CULTURE

CLUB JAMAICA” from 1987 to 2012

 
   

text by 山口'Gucci'佳宏 写真提供 CLUB JAMAICA

2012年7月にRiddimOnlineに掲載されたインタビューです。

2012年6月23日 (土)、日本で最も老舗のレゲエ・クラブ、西麻布 CLUB JAMAICA が1987年の創業から25年で幕を降ろした。そこで、オーバーヒート石井志津男の「本場キングストンの音とカルチャーにこだわり発信し続けたその功績は大きい。日本にレゲエを広めたクラジャマの記録を語ってよ」という呼び掛けのもと、自分も含め4名のクラブ・ジャマイカOB、OGが集まり、クラブ・ジャマイカについて、主に成り立ちや歴史、思い出について語ることとなった。

須貝勉 (初代オーナー / 創業者) 2004年死去 享年56歳
対談出席者 (クラブ・ジャマイカ所属時)
内田健司 (閉店時 店長)
棚橋知子 (元 店長)
佐川修 (セレクター / レコード卸売業担当)
山口'Gucci'佳宏 (セレクター / タクシー・ハイファイを経てサウンド・システム "X-STASY" 担当)

石井: 先ずクラブ・ジャマイカの成り立ちは?

佐川: それに関しては、ともこが一番詳しいよね。

ともこ: 1987年、その当時、霞町 (昔の西麻布界隈の名称) にあったバブリン・ダブ (前身はタクシー・レーン) と言うクラブが閉店することになって、そこで遊んでいた連中の新たな遊び場所として7月頃、須貝さんが物件を見つけて秘密基地的に始めたのがキッカケ。私は渋谷の百軒店にあったブラック・ホーク (主にレゲエが流れていた) と言うバーでバイトをしていて、そこで須貝さんや加藤さん (元レゲエ・マガジン編集長・2011年死去) と知り合ってクラブ・ジャマイカに関る様になりました。その頃、ちょうどダンスホール・レゲエがジャマイカで盛り上がって来て、日本では当時のファッションやクラブ・カルチャーと言った背景があり、須貝さんもレミネッセンス (渋谷にあった古着を中心とした 洋品店) を辞めて、何か始めようと考えていてクラブ・ジャマイカを始めたんですよ。

佐川: レゲエ・ジャパンスプラッシュが始まったのも須貝さんの刺激になったんじゃないかな?

こうしてダンスホール・レゲエやクラブ・カルチャーの盛り上がりからクラブ・ジャマイカが始まった。創立期のスタッフは既にセレクターとして活躍していたサッタ (現ひょうたんアーティスト / 益子在住)、ハリウッド・ランチ・マーケットで働いていたヨッちゃん (四柳)、元バブリン・ダブのミヤケさん等、後にともこ (棚橋)、デプトで働いていたヤマちゃん (山本)、元新宿ソウル・トレインのシュアシャイン、サージェント (洋品店) で働いていたカニさん、アーティストのマサト等が加わる。そしてセレクターには、マッちゃん、ドクター・ラヴ、グラス・メンズの林氏等、暫くして向井さんや元スカフレイムスの長井さん、斉藤要さん、リンジー等が加わった。まさにファッション、音楽、レゲエ、クラブ、夜遊びなどが好きな連中が集まったのである。

ともこ: おさむちゃんが須貝さんとジャマイカ行の飛行機の中で出会ったのはいつ? それキッカケでクラジャマでセレクターをする様になったの?

佐川: 88年の1月、たまたま須貝さんとジャマイカ行の飛行機の中で会ったんだけど、クラジャマ・デビューはその前、87年の秋口にナーキ (日本レゲエ・ダンスホールの草分けDJ) と一緒に行って廻したのが最初。そしてレギュラーでセレクターを始めたのが須貝さんと飛行機の中で会った後。

石井: 当初クラジャマは看板を一切出してなかったけど (入口にネオン管のサインが付いたのは、かなり後年になってから)、あれは須貝さんのこだわりだったの?

ともこ: そうですね。やっぱり須貝さんのこだわりで宣伝するのはダサいと。

佐川: 風営法も出来たんで、あえて看板を出さなかったんだ。

石井: 看板出してなくてもクラジャマの名前はすぐに浸透したよね。

佐川: 西麻布と言うエリアがそう言う処だったんでしょう。

石井: オレも最初の事務所はクラジャマのすぐ裏手にあったんだ。あの辺りはちょっとアクセスの悪いエリアだったけどね。

ともこ: 西麻布自体がトレンド・セッター的でワクワクすると思って盛り上がっていました。

グッチ: あと、その頃は今ほど飲酒運転の取り締まりがキツくなかったから、アクセスの良くない処でもみんな車で行って遊んでいたって言うのもありました。

内田: 須貝さん、1987年7月頃に何となく始めた、と言ってました (笑)。

石井: スピーカー (サウンド・システム) の変遷は?

グッチ: 最初は確かクラジャマの事務所に移したJBLのスピーカーだったはず?

内田: 今でも事務所にありますよ。36cmフルレンジにホーン型のツイーターが一体となったバスレフ型のスピーカーですよね。

佐川: その後、ウーファーとデカいホーン型ツイーターが別々のシステムになって、それが暫く続いて、それからそれがあまり音が良くないんで須貝さんに相談してシステムを大幅に入れ替えて大きなものにしたんだ。夜中にほぼひとりでスピーカーを積んだ記憶がある。その頃、アンプは凄く熱くなるヤマハのデカいものだった。

ともこ: 扇風機で冷やしてた。

内田: 熱くなってブレイカー落ちてましたよね。

佐川: 客も入ってたし。

この時点でJBL46cmウーファーが入った既成のバスレフ型エンクロジャー4本、ミッド・レンジのスピーカー・ボックス、板に取り付けたホーン・ツイーターのシステムとなる。

グッチ: そしてX-STASY (クラブ・ジャマイカが造った移動型サウンド・システム・後述) を造った後に須貝さんがクラジャマの方のシステムも増強したいと言って、最終型 (同じウーファー・ボックスが12本、25cmのミッドレンジ・スピーカーが12発、ホーン型ツイーターが8発、モトローラのピエゾ・ツイーター多数) になったんだ。

佐川: そうだ、ハイのチキチキした音が足りなくて、ピエゾ・ツイーターのボックスを足したんだ。

グッチ: そのボックス、モトローラ・ツイーターの配線ハンダ付けはオレがやったよ。

1993年、アンプやミキサー等の機材類も一新してクラブの大きさに対しては巨大なサウンド・システムとなり、ここで音の面でもクラジャマは他のクラブと一線を画した存在となった。

石井: クラジャマと言えば、日本で初めて大々的にジャマイカの7インチ・シングルを流通させたことも知られているけど、全国のレゲエ店にリズム・トラック名やアーティストを説明したコメント付きの注文書をFaxしてたのもレゲエを理解してもらうのにすごく重要だったはず。

佐川: 自分がジャマイカと日本を行き来している時、クラジャマの身内用にレコードを送ったりしていて、それから須貝さんに話を持ちかけて本格的に商売としてレコードを送り始めたのが88年。そして卸売り業務を拡大する為にメガバイトと言う会社が設立されたのが89年です。最初は自分がジャマイカに渡り駐在してディストリビューターやショップでレコードを仕入れて日本に送る作業をしてパイプを作って、そうして、日本から発注してレコードを輸入出来るシステムを確立したんだ。リズム・トラック名を明記したのは、当時、ダンスホール・レゲエの面白さって、そこだったんで、そう言う聞き方もあるって言うことを紹介したかったんです。

石井: トラック名を明記したのはセールスにも直結したけど、それでお客さんが知ってレゲエ・ファンになった。

佐川: そうですね。今はネットとかでも試聴出来たりするけど、当時は出来なかったから。

グッチ: 小売店にとっては仕入れるための恰好の情報源でしたね。

ともこ: おさむちゃんがその辺をRiddim誌に書いていたのも良かったよね。

内田: ボクもそれ見てレコード買ってました。

こうしてジャマイカ、アメリカ、イギリスから仕入れのネットワークを広げ、日本全国にレゲエのレコードを流通する販路を確立したのである。

90年代に入り日本でのダンスホール・レゲエの人気が上昇し定着、それと共にクラジャマのレコード卸業務も飛躍的に伸びて行ったのである。レコード卸業務部門には元タクシー・ハイファイに所属していたコマツや新宿のレコード店ウッドストックで働いていたITA-P (板倉) やヤマちゃんが加わり、レコードの卸はクラブと共にメガバイトの二本柱となった。

クラブの方も活況を呈し、その頃、91年にともこが店長に就き、高田ひとみ、ミキ、ミドリ (この3人はランキン・タクシーのダンサーとしても活躍) の女性陣やマツジ、スモウ・マン等、93年頃に大友、小田切、イトウがスタッフに加わった。最盛期には、あのそれ程広くはない店内に1日360名の集客を記録している。

前出のX-STASYもクラジャマの大きなトピックである。そのサウンド・システムが造られた経緯は。

グッチ: X-STASYは、それこそ須貝さんの思いつきで始まった様なものですよね。

佐川: グッチ (当時、ランキン・タクシーが所属していた事務所でクルー、セレクター、マネージャーを兼務、その頃、既にクラジャマでもセレクター活動をしていた) に卸売業の営業をしてもらおうとして、メガバイトに誘ったんだけど、突然、須貝さんが可動式のサウンド・システムを始めたい、と言い出して、グッチはそれまでのキャリアから急遽、その担当になったんだ。それが1992年です。

グッチ: 4tトラック満載ぐらいのかなり大きなシステムを相当な費用をかけて造りました。こっちで設計してスピーカーのエンクロジャーとか機材のラックは外注で。ちなみに最初の音出しは代々木公園のホコ天でした。そして、クルーを一般に募集したんです。Riddim誌やレゲエ・マガジンに告知してもらって。当時は画期的なことでした。主にクラジャマに遊びに来ていた連中が集まって、そこには後にクラジャマでもセレクターをする様になったスリーピー・ドレッド (倉持)、CROSSROAD (黒須)、ヘイヘイ・ボス (辛石) や MAL (現 RUB-A-DUB MARKET) 等が所属していました。そして92年の秋口にジャマイカより、スクイッドリー・ランキン、メガ・バントン、リッキー・ジェネラルのDJ3名とブラック・スコーピオ・レーベルのオーナー / プロデューサーのジャック・スコーピオを招聘してイヴェント "UP TO DATE RAGGA" を渋谷ON AIRで開催しました。自分も初めての興行で右も左も分からず、収支的には大赤字を出してしまったんです。その後はフィラやマイヤーズと言ったスポンサーをシステム自体に付けて収支を考えました。まぁ、こんなことやっているシステムがなかったんで、いろいろ言われたりしましたけど。そして、レコード会社のアルファエンタープライズと組んでキング・ジャミーズ、オーバーヒートとシルヴァー・ホーク (故スティーリーのサウンド)、大阪のキラサン・サウンド・システムの依頼によりキング・アディーズ、ベース・オデッセイ、メトロ・メディアの東京公演のサポートなど本場JA・NYのサウンドとダンスを開催しました。西麻布のイエローにシステムを持ち込んで定期的にイヴェントもやっていましたね。

X-STASYと時期を同じに始めた事業がウエア&レコード・ショップのグラマラス。須貝さんがやりたかったものを形にした店のひとつであった。北青山の路地に1992年開業した。

内田: グラマラスにレコードを買いに行ったのがクラジャマに入るキッカケだったんですよ。その時はメガバイトがグラマラスを経営しているとは知りませんでした。行くと下間さん(現サンセットのKILLA BAM BAM)、リッキーとジェイソン (ジャマイカ人スタッフ・後述) が交互に居て、その時、クラジャマでグラマラスにレコード買いに来ている連中が廻せるグラマラス・デーみたいなのがあって、初めてクラジャマでセレクターをしたんです。バイトで入る前ですね。

当初、グラマラスはウエアとレコード、両方を扱うショップであった。店長はクラジャマのスタッフでもあった高田ひとみでウェアを担当、レコードは、やはりクラジャマで働いていた下間が担当、リッキーとジェイソンも店番をしていた。ウエアに関して最初は当時ジャマイカやニューヨークで流行っていたファッションを扱っていたが、その内、高田がチョイスした商品を扱うセレクト・ショップとなりファッションの先端を行く人達の間で話題となり始めた。そこにデザイナーの後直子が加わり、オリジナル商品を製造販売し始めるとさらに話題を呼び、大人気ショップとなった。ウエアの販売が好調になると共に1996年頃、レコード販売は店から撤退、ウエア・オンリーのショップへ経営変更する。一時は隆盛を極めながらも時代の流れと共に2000年閉店。その後、輸入中古家具を扱う店へ転向したが、須貝さんの死去 (後述) により2002年には完全閉店した。

1995年に、ここに集った佐川、棚橋、山口の3人がメガバイトを離れる。佐川は独立した形でコマツと共にレコード卸パノラマ・レコード、山口はレコード店ラックストーン・レコードを開業する。棚橋は音楽制作の業務へ。その後のクラジャマは内田、レコード卸業務はクラジャマとグラマラスで働いていた下間、X-STASYは倉持等が引き継いで行ったのである。

その後、98年頃、チェルシーを辞めたテラーノがクラジャマのスタッフに加入。下間がサンセットに専念するため99年にメガバイトを去った後、レコード卸部門をテラーノが担当することとなる。X-STASYは、結局、営利を得るに至らず98年頃にシステムは廃止された。

グッチ: 内田はいつ店長になったの?

内田: ボクは須貝さんから正式に店長になれ、って言われはしなかったんですよ。クラジャマに94年からバイトで入って、1996年半ば頃から何となく店長っぽくなって、実は正式に社員となったのは2000年なんです。90年代の末、レゲエ全体が下火になると共にクラジャマも結構、厳しくなったんですが、2002年頃、またガッと盛り返して来たんです。

石井: それは、どんな感じで盛り返して来たの?

内田: アーティストではショーン・ポール、リズム・トラックではディワリとかが流行って、今までクラジャマに来ていなかったお客さんが来始めて、また、かなりお客が入る様になったんです。

そんな矢先、2002年2月29日、クラブ・ジャマイカ / メガバイトのオーナーであった須貝勉が死去。享年56歳。短いながらも太くて濃い人生を全うした生涯であった。須貝さんの命日は2月29日 (!?)の、うるう年で4年に1度しか命日が巡ってこないのも、須貝さんらしい、とみんなで話したものである。本当にいろいろなことにチャレンジした人だった。

ふたりのジャマイカ人、リッキーとジェイソンの存在も忘れてはならない。ふたりとも日本人女性と結婚し、リッキーが91年、翌年にジェイソンが来日。須貝さんがスタッフとして招き入れる。ふたりともセレクター / MCとしてクラジャマやX-STASYで活躍をする。リッキーは2000年頃退社し自らレコードの卸業務を始め、ジェイソンは最後までクラジャマで20年間MCを勤め上げた。

佐川: 91年、景気が良かった頃、メガバイトの社員旅行みたいな感じで、スタッフみんなでジャマイカへ行ったんだ。その時、須貝さんがアクエリアスでリッキーとジェイソンに会って、そんな話になったらしい。その時、自分としては何でサウンド・マンじゃなくてレコード屋の店員を入れるんだ、って須貝さんに対し、思ってましたね。

そう、彼等はふたりともジャマイカ、ハーフ・ウェイ・トゥリー交差点横の有名レコード・ショップ「アクエリアス」のスタッフだったのだ。しかしながら、ジャマイカンを店のスタッフに入れたのは日本でクラジャマが最初、画期的なことではあった。その後、トゥイッチ (現ジャマイカン・フード・デリバリー) やアンソニー (セレクター) 等のジャマイカンがクラジャマに関っている。

あと、日本で初めてクラブとしてスペシャル (ダブ・プレート) を作ったのもクラジャマである。1989年、佐川が渡ジャマした際、パッド・アンソニー、ニンジャマン、ジョニー・オズボーン、ジョニーP & スリラーU等のスペシャルがアセテート盤へのダイレクト・カッティングで作られたのが最初。その後は佐川を中心にネタをディレクションをしてリッキーとジェイソンが帰省する時、彼等に託して制作をしていた。数多くの名アーティストによるスペシャルを所有し、まさに日本に於けるスペシャルの奔りだったのである。

このように日本に於いて、常にジャマイカを向いて活動してきたクラジャマは今年2012年6月23日 (土) をもって惜しまれつつも諸事情により止むなく閉店した。この最終日はなんと翌日の昼まで営業し、400人近くの別れを惜しむクラジャマ・ファンで店はゴッタ返した。しかし、今年中にはテラーノが新たに自分の店を白金で始める。そこにはクラジャマのサウンド・システムが設置されるとのことだ。クラブ・ジャマイカの名前こそないが、クラジャマの功績、そして須貝イズムは受け継がれて行くことだろう。

何だか古株が話す昔話が中心となってしまったが、近年のクラブ・ジャマイカについてはテラーノの店で直接話を聞いたらイイと思う。多くのスタッフ、クルーやレゲエ・ファンが集い、盛り上がっていた様子を。

最後に須貝さんについて、

グッチ: 粋な人だった。

ともこ: チャーミングな人、愛嬌があって、ちょっとダメな処もあったけど、みんなでものを造るお膳立てをいろいろしてくれた人でした。

佐川: オンナにもてましたね。

ともこ: 艶っぽかった。

佐川: 端的に言うとそうだね。

グッチ: 豪快な人だった。やっちゃえ、って時はとにかくバンとやってた。

ともこ: あと、日々ワクワクしていたい人でした。それが音楽であっても私生活であっても。自由な人。

佐川: 何かを形にしてしまうと、それがつまらなくなってしまう人だったなぁ。

内田: 須貝さんが「ジャマイカに楽しませてもらってんだから、何らかの形で恩返しをしたいだけなんだよ。」とサラッと言っていたのが、カッコ良くて印象に残ってます。ボクはいつもそれを肝に命じてやっていました。

"CLUB JAMAICA" IS FOREVER!! 2012