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Rockers 外伝

 
   

Text by Shizuo Ishii(石井志津男)

2014年3月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

ジャマイカを舞台にした超一級のカルト・ムーヴィ「Rockers」は1977年に撮影がスタートして78年に完成した。スタートした時は監督のテッド・バファルコスが30歳、プロデューサーのパトリック・ホージーは28歳だった。はっきり言おう。この映画の完成以降35年が経過しても「Rockers」を超えるジャマイカ映画を俺は知らない。この映画の裏には日本人Cherry Kaoru Halseyも関わっていたことはあまり知られていない。「Rockers」を80年から5年間、最初に日本配給した関係で彼女とは35年の付き合いになる。

1月の終わりの暖かい日、表参道ヒルズ前で久しぶりに会ったCherryの体調は良さそうだった。「フライが食べたい」というから、"トンカツのまい泉"に行ったのだが長い行列。しかたなくトンカツ弁当のテークアウト。OVERHEATまでぶらぶらと話しながら歩いて5〜6分、事務所で知り合いとゆっくり食べたトンカツはとても美味しかった。

●80年代にCherryが東京に帰って勤めていたこともあった。その頃に飯を食いに行ったりとか、本当に長い間の知り合いなんだけどさ、実は知らないことだらけ。どんないきさつで70年代の中頃、パトリックと結婚してジャマイカに行ったわけ?

Cherry(以下C):結婚する前に海外旅行をしたいと思って、最初はカリフォルニアのスタンフォード大に行っていた友達の家に、次にはマンハッタンのチェルシーに住んでいた絵描きの友達の家に泊まっていたんです。チェルシーはまだあの時代はお金のない人が住む汚い地域でプエルトリコ人とかスパニッシュの人たちが住んでいたんです。あるとき泥棒に入られてお金を盗られたりして、ヴィレッジの床屋さんでシャンプーのアルバイトをしてたの。あの時代はユニセックスとかいって、女の人も床屋さんで髪を切るのがちょっと流行ってた頃。窓から長い金髪の男の人がジーッと中を見ていて髪を切ろうかどうしようか迷ってるみたいだったから、オーナーが「さっさと呼んで中に入れろ」って言うから「ハーイ」とか言って、それがパトリックとの出会いです。「この辺に日本レストランはない?」って聞かれてあそこにあるらしいって言ったら「食べに行かない?」とか言われて、行かなかったけど、、、あとで分かったんだけど彼はすぐ近くに住んでいて全て知ってた。

●知ってたんだ、あっはっは。その頃のパトリックは映画の仕事をしていたの?

C:あの取材(1981年、近代映画社刊「New York City Book」)に行ったハリー・スミスを覚えているでしょう?1991年に亡くなったけど、パトリックは彼のアシスタントをしていたの。ハリー・スミスはフィルムメーカー、画家、音楽家、評論家、哲学者、人類学者、奇術師、詩人、レコードや絵本のコレクターとしてすごく偉大な人なのよ。ハリー・スミスのコレクションがゲッティーなんとかってあるでしょ。

●あのブレズリン・ホテルに住んでいた人でしょう?覚えているよ。それってGetty Research Instituteかな?

C:そうそうゲッティーのミュージアムには、つい最近ハリー・スミスのための場所が設けられたし、ハリーが集めたアメリカインディアンの民族衣装などはスミスソニアン・ミュージアムに収まってるし、音楽ではハリーが十代のころから集めていたアメリカンフォーク、ブルーグラス、ブルースなどの音源を1950年代の始めに8枚組の『アンソロジー オブ アメリカン ミュージック』としてLPを出して、色んな人たちに多大な影響与えたりで、そのLPが1997年にCDで再プレスされて、それが認められてハリーは1991年のグラミー賞でライフタイム・アチーブメントをもらって、その数ヶ月後に亡くなったのね。その後2006年にはこのアンソロジーとハリーとに関するドキュメンタリーも制作されて、その頃にはもうパトリックは亡くなっていたけど、彼が持っていたフィルムとかそういうのも貸してあげたの。その頃に公開されていた『マハゴニー』って言うフィルムもパトリックが撮影を担当していたもので、実験的映像として有名なのね。ハリーはフィルムのワン・フレームごとに手でペイントしたりしてた人。そのハリーのアシスタントをしていたのがパトリックで、後にも先にも彼のアシスタントはパトリックしかいないの。

●すごいね。パトリックとハリー・スミスさんとの出会いは?

C:パトリックのお姉さんが友達だったみたいで、それでパトリックが最初にニューヨークに来た時は、お姉さんのところにお世話になっていて、その家はハリーもだけど、詩人、ビートニック、ああいう系統のすごい人達が集まるところだったらしい。

●パトリックはどこの出身なの?

C:パトリックはミズリー州出身。テッド(バッファロコス)が彼の自伝書みたいな本『Rockers DIARY』(アップリンク刊)の中で言っているように、パトリックは大学に行ってフィルムの勉強をしたとかそういう人じゃなく何の理論の束縛もなく開放されていた。だからフィルムの道はハリー・スミスさん。だからそれだけでもすごい。ハリー・スミスはすごい人だったと思う。

●そのテッドさんもハリー・スミスと関係あるの?

C:ないないない、テッドは全然関係ない。

●彼のバイオグラフィーにはコマーシャル・フィルムをやってたと書いてあったね。(2005年の来日時にRiddim誌でインタヴューした)

C:テッドは高校まで、ギリシャで育ち、 お父さんは世界中を廻った船員で彼の勧めでアメリカ東海岸のロードアイランド・アートスクールという有名な大学に留学したのね。その時の同じ学校の仲間がパトリックと仲の良い人で、テッドがパトリックに興味があったのはただ一つ、ハリー・スミスのアシスタントだったそのことだけ。というのはテッドの年代の人は大学時代といえば必ずスミスさんのレコード・コレクションで育ってる。とにかく気の利いてる人は、そのハリー・スミスのコレクションを持っている時代で、みんな奪い合いだったんだって。ハリー・スミスは双子座だからなんでもやるけど、それが全部すごい人なんですよね。パトリックが関わったのは大体が映像。だからテッドともそういう感じで知り合いになった。テッドも変わってる人で、みんなマリファナをスパスパ吸う人達で、もうハリー・スミスもすごい(笑)。

●パトリックの映像作品ていうのは他にあるの?

C:あるある、あるけどお金になるようなモノじゃない。

●アーティスティックなもの?

C:アーティスティックでもない。彼は大体ドキュメンタリーが好きでインディアンとか先住民とかそういうのを撮っていた。私の前のガールフレンドのお父さんも、パナマの有名なサンブレス・アイランド島のなんとか族っていう人で、そういう所に行って、16ミリ(フィルム)で撮ってたのね。サウス・アメリカのスリナムのアマゾンジャングルに住んでる幻の金髪のインディアンを撮りに行ったりとか夢を追う人で、結局その金髪には巡り会えなかった。今はもういないみたいだけどインディアン古来の生活をしている原住民を撮ったり、だからアマゾンを上って行ったりとかそういう作品はあるけれどね。

●ドキュメンタリー作家だったんだ。

C:そう、この間、私はそのフィルムを見つけて勿体ないからどこかに売ろうかと、一生懸命色々企画書を書いてナチュラル・ヒストリー・オブ・ミュージアムに行ったら、そこでインディアンのフィルムがずっと流れていて、パトリックのより良いのがガンガン流れていて、これはダメだって(笑)。もっと良いフィルムを見つけてもう諦めた。笑っちゃうでしょ、私シビアだから。

●いいねえ、Cherryらしい(笑)。

C:だからお金にはあまりならないみたいだけど。

●でも映像っていうのは、その時しか撮れないものだから一概に価値の評価は言えないけどね。

C:そんな感じかな。

●で、テッドとパトリックがそうやって知り合って、、、。

C:そう共通の仲間の紹介でね。私たちが巡り会う前からパトリックはレゲエが好きで、テッドもレゲエのドキュメンタリーみたいな共通なものがあって、、その頃はレゲエが最高の時だったから。

●テッドはジャマイカにも行ったりしていたんだよね。

C:そうみたいね、パトリックも興味あるから、多分テッドにとってはパトリックは、うるさく言う人じゃないし自分のやりたい事をやらせてくれそうな人だったからかもしれない。映画が出来てからは喧嘩をよくしていたけど、お金が無いからあまり払えないからそれが不満になるのは分るけど、みんなが無かったからね。借りて借りて借りまくってやっていたのに、何年も経ってからパトリックの悪口とかお金のこととかをみんなが言ってきてすごかったんです。特にジャマイカ人がお金を貰ってないとか払わないとか。払ってなくて仕事をする訳無いでしょ? ジャマイカの人達が。パトリックは偉かったと思うの。彼は自分のお金じゃなくても映画を終わらせたってこと。普通ハリウッドだったらお金が儲からないと思ったらそこでパス、そこでこれ以上の赤字を出さないためにそこで止める。でもパトリックは自分がすごい目に遭ってでもお金を工面して借りて映画を終わらせた。だからそのことを認めなければいけない。もしパトリックがビジネスマンだったらストップしてたと思う。

●全くその通りだね。

C:それがわかる人はあんまりいないんですよ。そのことで、私だって私の娘だって大変な思いをして大変な生活をしてたのに。だから怒るんです。それはテッドに対しても言ったんです、そしたらテッドは「分かる分かる、僕たちは本当若かった」って言われた。

●本当にこの映画「Rockers」を作った時って二人ともすごく若いんだよね。

C:そう若いです、まだ20代ですしね。

●すごいことだね。

C:多分76年くらいから色々話を始めて77年に撮影が始まって。

●で78年にようやく編集が出来上がって。

C:そう、でもやっぱりお金が無いから色々と工面して、78年まで色々と編集にもすごく長い時間がかかって音楽が一番最後で、もう2年以上かかってたからもう終わらないのかなと思った。
 その後、映画が完成してから十何年も聞かされることになるんだけど、パトリックはお酒に酔ったりするといつも同じように「俺はあの映画を作らなきゃ良かった」って。今思うと本当に彼はおかしくなってたんですよ。いつも「作らなかったら家族にもこんな思いをさせなくて良かった」とか、私も「多分あのロフトはまだ残ってた」とか言ってしまって。今は一等地に持ってたロフトはとっくに手放しちゃって、あれを何十年持っていたらそれでひと財産みたいなのをタダ同然で手放したけど、売った時点ではアル中の人がゴロゴロ寝てる地域だったからね。

●まあね、それだけはね。ジェイコブ・ミラーが歌ってるシーンは、あれはどこで撮ったの?

C:あそこはオーチョリオス。

●オーチョリオスか、だからバイクを盗まれるサウンド・システムのシーンが、ジャック・ルビーのサウンドシステムなんだ。オーチョからキングストンに抜ける山の辺りだからジャック・ルビーが出てくるんだね。

C:それは良く分らない、ジャック・ルビーがキダスIのプロデューサーだったし。

●あっそうなんだ、俺もジャック・ルビーのところに偶然行った事があるよ。89年だったかな?丁度乗ってるイースタン・エアラインが倒産してキングストンまでのフライトがモンティゴに変更になって、しょうがないからタクシーでキングストンまで走っていて、山道のところでココナツを飲んでたら、なぜか「イシイか?」って言われたんだよね。

C:それ何年?

●1989年だった。

C:わっ、ジャック・ルビー生きてたかな。

●まだ生きていて会ったよ。その後すぐ同じ年に死んじゃうんだけどね。声をかけてきたのは全く知らないラスタなんだけど、思い出すと、ジャマイカからオレに売り込みの電話をかけてきたやつがいたんだ。それで俺は来週ジャマイカに行くんだってつい言ったんだよ。でもさ、その事だけで日本人らしいから「イシイか?」って声かけるのも変な話なんだ。ただの本当の偶然なんだ。イースタンの倒産がなけりゃ、たまたまそこでタクシーを停めてなければ有り得ない話。停まってココナツを飲んでたら「ジャック・ルビーが近いから行こう」って言われてついて行ったら、ジャック・ルビーが上半身裸でいて「Rockersに出たぞ」とか、バーニング・スピアの『マーカス・ガーヴィ』とか、その頃はファウンデーションっていうグループのプロデュースをしていて気になっていたからね。

C:ジャック・ルビーさんと私は会ったことが無いんですよね。あの時は撮影で色々と動き回ってる時で、やっぱり一番危ないってところは最後に残しおいて、オーチョリオスは一番安全なところだからそこから始まって。

●でもキングストンでも撮ってるよね。だってマイティ・ダイヤモンズがオレを迎えにきて「石井、いいとこに行くぞ、ここが分らないのか?」って車の修理工場みたいな所に連れて行かれて「俺たちはここでRockersを撮ったんだぜ」って言われたことがあるよ。あとハリーJスタジオも使ってるよね。キダス Iがレコーディングしてるところ。

C:危ないところにある方じゃないワンだと思う。あれキダスが行ってるところは。チャンネル・ワンが危ないところにあるの?

●今はかなりね、、その当時も危なかったのかな。でもチャンネル・ワンらしいところも出てくるね、みんながたむろしているシーン。あれはチャンネル・ワンだ。そしてキダスIがレコーディングしているところはハリーJだと思うんだよ。俺はハリーJってレコーディングでは使わなかったから良く分らないけど、でもハリーJだと思うんだよ、スタジオに何度か行ったけど。あとジョー・ギブスもだね。

C:私はだからそういう場面は知らないんですよね。なんせ襲われたのばっかり思い出して、もう怖かった。命がけで逃げたんだけど。私達は本当にロー・バジェットだったから安いとこ安いとこにクルーが泊まるから襲われて、だから即、お金は少しかけてもいいから安全な所がいいってことになって襲われた次の日にはヒルトンに泊まりました。私がいる時に撮ったので覚えているのは、みんなで倉庫にかっぱらいに行くシーン。

●あれはどこで撮ったの?

C:あれもキングストンで、ああいう道路でのシーンには危ないから私は行かなかったけど、ああいうのはカメラマンと少人数で撮って廻った。バイクに絵を描く撮影をしたあの地域がすごく怖いところで、警察官も来てはくれたけどちょっと暗くなるとサーって警察官が逃げる様なところだった。
 この映画はアメリカで公開されるまでが本当に長くかかった映画なんですよね。その前はカンヌとか色んなフィルム・フェスティバルにはよく招待されていたけど、それで終わっちゃうのかなと思っていたら、イギリスとかヨーロッパが一歩先に公開できてアメリカの初公開は80年の6月なんですよ。

●そして、俺が80年7月に東京で公開した。その後パトリックは次の映画をプロデュースしようとはしなかったの?

C:考えてはいたけど、映画はそんな簡単にはできないです、本当に。彼らはアーティストで、良く分らないまま情熱だけでやってたから。

●だから、あの大変な時代に大変な国で撮れたっていうことだね。
(この映画が撮影されたのは選挙の度に暴動や死者が出る時代だった。ボブ・マーリー自身も1976年12月に襲撃され英国に亡命していたが、78年4月22日にキングストンのナショナル・スタジアムで開催された「ワン・ラブ・ピース・コンサート」で敵対するPNP、JLPの両党首を握手させた)

C:だから、プロデューサーがパトリックじゃなかったら映画は出来なかったし、誰かお金を出してくれる人を見つけていても、テッドが監督じゃなかったなら同じ映画にはなっていなかった。

●お金だけでは絶対出来ないね、本当にああいう映画は。

C:あの時代には色んなことが滅茶苦茶だったし、パトリックが死んでから3ヶ月もかかって書類とかを分けて、その後弁護士さんもいっぱい雇って色んな音楽関係の権利とかも苦労してクリアして、映画の人気もこんなに長く続くとは思わなかったし。

●はっきり言えば、古くならない珍しい映画だよね。

C:そうかなあ。

●例えどんなものでも大体古くなる。Rockersに出て来るファッションひとつを取っても古いとも言えるし新しいとも言えるよ。シャツはインの時代だね。だけど、それがぶっちぎってるっていうのか、古くない、そういう不思議な映画。

C:そうよね、それは音楽のせいでもあるし、今Rockersのfacebookをやってるじゃないですか、そこにすごくファッションの事を投稿してくるから本当だよね。すごいですねジャマイカの人達って、あんなに貧しい国でどうしてあんなに高そうな靴とか履けるのかよく分らない。

●お祭りの日でもないのにって感じだよね。

C:そうそうそう。

●はっきり言えばどこまで行っても田舎みたいな所で、そんなにビカビカにキメててどうするんだみたいなね。俺も最初に行ったときはカルチャーショック。なんなんだろうこの人達は面白いと。

C:そうすごく面白い。暑いのにみんなすごい格好してるじゃないですか、ジャマイカ人も大変なんだなあって。

●Cherryにとって一番印象に残ってるシーンは?

C:私は2週間くらいしかいられなかったけど、その間にも色んなことがあって殺されそうな目にも何回か遭ってたから、パトリックは私に早くNYに帰って欲しくて、それで私が帰る日の撮影場面がホテルでナイトクラブのシーンがあるじゃないですか、ジェイコブ・ミラーがステージで歌ってるシーン。

●クラブじゃなくてレストラン?

C:そうレストラン、本当はクラブが欲しかったんだけど無かったから。

●ホテルの庭みないな所ね。

C:そうそうそう、そこでツーリストの人達にも今日撮影があるから集まって下さいとか言って。

●あああ、なんかそういう人達が、踊ってるね。

C:私もツーリストで、そこにいたかったんですよ、でもその日に帰らなくちゃいけなかったから今でもすごく悔しい。私もあそこいたら自分が映画に入ってたと思ってね。だけどパトリックとテッドの奥さんがカップルの想定で踊ってるんですよ。バンドが終わって、ジェイコブ・ミラーが「もうすぐまた始めます」とか言うと、踊ってる人が席に戻るんですよ。そこに若いパトリックと若いテッドの奥さんの二人が金髪同士で、カメラの前を通るんだけど、パトリックは下手くそでカメラをチラっと見るんですよ(笑)。

●あははっ。

C:それがおかしくて、だから「Rockers」の映画を見る度に若いパトリックがそのままそこに生きてるから、うーん映像っていうのはすごいなと、、、。

●そうか、なるほどね〜。パトリックが亡くなっちゃって、Cherryには作品だけが残った。
(パトリックは2005年、癌のため56歳で他界)

C:そうだね、たったひとつの場面だけど若いパトリックが映ってるから、私も映画に出ていたかった、歩くだけでいいから(笑)。うちの娘が子供を生んで今7歳。パトリックが死んでから赤ちゃんが入ってることが分って「これはパトリックが入ってる
とか言って。それで周りがみんなして名前はパトリックって付けると思い込んでいたけど、私の娘は全然そういう気がなくてそれでみんなから非難されてた。

●非難は可哀想だよ、それ(笑)。

C:それでしかたないからミドルネームをパトリックにしてもらって。

●ああそうなんだ。

C:日本語の名前はタケオ・パトリックって。だからやっとパトリックってついて。

●Cherryにとって「Rockers」っていうのはどういうものだった?

C:「Rockers」が無かったら私もパトリックもどういう人生だったかなあとか、どういう風な違った人生を歩んでいたのかなぁとか、もしかしたらあのストレスが無かったら、まだパトリックは生きてたかなぁとか、、、。すごく彼は苦労したから、本当に一人で色々背負って。

 79年にNYでこの映画に出会って、80年に借金をして5年間の配給権を買った頃は、今のようにインディペンデントの映画の公開なんて、ほとんど存在しなかったのが日本。東映、松竹などの大手映画会社の系列映画館以外で、35ミリ・フィルムを公開する術なんてほとんど無かった。原宿ラフォーレやニッポン放送の協力もあってなんとか公開したが、その後も35ミリ・フィルムを公開する場所は全くなく、16ミリ・フィルムにダウンして貰ったフィルムをNYまで取りに行ってライブ・ハウスやイベントなどでたまに公開していた。しかし、当時あの映画を見て、あの映画によってレゲエにハマった人たちは僕の廻りに数知れず。あっ、僕もそうでした。いつまでも色あせない「Rockers」をまた観て下さい。