圏内に入る大熊町や楢葉町、南は茨城県北茨城市大津町にまで伝わる郷土芸能「じゃんがら念仏踊り(以下、じゃんがら)」をご存知だろうか。毎年お盆の8月13日から15日の間、約100団体が地域に供養の太鼓と鉦の音を鳴り響かせるじゃんがら。一説には2キロ離れれば団体それぞれに違うリズムを持っているというそれは、過去一年の間に親族を亡くなされた家々を、鎮魂と弔いのために巡る。それが、特に昨年震災と津波で沿岸部に大きな被害を受けた彼の地において、おのずと特別な意味を持ったことは想像に難くないだろう。
昨年その世界に単身飛び込んだのが、いわき市出身のドラマー&パーカッショニストASA-CHANGだった。そこには「太鼓とASA-CHANG」という、私たちが安直に思いつく繋がり以上の、言葉にし難い多くがあった。
この原稿がアップされるのは8月12日。つまり翌日から3日間、今年も例年通り、じゃんがらの太鼓と鉦の音が鳴りわたる。
昨年の6月頃、自分は「じゃんがら」と聞けばラーメン屋を思い浮かべていたし、今でも東京においてはそれが一般的な感覚だろう。
「じゃんがらとは何か」が初めて自分にインプットされたのは、その頃ネットで大友良英氏の芸大での講演「文化の役目について」を読み、震災と原発事故を受けての、大友氏や遠藤ミチロウ氏といった福島県出身のミュージシャンたちの取組み「プロジェクトFUKUSHIMA!」を追いかけ始めたことに端を発する。そしてそこに呼応するかたちで、それこそ3・11当日は大友氏とスタジオで録音中だったASA-CHANGがひとり飛び込んだものとして、郷土芸能「じゃんがら念仏踊り」を知った。
名だたるミュージシャンたちが結束して大きな取組みを成功させようと奔走している傍らで、遡れば東京スカパラダイスオーケストラを創始するも脱退し、以降はソロ・アーティストとして、世界中のリズムを貪欲に吸収しながら進化を続けるASA-CHANGが選んだ「じゃんがら」。
その後「プロジェクトFUKUSHIMA!」から派生した「フェスティバルFUKUSHIMA!」には結果的に坂本龍一氏も参加し、それはテレビの特番、さらには映画としても結実した。同時に自分は全貌もよくわからぬまま、それとは真逆な方向性にも感じたASA-CHANGの動きに、なぜか惹かれた。以前アフリカ・バンバータ氏の口から聞いた、「ドラムが世界の結束の鍵である。世界中どこにでもドラムがあることが、それが可能なことの証なのだ」との言葉が印象深かったからだろうか。
「フェスティバルFUKUSHIMA!」は終戦記念日に開催され、おのずとASA-CHANG参加のじゃんがらと開催日が重なった。その背景をASA-CHANGはこう説明する。
「僕は大友良英さんや遠藤ミチロウさんがやっている『プロジェクトFUKUSHIMA!』に今でも賛同し属してはいるんですが、そこで起こすアクションと被災の異差を感じて、きちんと説明をし、暖簾分けをさせてもらって『プロジェクトFUKUSHIMA!IWAKI!!』を立ち上げました。それは、自分には『同化すること』の方が大切かなと思ったからです」
福島は北海道、岩手に次ぐ、日本で3番目に大きな県である。決して近くはないいわき、福島間を車で往復しながら、自分はその両方を生で目撃し、共に素晴らしかった。
たくさんあった場面の中で、特に心に残る一つは、じゃんがらの美しさだ。
通常、より多くの集客を念頭におきながら郷土、伝統芸能は少なからず観光資源化されている。じゃんがらがそれらと大きく異なるのは、それが観客のためでなく、あくまでも故人の供養のために行われる点だ。実際過去に観光資源化の試みもあったと伝え聞くが、見てみて思ったのは、ことの性格上「はまりが悪かっただろうな」ということだった。
炎天下、どこからともなく鉦の音が聞こえてくると、浴衣に足袋、鉢巻き、腕には手の平から肘までを隠す手甲と呼ばれる衣装に身につけ、一列に並んだ10数名のじゃんがら青年会が現れる。ASA-CHANGの所属する青年会には太鼓を叩く女性もいる。軒先に目印となる盆灯籠を掲げたそれぞれの家主の導きで、その中庭や駐車場、家の前にスペースで、じゃんがら念仏踊りは披露される。そこでは当然太鼓と鉦が鳴り、踊りと歌があり、踊りの間その場にピンと張りつめる空気がある。
まだ太鼓を叩くことがしきたり的に許されず、鉦を手にするASA-CHANGは言う。
「僕なんかはもう30年もいわきの外に出ていた、エセいわき人じゃないですか。それでいざ地元の、自分が昔からずっと聴いてきたはずのリズムや念仏踊りが、どれだけハードなのはわかっていましたが、1年くらいではメインの太鼓なんて、やらせてもらえない。『朝倉さん(*ASA-CHANG)、ダメだかんね』、『地震があったからって叩かせねぇからね』と、400年も続いたしきたりは、こんな大震災でも崩れないし、逆に崩さないのだろうなと思うんです。でもすごい悔しいし、覚えようとするんですが、そこには踊りの要素やリズムの独特さもある。それから、そもそも太鼓の位置が奇異なくらい下にある。パンクのベースみたいなヒザ位置で、『なんでこんなに下?』って(笑)」
最中、音を耳にした近隣住民たちがパラパラと見学に出てくる。
時折、じゃんがらを迎えたお宅の親族の目に、故人を思い出してか、涙も見える。踊りが終わると一団は家に招き入れられ、ビールやスイカ、鳥の唐揚げやそうめん等々によるおもてなしを一通り受け、また次の家へと向かう。それが朝の8時から夜11時まで、3日間繰り返される。
市指定無形民俗文化財でもあるじゃんがらの由来には、諸説ある。
起源は江戸時代初期まで遡り、近年最も有力なのは磐城の隣国常陸の僧、泡斎による念仏踊りがルーツという説。もう一つは、東急東横線の祐天寺駅で有名な浄土宗祐天上人の出身がいわき市は四倉で、上人が慰安と念仏の普及に合わせて広めたという説。さらには袋中上人が当時の明、現在の中国上陸を目指すも諦め、代わりに辿り着いた琉球王国で広めた浄土宗と念仏踊りがその後沖縄のエイサーとなったという説だ。
因みに念仏踊りとは浄土教の空也上人に始まり、浄土宗の法然上人等が広めたものが各地の雨乞いや田植え踊りと融合、進化し受け継がれ、さらには枝分かれを繰り返して広まった様々な形態の踊りとされている。私たちに馴染み深い盆踊りや阿波踊りなども念仏踊りの一種だ。
そしてそこにASA-CHANG独自の説も加わる。
じゃんがらに似たものとして考えると、朝鮮半島に伝わり、7、80年代頃に一度再構築された韓国の能楽「サムルノリ」があるという。これには太鼓に両面がある形態やその扱い方、叩き方も含め、国内でも他にはない類似性が見受けられるらしい。
「文化は大陸から来たわけで、それはいわき市が太平洋側に位置するということで、シルクロード(タイコロード)の終着点だと僕は思うので」。
民俗学的に興味深く、観光資源化の必要性にも縛られぬまま受け継がれてきたじゃんがら。一般的には10代から地域の青年団に参加し年数を経て、叩くものが鉦から太鼓に変わって35歳くらいで引退するところ、48歳にして飛び込んだASA-CHANGの心境は如何様なものだったのか。
「震災後、チャリティ・ライブや支援アクション的なものに参加してはいたんですが、まずそこで『こんなことやってていいんだろうか』というもがきがあった。そして僕の場合、自己表現のためにつくった曲や演奏を被災者の方々に聴かせるという行為自体に効力がないような気がして、見直したんです。原発問題以前に、地元の実家からチャリでちょっと行ったところで何百人単位が亡くなり、実際に知合いも亡くなった。打楽器奏者の自分を育ててくれたいわきという場所がそんなことになって、『一歩目はここだな』と。そういう想いを震災直後から感じてきて、そこに『身を投じよう』では変な言い方だし、『参加しよう』でも薄い。ただ自然に、じゃんがらの一団体に『混ぜてもらえないですか』という気持ちになったんです」
特例として青年会に入れてもらい、周囲は当然、ASA-CHANGより一回りも二回りも歳下の青年たちばかりだった。
「本番が近づくほど、言ってしまえば実際にやっている普通のあんちゃんたちが、どんどん変わっていきました。それは顔つきや、背筋が伸びるというか、普通に『奉納』、『供養』みたいなことを口に出すようになるんです。これは僕としても初めての経験で、だって仏壇の前で、お葬式でもない時に太鼓を叩く伝統芸能に参加するということはないですよね」
毎年じゃんがらは、県内各地に伝わる太鼓の団体が集められ、「ふくしま太鼓フェスティバル」が開催されるほど多様な太鼓文化を擁する福島にあってさえ、異彩を放つ。
ASA-CHANGが続ける。
「いわき市という原発のすぐ南の、平地区という中心部で生まれ育った人間としては『こういうものが日本中普通にある』と思って育ちました。だから、ずっと『やって来る』ものとしてのじゃんがらだったのに、なぜか僕が『行く』側になっちゃったんですよ」
去年のじゃんがらが終わった時点からすでに、新しくできた仲間たちに「一年で終わんのか、朝倉さん。帰んのかぁ?」と、曰く「愛すべき」いわき弁で、かなりの牽制が入っていたという。
「所属する青年会を通じて、師匠に会えたんです。歳下ですがじゃんがら界のカリスマとされる人で『鉦に始まり、鉦に終わる』という奥深さをも教えてくれた。いわきには無数のザキール・フセインやマルコス・スザーノ、サムルノリで言えばキム・ドクスといった、カリスマドラマー達がいるんです。思えば僕は、ジャマイカン・ミュージックに憧れて東京スカパラダイスオーケストラなんていうのをやり始め、ルーツ・ミュージックと大衆性のはざまで苦しんで脱退した。そしていままで、ラテンやカリブ海やアジアの音楽などをアレンジしてやってきて、50歳近くなってやっと、初めて自分の足元を見つめることができた。それはそれは苦しいけれど、よい経験です。この、今まで僕が学んできた四半世紀のドラマーのスキルが全く活きないというリアルさをも含めて伝えていきたいと思います」
明日からの3日間、今年はASA-CHANGが太鼓を叩く機会はくるのか。そして、何軒のお宅に、じゃんがらとそこに参加するASA-CHANGは「やって来る」のだろうか。
ASA-CHANGのプロジェクトFUKUSHIMA! IWAKI!!
http://pj-fukushima-iwaki.tumblr.com/