MUSIC

雄叫び、ジャカルタ

 
   

2015年5月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

「MARJINAL」(端っこ・崖っぷちに生きる者たち、の意)はインドネシアの首都、ジャカルタを拠点に活動するパンクロック・バンド。1996年にギターボーカルのマイク(40)ベースボーカルのボブ(38)によって結成され、ユニット編成時の名は「MAJIK」という。
 昨年5月、渋谷UPLINKファクトリーでの映画「マージナル=ジャカルタ・パンク」と来日中だった彼らの演奏を初体験し、心鷲掴まれた。それはもしかすると、約10日前に映画「アクト・オブ・キリング」を観ていたから、さらに深く刺さってきたのかもしれない。
 リゾートとして、バリ島などのイメージしかなかったインドネシア。「アクト・オブ・キリング」はその真の実態を教えてくれる作品だった。
 つまりは彼の地で1965、66年に起きた、犠牲者数50〜200万人とされる、スハルト大統領による「共産党員狩り」という名の大虐殺。その実行者たちは今も表向きには国民的英雄として暮らし、庶民は汚職と格差と不条理の中、スラムで生きている。
 抑圧と恐怖。MARJINALはその中から生まれ、音楽活動のみならず、生活共同体「タリンバビ」を運営し、生業としての表現活動を学べる空間を解放し、孤児を含む無職のパンクスを受け入れ、生活の場を提供し続けている。
 彼らのライブや映画のフライヤーに、いつも添えらている1文がある。
「ここには反逆する理由があり過ぎる」。
 MARJINALは、2007年に彼らと出会い、2010年からは現地に移住し記録を続けるカメラマン、中西あゆみさんによって日本に紹介された。
 今回は彼らを、5月23日、愛知県豊田市で「橋の下音楽祭」出演直前にキャッチ。同音楽祭は、最終的に311に背中を押されるかたちでバンド「TURTLE ISLAND」が始めた、無料、投げ銭式の「祭」。「SOUL BEAT ASIA」、「SOUL BEAT WORLD」とも銘打たれ、ジャンルで括れない、しかし魂で吠える国内外のバンドが名を連ねる。
 3度目の来日となるマイク、2度目のボブを訪ねてくる日本のパンクス、近郊に住むインドネシア人の若者たちは途切れることなく、MAJIKのどちらかは常に版画を制作中。ステージから絶え間なく出演バンドの演奏が聴こえてくる中、マイクと中西あゆみさんから話を聞いた。 

●大きな質問からはじめさせていただきます。音楽の力は、どのようなものでしょう?

マイク(以下M): MARJINALとMAJIKにとって音楽は、まさにここ「橋の下音楽祭」の「橋」みたいなもの。それは、世界中の友達と僕らを繋ぐ橋と言えます。つまりコミュニケーションそのものであり、もちろん、楽しみでもある。音楽からお互いを学ぶことができるし、未来に向けて進む原動力にもなります。

●あなたの音楽がここまで広がり、世界中から人を惹きつけ、さらにはあなた自身を日本にまで導いてくれると想像していましたか?

M:想像していませんでした。僕らはただ信じていることを、毎日の生活の中で、問題だらけの社会の中で実現させていくためのツールとして、音楽をつくってきました。
 それがここまで広がるなんて!
 そのこと自体が、音楽がコミュニケーションのツールであることの証明になっていると思います。

●どんな人たちがあなたたちの活動拠点「タリンバビ」に来ますか?

M:色んな人が来ます。学生、活動家、バックパッカー、そして冷やかしも(笑)。僕らはみんなを受け入れます。肩書や、出身は気にしません。話せて、情報交換ができれば何とかなる(笑)。

●日本以外にツアーで行くことはありますか?

M:2010年にドイツで一ヶ月、2013年はマレーシアで全国ツアーがありました。

●あなたたちの影響で、パンクバンドは増えましたか?

M:増えたかもしれません。あと、以前は多くのバンドが歌詞を英語で歌っていました。だから僕らが、政治的なことをインドネシア語で歌う、最初のバンドでした。今は母国語で歌うバンドはたくさんいます。
 だって、例えばセックス・ピストルズが大好きで、それを「インドネシア語でやろう」となっても、うまくいかなそうだよね?(笑)。だからみんな、母国語で歌うことに自信を持てなかったんだと思います。
 でも僕らは、国の問題について歌っている。そうすることで人々が現実を知り、結束を促し、本当の変革に繋がっていくことを願っています。

●訴えかけている相手はインドネシアの人々。

M:その通り。音楽は言語です。そこで、何語で歌うかということが大事なのでなく、その曲が社会や人々の人生とどう繋がっているかが大事なんです。

●映画「アクト・オブ・キリング」を観ました。バカンスでバリ島に行ったことはありますが、その時は知る由もなかった、狂気を孕んだインドネシアという国に驚きました。

M:すべては隠されています。偽物なんです。多くの問題は未だに継続中で、政治はそこに触れないし、責任もとりたくない。政府は金と権力さえ維持できればいいわけです。1965年、あの映画にあったように多くの市民が虐殺され、誰も逮捕すらされませんでした。正義がないんです。

●様々な音楽がある中で、なぜパンクを選んだんですか?

M:選んだわけじゃなく、自然にそうなりました。それは、生まれた時から決まっていたことなんだと思います。当時すでにロック、レゲエ、ブルース、ジャズ、ヒップホップがあったし、もちろん土着の音楽もありました。
 そこで、自分にとってはパンクの精神が大切でした。ジャンルとしてのパンクというより、その精神に惹かれました。音楽はジャンルでなく、心の奥から何が出てくるかが重要でしょう?どうすれば自分が自分自身でいることができるか。それが一番大切なことでした。
 それを踏まえることで、自らが生まれ、生きている国の状況、抱えている問題、リアリティ、文化、歴史を加速させることができます。僕らは、自分が自分自身でいることに自由でありたいんです。

●日本ではインドネシア出身のミュージシャンとしてロマ・イラマ、エルフィ・スカエシといった方々が知られています。

M:ロマ・イラマの歌詞や精神はパンクです。エルフィ・スカエシは、最初はアンダーグラウンドから出てきたんだけど、今やもうポップスター(笑)。政府もイベントによく呼んでます。

●政府はMARJINALを利用しようとはしない?

M:しません(笑)。でも、僕らはいつもオープンです。どんな場所、シチュエーションでも、機会があれば音を奏でるし、そこにいる人々と対話します。

●映画「マージナル=ジャカルタ・パンク」では、巨大なイスラム教徒の集会で演奏されていました。

M:どこにでも出向くし、対話をして、伝えます。相手が誰でもそれは変わりません。そうやってお互いについて学び、理解し合う。表面的にどんな違いがあっても、理解が深まれば、お互いを助け合うことができるから。

●刺青はインドネシアにおいて大きなカルチャーですか?

M:昔から伝わる刺青文化があって、それをストリートで学び、今は自分たちでできるようになりました。それは版画だってそう。木彫りも、先人たちから学んだものです。
 インドネシアでは、刺青を入れている人たちが世間に受け入れられない現実があります。そういう偏見を変えていくため、自分たちが、そういう人間が悪でないことを証明しなければと思っています。

●私は福島から来ました。安全と言い続ける行政と、住み続ける決断をし、安全と思いたい市民。子どもの生活に放射能の不安がつきまとう母と、外部被ばくのリスクが払拭できない農家。必要な、的確な支援が足りないように感じる中、市民の格闘は続いています。あなたの国の想像を絶する不条理の中、活動を続けられる原動力は?

M:僕らは止まりません。大事なのはコミュニケーションです。今までもアート、音楽を通じてメッセージを発信し続けてきました。それが誰かの心に本当に届けば、共鳴を呼んでさらに大きな力になります。物事はそうして加速していきます。
 福島の問題は、実は福島だけの問題じゃない。あれは、人間の権利の問題です。つまり、僕ら自身の問題でもあります。だからこそできる限りのコミュニケーションが必要になる。いつでもどこでも情報をシェアしていく。そうやってコミュニケーションを膨らませていくんです。

●情報発信が上手くないという土地柄もあります。

M:僕らだって得意じゃなかった。だからTシャツ、アート、版画、音楽といった自分たちにできることを使って、問題を伝え続けてきました。

●活動を経て、社会の変化を感じますか?

M:相手にしているのはシステムではありません。僕らが相手にしているのは、そこで生きている人々です。もっといい教育と情報があれば、それぞれが信じられることを見つけることができ、その時に革命が起きる。それは大人、年寄りから始まるのではなく、僕らから始まります。
 1965年以降、インドネシアでは教育も情報も捨てられ、モチベーションすら持つことがないように仕向けられてきました。僕らの世代では、誰もが本当の歴史を知ることすらできない状況があります。だから音楽を通じて、子どもたちを教育していく。取り組みを通じて、人々のための言語=音楽を広めていきたいと思っています。

 銭湯を模したステージに登場したMAJIKは、トランクスだけという出で立ち。終了後、ボブに「なぜ?」と聞くと、「セットは日本の風呂だっていうから」と笑う。集まった日本人観客も、驚くほどMARJINALの曲を知っていて、サビでは拳を突き上げ、一緒に吠えている。嬉しそうなインドネシアの若者たちはステージに登り、客を煽り、ダイブしている。ステージ端には、終始穏やかな笑みで撮影を続ける中西あゆみさんの姿があった。
 中西さんは、遡れば中学3年でブルーハーツを機にパンクに開眼。大学3年の時にシアトルのレーベル「SUB POP」を「宝島」読者レポーターとして取材。カリフォルニア州立大学サンフランスシコ校でフォト・ジャーナリズムを学び、「TIME」誌でインターンを経験。戦争写真家ジェイムス・ナクトウェイのアシスタントとしても活動をしてきた。

●彼らは緊張とかするんですか?

中西:実は2人とも、めちゃくちゃするんです(笑)。マイクは3回目、ボブは2回目の来日なんですが、別に国に限らず緊張するみたい。でも、さすがに日本でのライブの方がしてるかな。

●ドイツ、マレーシアにも行っていると。

中西:でも、呼んでくれるとはいえ、彼らもパンクスなんで。渡航費だけ世話になって、あとは自分たちでストリートで演って、稼いで、ほとんど無償でまわってる感じで(笑)。

●日本のオーディエンスに、曲がかなり浸透している印象でした。

中西:日本でもすごいですよね。本人たち的にどうだかわかりませんが、でも、わかってくれてる人たちがだんだん増えてるというのは感じてるんじゃないでしょうか。ライブを重ねるごとに増えてるし、特に「橋の下」ではタートル(アイランド)の応援もあって、映画を観てくれている人も多いんです。「橋の下映画祭」では、もう3年連続で上映させてもらっていて。

●昨年はしかもバンドで来たと。

中西:フルメンバーといっても、マイクとボブ以外は、彼らのコミュニティ「タリンバビ」で一緒に住んでる中から選ばれた3人だから、次来る時に同じメンバーとは限らないという。

●中西さんの手応えとして、もっと広く伝えたいお気持ちなのか、思いのほか受け入れられているという感覚なのか。

中西:そういうのはあまり何も考えてないというか。映画も、彼らを「インターナショナルに広げよう」と思って始めたわけじゃないんです。
 私は、バンドとしてよりも、むしろ彼らのやっていることにすごい感銘を受けて、ジャーナリスト的な視点で「知ってもらいたい」と、それでまず写真を撮り始めて。映像を撮り始めたのも途中からで、最初は映画になるなんて思ってなかったんです。それを、パンクスの仲間たちが、「ちょっと観せられるものにして、ウチらのライブで上映しない?」
って誘ってくれて。
 そこからだんだんかたちになっていって、それを初めて映画として観せたのが3年前、この「橋の下映画祭」でした。それも(永山)愛樹君(TURTLE ISLAND)が「ちゃんと映画にして観せようよ」と言ってくれて、そのために改めてちゃんとつくって。

●タートル(アイランド)との繋がりから始まった。

中西:タートルと初めて会ったのは、2011年の5月、VIVISICKの「PUNKS WERE MADE BEFORE SOUNDS」というイベントが上野の野外音楽堂であって。そこで私は、MARJINALの写真を会場後ろの壁に大きく引き延ばして飾って、その日にタートルも出てたんです。その時に繋がって、そこからですね。

●今日に至る広がりは当時想像できていた?

中西:まったくです。その時に初めて世の中の人に写真を観てもらって、結構声掛けもしてくれて「あ、興味持ってくれるんだ」って、むしろびっくりするくらいで。

●中西さんはアメリカで、アカデミックと現場の両方でジャーナリズムを学ばれています。なので、「これは」と思われたものは、しかるべき紹介をしていけば、おのずと広がっていく確信があったのかと思ったんですが。

中西:全然ないです。特に何かの媒体にコネがあるわけでもないし、どこでどういうカタチで出そうとかも考えず、ただ、個人的なプロジェクトとして始めたので。それは今もそうなんですが、それがみんなの力でこうなったというか。

●継続もできているということは、それなりに赤字でもなく?

中西:いや、めちゃくちゃ赤字です(笑)。だから帰国中はめちゃくちゃ働いて、写真で入れられる仕事はすっごい詰めて、お金貯めて向こうに行って、この数年間はその繰り返しです。

●そうなんですか。

中西:好きなことを勝手にやって、好きに生きてるだけなので、苦じゃないですけど。

●海外も含め、MARJINALのような存在は、他に見当たらないですか?

中西:私は、彼らが初めてでした。

●今日も、来ていたインドネシアの子たちに話を聞くと「国で一番のバンドだ」と。現地では、刺激された人々が動き出したり、それによって政府に目をつけられたりはしない?

中西:その辺が難しくて。「音楽で世の中を変えていきたい」というのはもちろん目標ではあるんだけど、まず最初に自分たちの仲間、兄弟、家族からというところから始めて、そもそもすごく貧富の差も激しい。だんだん物価も上がってきて、貧しい人たちがさらに取り残されている状況があって。
 そういう人たちの子どもは学校へも行けないし、だから「大きくなろう」としているんじゃなくて、「同じレベルの人たちと何かしていきたい」というところでやっているのが、結局は変わっていないんですね。ただ、そういう人たちがもの凄く多いから、気付いたら数はいっぱいいたという。
 あとは、反政府的なメッセージの歌もたくさんあるから、目をつけられてると言えばつけられているとも言えます。彼らはめちゃくちゃテレビとかにも出てるし、それは啓蒙活動の一環としてなんですが、新聞も雑誌もMARJINALのことは大好きでしょっ中取材に来るし、全国中継で2時間のライブが番組になったりとかもする。でも、他のパンクスにはそれを良く思ってない人たちもいて。

●それは妬み、やっかみ的な?

中西:そうです。「パンクのくせになんでテレビに出るんだ」とか、同じパンクス内から批判されることの方が多いかもしれません。

●今「タリンバビ」には何人くらいいるんですか?

中西:平均だいたい10人くらいで、入れ替わりがすごく激しいんです。みんな仕事を見つけると卒業していって、何かで困るとまた戻ってきて。

●映画も、彼らへの密着取材も「終わらないかも」とのこと。ジャカルタにずっと住み続ける予定ですか?

中西:まあ、元気なうちは(笑)。向こうには2010年に引越して、とはいえ日本と半々くらいの生活ですね。でも、私はアメリカも長く住んでいましたが、こういう人たちに出会ったのが本当に初めてだし、インドネシアでも彼らに辿り着くのに2年くらいかかってるし、初めての時はそれは衝撃でした。
 やっぱり、すごいことしていると思います。数々のバンドやコミュニティに出会ってきて、みんなすごいことしてるんだけど、彼らはやっぱり特別だと思います。

●他と違うのは何でしょう?

中西:アティテュード、姿勢が大きく違ったのと、そもそも自分たちをパンクスとも思ってないというか。
 例えば、彼らの「レンチョン・マレンチョン」という曲に「いつまでも、控えめなままでいてくれ」という歌詞があって、そういう言葉が出てくるところがたぶん、私に響いた。それはパンクスの破壊的なイメージじゃなくて、むしろ逆の、「一緒にやっていこうよ」って。彼らはそこをどんどん伝えて、コミュニケートしていって、それを実現させていっているんです。

●それは、あんな政府の下で生きてきたからこそ育んだ姿勢でしょうか。

中西:そうかもしれないですね。デモだけじゃやっぱり何も変わらない。インドネシアには、今も「アクト・オブ・キリング」的な世界はそのままあります。それは実際に見て確認できるし、あれがまだ残る、恐ろしい国に感じます。
 でも、彼らは反政府とか言っても、政府に対して「FUCK OFF」という態度でもない。実は軍の中にもすごいMARJINALのファンがいたりするんです。

●システム内にファンがいるということ自体、何かが変わっていくポテンシャルが増していってることなのかもしれません。

中西:それは感じます。その人たちは仕事で生きるためにやってるわけで、悪いのは、スハルト時代からずっと続く特権階級だけがいられるシステムであると。そこで、やっぱり「その末端で働いている人たちには何の責任もない」。だから、「彼らを責めるつもりはまったくない」って言うんです。そういう姿勢がすごいと思って、それだから今までも一緒にやってこれたんだと思います。