MUSIC

CHELSEA MOVEMENT

 
   

Interview & Photo by 石井志津男

2015年7月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

オリジナルなプレイ・スタイルで活躍するサウンド、チェルシー・ムーブメントのMartin-KinooとSpicyがSoul Rebelに出演決定。彼らのルーツとこれからを聞いてみた。

●まずCHELSEAって名前はどこからきてるの?

MARTIN-KINOO(以下M):チェルシー・ホテルですね。

●ええっ、ニューヨークの?

M:じゃなくて、ジャマイカの。

●ジャマイカの?

SPICY(以下S):チェルシー・ジャーク・センターの横にあるチェルシーっていうラブホが。

●知らないね、それ。

M:サットン・プレイスあったじゃないですか。

●うんうん。

M:あそこの裏手にあったと思うんですが…です。僕らは元々APO-MEDIAで活動していて、自分達のクルーを立ち上げようって時に、その時のメンバーとかみんなでジャマイカに行ったんですよ。

●それは何年のこと?

M:95年の年末を向こうで過ごそうっていって、渡航中に新しいクルーの名前をどうするかみたいな話しになって、ジャマイカで初めてダンスに行った場所がメトロ・メディアとストーン・ラヴと、ジャム・ロックかなんかだったんですけど、それがチェルシー・ジャーク・センターでやってたんですよ。初めて行ったとこだし、日本的にはキャンディーで名前も知られててキャッチーだし、ニューヨークのチェルシー・ホテルだったり、ちょっとパンクっぽいイメージもあるしっていうのでチェルシーで良いんじゃないのみたいな感じで決めたんですよね。

●じゃあ結成が96年ってこと?たしかジャマイカでやってたんだよね。その辺の話しを教えてもらおうかな。

M:96年に1回帰って来て、こっちで色々ダンスをやって、一応ジャマイカ・マターということでちゃんと毎回ライヴのテイクを録って、ちゃんとプロダクションとして出しテープを作って、次のダンスの時にそれを売ってみたいな事をやっていたんですよ。それでお金を作ったりとかして。それをナガセケイコがキングストンにあったCISCOのバイヤー勤務で行くっていう時に、僕らのテープを「じゃあ、お土産に、これ聴いて思い出してよ」みたいな感じで軽い気持ちで渡したんですよ。で、ナガセがジャマイカのオフィスでそれをいつもかけて聴いていたら色々と出入りしてる業者のやつらが聴いて「これいつのストーン・ラヴのテープ?」みたいな話しになって「いや、これ日本人のサウンド
「ええ、マジここまで出来る子達が居るんだ」って、オファーが来たんですよ。それがドレッド・フルというイベントでした。一応ブッキングはストーン・ラヴとレナサンスとCHELSEAっていう3サウンドでUWI(西インド諸島大学)のキャンパスでやったのが97年の最初です。

●ナガセケイコさんてランキン(タクシー)が家庭教師だって言ってたけど。勉強を教えるついでにレゲエを教えてたのか!

M:うん、家庭教師。ハハハッ(笑)。そうっすね。
そのテープがきっかけで1週間くらいジャマイカに行く事にして、その時は、TELANOと三人で行きました。で、UWIのイベント後、色んな人から「ウチでやってくれ」みたいな話しが来て、行ける所は行ってやろうと結構ダンスをハシゴしたりもしたんです。それはギャラ云々じゃなくて、やらせてもらえる所はやったみたいな。今考えると、96〜97年位のクロス・ロードの辺りとか、当時ちょっと危なかった所とかも行ってやってたりして1週間で帰国して、またこっちで普通に始めてたんですよ。そうしたら、ナガセから「あまりにもオファーが多い、これは絶対あなた達ならやっていけるから、今すぐにでも来なさい」みたいになって。で、「どうする?行くって言っても」みたいな。

S:「実際暮らせるの?」みたいな。

M:帰国してすぐにジャマイカにまた長期滞在なんて考えてなかったので、お金も貯めてなかったですし、「えー?」みたいな。

S:予定が未定だったね。ただ、「来れば何かあるから」っていうだけなんで。

M:でもその「なんとかなる」に賭けてみたんですよ、僕らも。それが97年です。

S:97年頭にUWIでやるダンスにちゃんとしたオファーで安心して行って、それで帰って来て、それから半年くらいしてお金を貯めて10月くらいに旅立ったんです。

M:重いレコードだけ持って行って最初は住む家も無い状態。でも、そのドレッド・フルでやった1回目のイベントの時の評価が色々と知れ渡っていて、結構イミグレーションとかもノリの良いやつが「お前ら知ってるぞ!」みたいな、空港あるある、ジャマイカあるある話で入国できて、最初はナガセの家に間借りしたりしたんです。家探し、イベント探し、自分達がサウンドとしてやっていけるのか探しみたいな全てが並行で1年かけてやっていましたね。
一応グリーナー(新聞)とか、色々推薦文を書いてもらって持って日本のジャマイカ大使館に行って、ビザを取って行ったんですけど、向こうでは許可が下りなくて「とりあえず観光ビザで入れるから、後はもう1回ワーキング申請しなさい」って、お金取られただけだったよね。

S:あれ何だったんだろうね。

M:一応ワーキングを貰って、最初の1ヶ月はちょいちょいイベントのオファーを貰ってたのを詰めながら、環境に慣れることでほぼ終わって。そんな中、レナサンとの再会があって、結局僕らの事をレナサンがマネージメントをしてくれたんですよ。最初はレナに入って来る仕事の中でバーターで行かせてもらったりしてるうちに「あの日本人のクルー使いたい」みたいな話でロードマネージャー的な感じでナガセが色々と車出してくれたりとか。

S:それでマイアミか。

M:そう、レナサンのリーダー、デラーノのイベントで、その名もデラーノズ・リベンジっていうレナの中では1番デカいイベントがキングストンの空港からちょっと上がったミネラル・バスという場所であって、僕らも出させてもらって、マイアミのプロモーターとバハマのプロモーターが見に来ていたんですね。それはレナが繋がってる人達だったみたいで、「マイアミにも」ってなって、マイアミのイベントにブッキングされ、今度はジャマイカでも見てたっていうバハマのプロモーターが、そのマイアミのイベントに来ていて、「マイアミに来れるんだったら、バハマにも」って感じで、色々あの辺を廻らせていただいて。

●それはどのくらいの期間居たの?

M:1年ちょっと。ジャマイカを拠点に出たり入ったりやってましたね。大きいイベントもあったんですけど、場慣れする為にはジャマイカのコミュニティにもっと入らなきゃっていう話しになって、ジェミナイっていう老舗ゴーゴーバーに行ってDJをやらせてもらったり。大きいダンスばっかりじゃなくて、ゲトーのダンスもいっぱいあったし。

S:やっぱ大きいダンスでやると、終わると本当名刺の嵐みたいな、囲まれてオファーがどんどん。多分珍しかったんでしょうね、日本人が。それでマイアミを含めてカリブ海のその辺の島から「来てくれって」行くとビッグ・ダンスでしたけど、ジャマイカの中ではそんなでも無かったよね。

M:イメージ的には大きい所が多いようなイメージで話は回ってたけど、やっぱ結構凄いゲトーでもやってるし、ホーム・パーティーみたいなのもやゴーゴーバーだったりが、今考えると凄く僕らの基礎を作ってくれてます。一般の人達もちゃんと喜べるレゲエみたいのをそこで学んだというか、あとはゴーゴーとかはソウルのかけ方を踊り子?のお姉さん(おばちゃんw)達に凄くうるさく教わりました。ありがちな「えっ、あんた達あれの次あれかけないの?」みたいなのもあったし。それじゃ〜おどれないとか、全然セクシーじゃないとかw

S:日本じゃ分からないです。本当にそれを肌で感じて、かけ方とか選曲の仕方とかMCを入れるタイミングとか、当時あった流行言葉とか、行ってやらなきゃ分からないタブーな事もいっぱいあったしね。日本で平気にかけてて、同じオケだからってギャル・チューンの後にラスタ・チューンかけたら、もうバァーっとみんな引いちゃったりとか、1個のサウンドの時間はちゃんと物語になってないとみんな嫌なわけで、そういうのも凄く学んで、緊張感あったよね。

M:本当にたった1年ちょいだったんですけど、長くてすごく濃かったですね。

S:もう忘れられないね。

M:カントリー行って僕が普通にドリンクバーに並んでたら、背中に何か突きつけられたりとかして、「ええー」みたいな。まあ、鬱陶しかったね(笑)。

S:当時のあるあるですね。ニュー・キングストンに住んでたんですけど、あの近所をフラフラ普通にスーパー行くのに歩いてると、囲まれるんですよ「ジャッキー・チェンだ」って。車持ってないから、もう外に出るのも嫌になっちゃってね。変に有名だったからね。

M:SPICYはセレクターだから、ずっと昼間も練習をしてるじゃないですか。僕はMCなんで、あんまり家でゴロゴロしていてもしょうがないのでフラフラ外に行くと仲間が段々増えて(笑)。丁度その時期にRED SPIDERのジュニアとか、イエチョ(Yellow choice)のトシヤとかにも出会って。元々APO-MEDIAにいてCHELSEAに入った最初のメンバーだったジュンヤとニチがキングス・ハウスをシェアして住んでた時代だったんですよ。昼間はそこに遊びに行ったりとかして遊んでたんですけど、446とか、オゼッキーが居たりとか。
ま〜色々ありながらもそうやって1年いて、スティングにも出て、泉谷(しげるの番組「ジャマイカで吠える」)さんのテレビにも出させてもらって「帰ったらもう仕事一杯きてるべ」みたいな感じで日本に帰ってきた。

S:凱旋帰国ですよ。

●おお、凄いね。

M:それで、「これはもう、そこそこ仕事あるな」と思って帰って来て、だけど98年、分かると思うんですけど、レゲエ低迷期で、何も仕事が来なくて(笑)。

S:企画したのは入らないしね(笑)。

M:自分達で打つダンスくらいしか出来なくて「どうする?」って焦っちゃって、結局色んな事がちぐはぐで上手くいかなかったり、繋がっていかなくて断ち切られる部分も一杯出てきて。そうこうしてたら(マイティ)クラウンがトロフィー持って帰って来て、今思えば色々ジェラスな部分も出てきて、どんどん焦っちゃって、(SPICYも)僕より2つ上で先に30歳にもなるし「これ以上やっててもプラスになることが無いんだったらもう止めよう」って99年で止めたんですよ。だから3年しかやってなくて、その3年の内の半分が向こうにいて、本当に日本での思い出も作れないまま終わってたんです。でもその3年の中には、そこそこのもあるんです。ニンジャの衣装とか作ってたエミちゃん知ってますか。

S:ソウマエミコ。ブジュとか、シャバとかの衣装を作ってたビギー(ジャマイカのダンスホール・ファッション・デザイナー)の弟子だったんですよね。日本ではグラマラス(青山にあったレゲエ・ファッション・ショップ)で、ウェアの方を担当していたんです。

●へえ、じゃあ毎日前を通ってたから俺も会ってるね。

M:絶対会ってますよ。で、そのエミちゃんが僕と地元が一緒だったので、彼女のレゲエ・ファッションのブランドを立ち上げるって時にCHELSEAでイベントを企画して、その時の余興でファッション・ショーを新宿のキングストン・クラブでやったりしたんです。僕らもジャマイカから帰って来て1発目で、クラウンもちょうど日本に居たので「じゃあ、クラウンとダンスやろう」って、その新宿のキングストンで1000人オーバーだったんですよね。そこそこの事をやってたんですけど、知れ渡ることはあまりなく。

●99年で止めて、また復活したのはいつで、きっかけは?

M:復活は2008年です。きっかけは日本でやってた時に踊ってくれてたダンサーの女の子達がいたんですよ。その中の1人がイベントをやりたいからCHELSEAに出て欲しいと。でもSPICYには僕が何度か「またやろうよ」みたいな話しをして、当時の彼には色々な想いがあるのを知ってたから「SPICYを口説ければ俺はいいよ」って、電話してもらったら「1回だったら」みたいな話しになってやったんですよ。その時録った音源を折角だからって出して、そうしたらそれがまた思いのほか反響が良くて「ウチでもやって」みたいな話しになって「どうする?
「じゃあ、1年だけやってみるか?オファーが無くなったら止めよう」、そんな軽いノリだった。それが、あれよあれよと1年経って、でもその先もブッキングが来ていて「来てるうちはやらせてもらおう」って、なんやかんや日本全国色々と行かせてもらってたら2年経ち、3年経ち今になっちゃったみたいな。

S:殆ど地方がレギュラー・ダンスになっちゃったんです。そうなるとどんどん年が延びてくんですよ(笑)。毎週地方に行って、東京では殆どやってないと思うんですよ。

M:当時僕らを見てた人達が地元に帰って結婚とかしてて、声をかけてくれて最初はずっと地方ばっかり廻ってて、都内は本当にほぼ無かった。横浜もクラウンだったりキャプテンCとかが呼んでくれたりとか、そんな事してたらEXTRA CLASSICも始まり、でもレギュラーを(自分たちで)持つのはもう止めようって決めてて。EXTRA CLASSICは別として、呼んでもらえる所に100パーセントの力を出せるように、フォーカスをちゃんと絞れるようにしようと。

●それは、どこがどう違うの。

M:レギュラーだと、自分達でイベントとして考えなきゃいけなくなるじゃないですか。1晩というか、例えばゲストを誰にして、会場をどうするかとか、そっちに力を注ぐよりも、今自分達が出来る音の表現方法を守りたかったというか、イベントのプランニングじゃなくて、まずはサウンドとしてのプランニングを。

●パフォーマンスに力を入れるみたいな事かな。

M:はい。そっちに力を入れたかったんですよね。当時の僕らを知っていて来てくれるお客さんが多かったので、劣化してる自分達を見せるわけにはいかないっていうプレッシャーがあって、そこは2人とも凄く意識して、サウンドをプロデュースする方に力を入れたくて。

●なるほど。でもさ、この前見た高田馬場のライブハウスPHASEで、また「MIX UP」っていうバンドも入れたイベントをやってるわけだよね。

M:そうです(笑)。

●これはまた面白いなと思ってるんで、これを説明して欲しいね。

M:2008年に復活させてもらって今は2015年、当時は3年しかやっていなかったのが、今はもう全然逆転して長い訳ですよ。90年代の自分たち以上のパフォーマンスをしなきゃっていうのは全然変わらず、プラスSPICYは元々バンドマンで、僕もそういうとこで育ってるんで、ライヴ・ハウスで何かをやりたいねって想いがここ2年くらいあったんですよ。ライヴ・ハウスにはクラブ・シーンとは違うシーンがあってスカとか良いバンドも若い子達も一杯いるから、この2つがそこで混じり合う事が出来ないのかなと。それで、ニューロティカってバンドのベーシストだったSHONさんっていう方と仲良くさせてもらっていて「俺がライヴ・ハウスとバンド周り仕切るからキヌ君の方でプランニング立ててよ」みたいなことで、色々と話しを詰めてライヴ・ハウスもバンド周りもそのSHONさんだったり、僕の気になってるバンドをオファー出来て、当然CHELSEAもいるけど、もう1個レゲエで仕掛けられる事を考えなくちゃと。この間のPHASEでランキンさんのバックをやっていたのは、虎子食堂で毎週水曜にやってるMY BEST DINNERで、第三水曜日にやってもらってるバンドです。もともとサーフロックみたいなバンドですが、ベースが抜けちゃっちゃったんで僕が森俊也さんに相談して「ランキンさんヴォーカルで、どうですか」と言ったら「面白そうだね」って。ランキンさんも「いいんじゃない」って。「でもランキンさんの曲じゃなくて、例えば2トーンとかCLASHのカヴァーはどうですか」って話したら「面白そう、やろうよ
って盛り上がって、また森さんとやり取りをしていって、セレクター目線で盛り上がる曲でバンドを構成したいって言ったら、ランキンさんも「まあ君がプロデュースするんだから、まずはそれに乗るから」みたいな。それがアレです。クラブ・カルチャーとバンド・カルチャーがMIX UPで上手くいくように、100パーセントじゃないですけど僕らがやってるCHELSEA MOVEMENTというダンスホールをあそこにぶち当てたいなって、僕らもまだ2回目でなんとも言えないですけど。起爆剤というか今迄無かった事をやってみたいなと思って始めてます。

●新しい試みだよね、本当にそう思ったけど。

M:僕は本当にロンドン・ナイトで育ってきて、バンドがあってDJ達がいて同じ空間で盛り上がってみんなで楽しそうにギャーって。ヒップ・ホップにしてもレゲエにしても皿で全部出来ちゃう感じを、あのライヴ・ハウスの空間と空気感で自分達も次のステップに上がる為に何か仕掛けていくモノとしてこれを始めてみようって感じですね。
3回目が9月にあるのですが、ブッキングしてるバンドもラガ、レゲエを入れたハード・コア・バンドと、あと2つくらいオファーを出していて。ジャンルも一応レゲエっていう太い線がありきの、ハード・コアをやってますみたいな人達に声をかけるようにして一応年内の最終目標が新宿ロフトの11月7日です。僕らはもっと”今音楽を作ってるんだ”っていうところをやりたくて、今年は頑張ろうと思って。

●話しをまたCHELSEAに戻すと、自分達と他のサウンドとの大きな違うモノってなんだと思う。

S:なんだろう。

●なんかSPICYのターンテーブル・テク、上手いよね、スキルが。

S:一応それを売りにはしてますね、技術と一応ジョグリン・サウンドなので、口で言うジョグリン、ジョグリンって言うのじゃなく、本物の盛り上げ方だったり、ドラマチックな展開だったりとか、他では無いアッっと言うような選曲があると思いますね。ツボを得ているとか、一番ドキドキする様な選曲をしているつもりなので、いきなりガッって曲が変わってもバッと手が上がるっていう、変わってドン引きじゃなくて、更に階段を上ってく感じの選曲をやって、それにMCがメロディアスに乗るっていうのがうちらのサウンドの特徴かなとは思いますね。楽器をプレイする様に、ターンテーブルでやるっていうのが僕らの目標。

M:僕は彼に選曲だったりその日の流れを100パーセント任せてるんです。打ち合わせは、ほぼほぼしない。それに対してMCを入れるんですけど、やっぱ90年後半のチューパーが出て来てけっこう変わったと思うんです。国内のシーンでいえば、クラウンの影響は本当に凄いと思いますが、最近のMCのスタイルは曲をまず説明して煽ってからかけるみたいなスタイルが結構多くなってるじゃないですか。でも僕らがやるのはストーン・ラヴとか、好きなレナサンスとかもそうですけど、ジョグリンだった頃ってやっぱり曲の上にMCを乗せるっていうのがスタイルだったと思うんですよ。スカイ・ジュースなんかも結構説明するんですけど、どっちかっていうと曲に乗せてのMCだと思うし。

●俺は今でもそれが好きだね。

M:ですよね。それが僕らの教科書だったので、そこは僕としては崩したくない。昔からやっている人達は結構僕らみたいなスタイルの人もいると思うんですけど、今のサウンドと比べるとしたら、大きな違いはそこが一番だと思うんですよ。MCとして気を使っているのは、セレクターとの間だったり、お客さんとの間もそうなんですけど、そこを凄く重要視しているので、曲の説明よりは、本当に曲をどうやって盛り上げるかとか、あとは会場をどういう風に盛り上げるかっていう方にベクトルがあります。特に彼はスクラッチもあるので、セレクターをどう活かすかっていうMCを僕はしているんですよね。

●ジャマイカ時代もそれをやってたの?

S:それが売りでした。

M:それで乗り込んでた感じです。

S:多分それで話しが来たんだよね。リミックスとかを作ったり、そういうメドレーだったり、オケの差し替えだったりを自分でやっているんですね。うちらはダブ・プレートよりもそっちをメインに、当時流行ってたそれをやっていて。
ま〜、今は誰かに委託すれば、それなりにダブは録れるじゃないですか。昔も全然知らない人だってビッグな人にお金を払えば録れて、それをかけて「俺等はこんなの持ってるぜ」みたいな、例えばシャバとの交流が無くてもそういうのを録れちゃうのが何か嫌で、自分らは自分らの技術を見せたいっていうのがあって、ダブよりもオリジナル・チューンっていうのに結構拘ってて、それは今でも変わらずダブ・プレートと併用してかけてたりしてそれが個性になってきたって事かな。それプラスやっぱ、リミックスの中にスクラッチとかを入れてて、現場でそれを再現するっていう。基本の7インチを擦ってみるみたいな。それでちょっとディスコっぽいというか、新鮮で斬新な感じのサウンドにしようと思って今でも変わらずやっている。古いスタイルかもしれないけど、今の子にとったら新しいのかもしれないよね。うちらがやってたあの時に誰も受け入れてくれなかったけど、何か時代がひとつ変わったら、今は若い子達も「すげえ、この人達面白い」って。また80~90年代のオールディーズが流行ってるっていうのもあって、勉強したい子達がいて、今の環境はいいよね。

●じゃあ大体この辺りで、言い逃してる事があれば。

M:途中休んでますけど、まあ立ち上げから今年で19年、初のMix CDを出せました。

S:内容は僕がミックスしてるんですけど、今って結構パソコンで作ったりしてるじゃないですか。聴いていても流れっていうのが無かったりとかが凄く気になっていたので、聴いてもらうと分ると思うんですけど、手作り感があるというか、本当にちゃんと手でミックスしていて、それがDJなんじゃないかなっていうのが分るような音源になっているので、是非聴いてもらいたいです。

M:レゲエです。ダンスホールなんですよね僕ら。パーティーじゃなくて、ダンスホールをやりたくて。

S:そこだけは絶対にブレないようにはしてるんですよ。やっぱりディスコでありダンスホールであり、お客さんを踊らせるっていう、飲ませて万歳だけじゃ終わらせないよっていう。