Interview and Photo by Shizuo Ishii Translated by CB Ishii
2013年7月にRiddimOnlineに掲載された記事です。
久々に来日したJohnny Osbourneに会った。ダンスホール・シンガーとして自らを位置づけ、60年代末にデビューし、今も第一線で活躍する彼にインタヴュー。
●いや〜、久しぶりだね!
Johnny Osbourne (以下J ): イエス! 久しぶり、久しぶり!
●前回の日本にはJosey Walesと来たんだっけ?
J : Josey WalesとJaro(キラマンジャロ)とRankin Taxiのイベントだよ。97年だな。それからずっと日本には来てなかったからね。初来日はWackie’sと来て、2回目はReggae Japan Splash、3回目はJaro、今回が4回目かな。
●このRiddim onlineの読者に簡単にあなたのBioを教えて下さい。
J : Johnny Osbourne,、俺はダンスホールのゴッドファザーだ。この世界で60年代、70年代、80年代、90年代、そして2013年の今になってもタフにダンスホールをやってる男だ。
●あなたのイメージはStudio Oneなんですけど、初めてのレコーディングはCoxsonでしたっけ?
J :いや、違うよ。初めてのレコーディングはJJというんだが、彼はまだ有名なプロデューサーではなかった。2回目のレコーディングはThe Wildcatsというバンドの為に歌った。1963か64年に「All I have Is Love」という曲を作った。たぶんそれが初めて世に聞かれた曲かもしれない。その後はアルバムのレコーディングをWinston RileyのTechnicsレーベルで録ったんだ。それが1969年の「Come Back Darling」だ。1968から69年にWinston Rileyとレコーディングを始めて、1969年の「Come Back Darling」がリリースされた時に僕はカナダに移住していて、1979年にジャマイカに戻ってきた。だからStudio Oneで初めてレコーディングしたのは1980年だ。
●なぜカナダに移住したのですか?
J :カナダのトロントには母親が住んでいて、僕を心配してよんでくれたからなんだ。というのは1968~69年はジャマイカの政治の上のターニングポイントとなった年で、政治がらみの犯罪が急増していた。ジャマイカで銃が流行りだして二つの派閥が銃で争い合ったんだ。
●トロントにいた時には音楽活動はしていたんですか?
J :いくつかのバンドと音楽キャリアを切らさない為にやっていたって感じかな。Ishan Peopleというバンドで歌ってたら"Blood, Sweat & Tears"というバンドのDavid Clayton Thomasというプロデューサーに出会って、カナダのGRTレーベルから2枚アルバムをリリースした。Ishan Peopleはカナダでは最初のレゲエバンドだったし色々と頑張った。カナダ中をツアーでまわったしね。
●そういえばLeroy Sibbles(Heptones)もトロントに住んでいましたよね。
J : その頃はLeroy Sibblesは4ブロックしか離れていない所に住んでたよ。Stranger Cole, Jackie Mittooなんかも近所に住んでたね。
●どうしてみんなトロントに移住したんだろう?
J :う~ん、僕には僕の理由があったってだけで他の人の理由は分からないけどね。でもジャマイカで生まれ育ったら他の世界も見たくなるからね。それに今思えば他の国に出てジャマイカを見ることも大切だと思う。
●ではジャマイカに戻ったのは?
J :当時音楽的にカナダのレゲエは遅れていたんだ。僕には刺激も足りなかったし当時のカナディアン・レゲエはレイドバックしたものだった。僕はそういう気分じゃなかったし、ミュージシャンは正しくやっていたけどトロントが寒いからなのかレイドバックはしているんだけど何かが足りなかった。自分の中でもジャマイカとの繋がりが欠け始めているのを感じ始めていたし、それをどうしても取り戻したくて帰ったんだ。
●Studio oneでの最初のレコーディングは何でしたか?
J : 1979年の終わりから80年の始めくらいにレコーディングを始めたんだけど「Water More Than Flour」という曲が初めてで、アルバムを作ろうと決めたんだ。色んなリディムをテープを聞いたりしながら探して好みのリディムを選んだ。それを僕のベストアルバムだとかコレクターズ・アイテムだという人がいるんだけどそれが「Truths and Rights」だ。
●貴方にとってのCoxsonはどのようなプロデューサーでしたか?
J : Coxsonは憧れのプロデューサーだった。僕にとってのBerry Gordyだ。だから彼はレゲエ界のBerry GordyでStudio Oneはレゲエ界のMotownだ。そしてMr.Coxon Doddは僕にとって家族みたいなもの。
●その頃のライバルとか、または最も仲が良かったアーティストは誰ですか?
J :正直言ってライバルは思いつかない。僕は誰とも競っていなかったし、僕は僕のことに専念して力を最大限に出すことを考えていたからね。僕は競ってこそはいなかったけどもちろんそこには競争はあったと思う。歌うことこそが僕の人生だから、ライバルのことなんて考えたことがないな。ただStudio Oneで仲が良かったのはFreddie McGregor、Jennifer Lara、Judah Eskender,、The Silvertones,、Devon Russellかな。みんなで一緒にハードワークしたんだ。
●Winston Rileyとは僕も30年くらいのつきあいでした。亡くなってしまって残念です。貴方とThe Sensationsのつながりは?
J :The Sensationsは友達でよく一緒に座って歌ってた仲だよ。僕が「Come Back Darling」のアルバムを制作していた時に、僕とThe SensationsとWinston Rileyはとても仲の良い友達だった。彼らがハーモニー、バッキングボーカルをあのアルバムで担当してくれていた。あのアルバムの中では彼らはとても存在感があった。だからJohnny Osborune & The Sensationというクレジットになった。だが僕はメンバーではないよ。
●あなたはHenry “Junjo” LawesのプロデュースでRoots Radicsともアルバムを作りましたね?80年代にはRoots Radicsとは僕もとても仲良くしていて来日させたり、Bingy Bunnyのアルバムをリリースしたりしていました。Junjoはどんなプロデューサーでしたか?僕は電話でしか話したことがないんです。フランキー・ポールのアルバム『Pass the Tu-Sheng Peng』をライセンスしてもらいました。
J : Junjoは大の音楽好きだった。音楽が好きで好きで、プロデュースすることも大好きだった。どちらかというと彼はフィーリングでプロデュースしていて彼がダンスするのと同じ様に音楽も作っていた。それとBingy Bunnyはとても仲の良い友達で一緒に育ったよ。
●あなたは80年代の後半にはKing Jammyともたくさん仕事しましたね。「Buddy Bye」は誰でも知ってるダンスホール・チューンのひとつです。この意味を教えて下さい?
J : Buddy ByeはPut It Byなんだよね。"Put it by, put it by, put it by, put it by , put it by number one” ナンバー1のヒットチューンにしたかったからね。でもみんなには「Buddy Bye
に聞こえたみたいでそうなったよ。「Put it by
は騒げる曲で手を上に突き上げてガン・ショットをしながら歌える。もちろん僕らのは本物のガンじゃなくて空砲だよ。誰かが「Buddy Bye
って言い始めてからはもうそのまま。でも実際は「Buddy Bye
はジャマイカでレコーディングしたんじゃなくてニューヨークの42nd StreetにあるTad DawkinsのQuad Studioでレコーディングした。TadはあのリディムをJammyから買っていて、その時僕はニューヨークにいたからニューヨークで録ったんだ。だがどうしてJammy’sからリリースされたからはミステリーなんだよ。Tadのところでレコーディングしたのに、、分からないんだ。
●僕はTad Dawkinsのレーベルは持ってるけど人物には会ったことがないんだけど、、、。
J :Tadは長いことプロデューサーをやっている男でTad’s Recordというレーベルをやってるんだ。
●たしかDennis BrownとかGregory Isaacs、Cocoa Teaとか出していたよね?
J :そうそう、Tadはジャマイカに帰るまではニューヨークに住んでいて、彼は今でもプロデューサー業をジャマイカでやっているよ。
●そうなんだ。そういえば「Buddy Bye」はMassive Bでも再レコーディングしてましたか?なにかのRemixがあった気がしましたが。
J :いや、してない。それはHip Hop RemixだけどMassive BではなくてKenny Dopeだよ。
●そうか! それは凄い! King Jammyはあなたにとってどのような人物ですか?
J :Jammyとは一緒に仕事をするずっと前からの友達だった。僕がトロントに住んでいた時にJammyもトロントに住んでたんだ。Jammy’sがスタートする前の話しだよ。Jammyの方が先にジャマイカに帰国したんだけど戻ってからリンクして音楽を作った。でもジャマイカに戻って一番始めにしたことはStudio OneとTresure Isleのオーディションを何度も受けたんだ。でもすぐには入れなかったよ。でも僕にはハッキリとした目標があって、自分のキャリア、人生が終わるまでにStudio Oneレーベルから曲を出していたかった。だからStudio Oneから曲を出せたことが僕の人生の一番のハイライトであり、音楽をここまでやって来れたのもStudio Oneの存在のおかげなんだ。だからStudio Oneのアーティストとしてリリース出来たことは自分の中の数少ない達成出来た夢の一つだよ。それもリリースしたアルバムがStudio Oneの中でも大ヒットしたアルバムの一つで僕のキャリアの節目にもなった。
●では最近のレゲエの現状をどう思いますか?
J :レゲエは絶え間なく変化していく。何事も発展していくし昔のアーティストの多くは亡くなってしまっているんだ。だからニュースクールのレゲエがある。僕とECの様なオールドスクールなレゲエが好きな人たちとは距離が出来て、今の若い人達が作るニュースクールな音楽を僕らはひょっとしたら好きじゃないかもしれないけど、これはきっと今の時代にあったモノなんだ。物事は変化しなくてはいけないからね。ただ変化はしているんだけどそこには常にオリジナルのルーツレゲエがあり、オリジナルなモノというのは色褪せることがない。最近の新しい音楽を聞いた時でも、僕の中には新しい発見はない。なぜなら新しい音楽の90%は昔の音楽の断片だから。昔の音楽から良い所を取り出して新しいサウンドのように聞かせてるだけだ。それが何回も何回も起きてリサイクルされている。僕は最近の新人アーティストやミュージシャンに怒っているわけではないよ。同じ様な質問を沢山されるんだけど僕はどの新しいアーティストも批判出来ない。若い人達はそういう音楽を求めてる。たぶん僕らにはそれがベストには聞こえないかもしれないけれど、ときに人はベストな物が好きじゃないときもある。聞きたいものが好きっていう時もあるからね。どの音楽でも昔の音楽をマーケットから排除することは出来ないよ。だから怒ってはいない。
●ダンスホール・レゲエと言う音楽にとって最も大切なモノ、部分とは何ですか?
J :ポジティブでクリーンであることが重要だと思う。ポイジティブでなかったらリスナーはネガティブになってしまうし、ネガティブな要素を音楽に入れてしまうと若い人達はネガティブに働きやすい。Shooting, Killing, Badmanなどの言葉に魅了されてるかもしれないけど、若い人達は幻想的なモノが好きだし、刺激的なモノも好きだ。流行も好きだ。でもこの自分の音楽を何度も何度も何度も歌っていくことで、彼らの耳に届き彼らの一部となり、伝えることができる。
●あなたが曲を作るときに最も気をつけていることはなんですか?
J :それもやっぱりポジティブ・メッセージや幸せなメッセージを伝えることだね。あと“ウォ〜、イェ〜!”の掛け合いの様にオーディエンスが一緒に歌えるようなものは誰も傷つけることがないし殺しはしない。もちろん僕らの歌の幾つかには厳しい現状を歌ったものがあるが、彼らの気持ちを高揚させるハッピーな曲を作る様にしている。僕はダンスに行ったらとても楽しむ。だからダンスに来てくれた人達にもポジティブで気持ち良くさせるようにしている。その晩だけは辛いことでさえも忘れさせたいんだ。
●最後の質問になりますがあなたの曲の中でベストソングはどれでしょうか?
J :僕のベストだからECにとってはベストじゃないかもしれないけど、「Truth and Rights」が一番好きな曲だ。あとは「Jah Promise」も好きかな。この2曲は大好きだ。この2曲はインスピレーションから来たもので座っていて書いたようなものではないんだよ。ただ体の中に入ってきた。それは最高の経験だった。
●あなたのStudio Oneでのアルバム・タイトルでもある『Truth and Rights』ですね。「Render your arms and not your garments〜あなたが差し出すのは服ではなく両手なんだ〜」と始まるコンシャスな曲ですね。あなたらしいです。
J :ヤーマンEC! ありがとう
久々に来日したレジェンド・シンガーJohnny Osbourneは、ランチ・タイムを僕らに割いて大人のインタヴューをしてくれた。今日はどうもありがとう!
ではその『Truth and Rights』を、、、。(2013.April 26 @Ikebukuro)