MUSIC

Niambe McIntosh

 
   

Text by Norie Okabe(岡部徳江) Photo by EC

2014年8月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

2014年7月20日。吉祥寺で行われたイベント「SOUL BOOK」で友人から紹介された女性は、なんとあのピーター・トッシュの娘だった。彼女の名前はNiambe McIntosh(ニアンベ・マッキントッシュ)。父親の功績を日本のみんなにもっと知ってもらいたくて自ら伝えに来た――そう熱く語る彼女に取材を申し込み、真っ先にEC社長に相談した。80年代初めにピーター・トッシュに会いサインをもらったというEC社長と、ニアンベの対談。そこに聞き手として同席させてもらった。彼女の持つ静謐な空気、気品高く凛とした佇まい、和やかな笑顔。そのなんともいえないクリーンな美しさに私はすっかり魅了されてしまった。自分の、そしてみんなの家族の話が大好きで、子供に愛情深く、一緒に過ごせたのは滞在中ほんのわずかな時間だったけれど、ものすごくあったかいモノを授けてもらった気がする。彼女の名刺の中でいたずらっ子のように微笑むピーター・トッシュの写真がまた素敵で、2人の笑顔を重ね合わせながら聴くアルバム『Legalize It』は、今まで聞いたどんなときよりぐっと胸に響いた。

EC:今回初めて日本に来たんだってね。どんな目的で来日したの?

Niambe(以下、N):父のことを今以上にもっと日本のみんなに知ってもらいたくて。私は、2009年から“PETER TOSH ESTATE”のリーダーとして活動しているんだけど、より広くピーター・トッシュというブランドをプロモーションしていくのはどうしたらいいかいつも考えていたの。日本ではレゲエがとても愛されていて、父への理解もあると知っていたから、前からずっと訪れてみたかった。日本のレゲエ・シーンについては、90年代後半にボストンでマイティー・クラウンのサウンド・クラッシュを初めて見て衝撃を受けて、それからずっと興味を持っていたし、実際に体験してみて、才能にあふれた人たちがたくさんいることを知ったわ。今回の旅は、日本に住む従兄弟が私を招いてくれて、彼に導かれるように急遽予定を決めて来たんだけど本当に来てよかった。とても充実した時間を過ごしています。

EC:昨日は新宿のOPENに行ったんでしょ?

N:そうなの、楽しかった! 校長(オーナーの工藤晴康氏)が父の歌を2曲も私の前で歌ってくれたのよ。彼は本当に最高ね。その前日には、FIRE BALLのショウを観に行ったんだけど、衝撃的だったわ。彼らはタレント性に富んでいて素晴らしい才能を持っているのね。横浜のラガチャイナ、北中45レコードにも行けたのよ。貴重な体験でした。

●“PETER TOSH ESTATE”ではどんなことをするのですか?

N:リリックや曲はもちろん、ピーター・トッシュに関するものすべて、リーガルにビジネスしていくための管理業務をしているの。この前、世界中で販売されたSTUSSYとのコラボレーションTシャツもそうね。嬉しいことに彼らからコンタクトしてきてくれて実現したんだけど、そういうグッズも含めて全部“PETER TOSH ESTATE”を通して世に出していくっていうこと。今は、映画製作を進めているのよ。

EC:監督がケヴィン・マクドナルドなんだってね。ボブのドキュメンタリー映画「Marley」を作ったイギリス人監督。僕は彼の作品が大好きで、フィクション作品とドキュメンタリー作品を10作くらい観ているんだ(笑)。第3次世界大戦を扱った最新作「わたしは生きていける」も素晴らしかった。

N:本当に!? 私も彼の作品が大好き。でも最新作はまだなの。早く観たいわ(笑)。ケヴィン監督は、物語の伝え方がとても素晴らしい。彼が父のことをどういうストーリーで伝えていくかとても楽しみなの。脚本までは完成しているのよ。ドキュメンタリーではなく、フィクションだからどんな仕上がりになるか今はまだ想像がつかないんだけど。

●じゃあ誰かがピーター・トッシュ役を演じるってこと?

N:そうなの。でも配役もまだ決まっていないような段階だから、具体的な説明をできないのが残念だけど。

●あなたは2009年から“PETER TOSH ESTATE”で活動を始めたという話ですが、何かきっかけがあったのですか?

N:それまでは、家族に代わって公的機関が業務を請け負っていたの。私も若かったし、何をどうしたらいいかなんてまったくわからなかったのね。だけど、大人になってそれがわかるようになったし、なおかつ私たち家族にはそれをやる権利があるんだと強く感じるようになって。始まりはそこからね。

●家族とおっしゃいましたが、兄弟は何人いるんですか?

N:父には10人の子供がいるの。女5人、男5人。その中で私は一番年下よ。この10人の子どもは、6人の母から産まれてるの。私の母が産んだのは私と兄の2人。今では孫も産まれているから、子孫は総勢25人。祖母が「1人の男から25人も産まれた!」って笑っていたわ(笑)

●末っ子なのに、あなたが“PETER TOSH ESTATE”でリーダーを務めているのは何か特別な理由でも?

N:当初は、上の兄弟たちが先陣を切って取り組もうとしていたんだけど、どうにもなかなか進展がなくて。私には一番冷静に判断する力があったみたいね。そのうち「お前が一番向いている。パーフェクトだ」って(笑)。それで私が中心になって動き始めたの。

●お母さんとお父さんが出会ったときの話は聞いてる?

N:ええ、もちろん。母はボストン産まれで、たまたま父がボストンでコンサートをやるとき観に行っていたらしいの。コンサートが終わって帰ろうとしたとき、スタッフだったかしら……誰かからバックステージに呼ばれて、そのあと父に誘われて食事に出かけたんですって。2人はすぐ恋に落ちて、母はライブツアーに連れて行ってもらった。そのままジャマイカへ一緒に帰ったっていう話ね。母の名前はMelody。私の名前のNiambeも、スワヒリ語でメロディーという意味なのよ。

EC:ピーター・トッシュが亡くなったのは87年。そのときあなたは何歳だった?(87年9月11日、キングストンの自宅で三人組の強盗に襲われ射殺された)

N:ちょうど5歳ね。

EC:ジャマイカにいた?

N:いいえ、ボストンにいたの。私が2歳か3歳のころに母は父と別れて、兄と私を連れてボストンへ帰ったみたい。

EC:僕はあの夜、レコーディングでキングストンのダイナミック・サウンズ・スタジオにいたんです。「ラジオでピーターが殺られたって言ってるぞ」と男が飛び込んで来て、そこにいたみんながえらく落ち込んじゃってね。暗くて重い空気が漂って、すっかりレコーディングする気力がなくなっちゃった。朝になって外に出てみたら、軍隊まで出ていて何かすごいことが起きたんだなって感じたよ。

●2~3歳でボストンへ移住したということは、お父さんと過ごせたのは本当に小さい頃の限られた時間だったんですね。何か覚えていることはある?

N:いいえ、思い出を作るためには私は幼なすぎたのね。ほとんど覚えていないもの。周りの人から聞いた話だと、父はシリアスなリリックを歌って、シリアスなインタビューに答えているけど、実はとってもひょうきんなおもしろい人だったんですって。いつでもやさしくて、周りの人に「家族はどうだ? 子どもは元気か?」って気にかけているような人だったって。

●どんな人からお父さんのことを聞いたんですか?

N:それはもうたくさんの人から! 思い出せないくらいよ(笑)。でも一番多く話を聞いているのはマネージャーだったハービー・ミラーとコープランド・フォーブスかしら。ハービーは、ピーター・トッシュという人間の功績について、そして彼が遺してくれた大事なものについて、すごく情熱を持ってみんなに伝えようとしてくれているの。今でもよく連絡を取り合っているわ。

EC: あ〜、その二人ならよく知っている男たちだ。ハービーはインテリジェンス溢れる男で「Legalise It」「Equal Rights」 「Mystic Man」など彼の代表的な曲の制作に携わっていたし、優れたプロデューサーでもあるね。たしかトーツ・ヒバートの「Toots in Memphis」っていうアルバムにもコ・プロデューサーとして関係していたはず。

●あなたが考えるピーター・トッシュの功績とは?

N:彼のリリック、伝えてきたメッセージをよくかみ締めてみると、今の時代にも通じる本当に大事なことを歌っていた数少ないシンガーだなと感じるの。たとえば「Legalize It」ではマリファナの重要性を訴えているけど、あの歌を作った頃から30年以上経って、アメリカのコロラド州ではマリファナが合法化した。さまざまな研究によってわかってきたことを、彼は昔からわかっていたんだと思うの。

EC:その通りだよね。俺ね、昨晩アルバムを引っ張りだして聞いていて改めてすごいなって思った。食品問題とか今すごく騒がれているけど、昔からピーターは警鐘を鳴らしていたんだよ。「Mystic Man」なんてドンピシャだよね。フライド・チキンやハンバーガーなんて食わないとか、ピンクやブルーのソーダは飲まないとか歌ってる。ジャンクな飯を食べるなってね。それってまさに今日のジャンク・フードの問題、食料戦争のことなんだよ。「The Day The Dollar Die」なんて今のアメリカの経済破綻を予言しているんじゃないかと思し、最後のアルバムなんて『No Nuclear War』だ。実際に今は原爆を使ってないというけど、核の抑止力で他国を抑え込んでいるってことは、銃を持っていないやつのこめかみに銃を突きつけて言うことをきかせてるってことだからね。紛れもないファイト、つまり戦争だよ。

N:そのとおりね! 彼のメッセージは今の時代へのメッセージ。ボブ・マーリーがすごいっていうことはみんなが知っているけれど、ピーター・トッシュが訴えてきたメッセージも永遠に残っていくべきもの。それをちゃんといろんな世代に伝えていきたいの。彼が熱心に広めていたラスタファリズムについてもそう思う。一見、宗教のように捉われがちだけど、実際は心、魂の話。ラスタファリアンは美しくきれいに澄んで生きている人たちだと思う。考えをしっかり持つ、その心が大事。

EC:ピーター・トッシュはボブ・マーリーにギターを教えたって言われてるよね? あと彼はピアノも弾ける。映画「Marley」で、たしかボブが歌う「No woman, No Cry」のピアノ・ヴァージョンが挿入歌として使われてたけど、あれはピーターが弾いてるデモだよね。ゲットー育ちだとピアノは弾けなくて当然なんだけどピーターは弾けた。彼はとっても音楽性があるんだよ。

N:ピアノは小さい頃に教会で学んだんですって。ハーモニカの腕も素晴らしかったって聞いたわ。ボブ・マーリーにギターを教えた話は有名だけど、実はいろんな人にピアノやギター、ハーモニカを教えていたみたい。楽器がすごく上手な人だった。

EC:その上声がすごくいいんだよなぁ。金属質っていうのか、硬質で深みがあるっていうか、リリックを伝えるための最高に強い声を持っていた。

N:そう、とてもストロング! 私の兄はTOSH ONEという名前でDeeJayをやっているんだけど、そのストロングな感じがとっても似ているの。彼は日本がすごく好きで、確か10年前くらいにホレス・アンディと新宿OPENで歌っているわ。昔は私も彼と2人でライブをやっていたの。後ろでレコードかけていたのよ。仕事を始めてからはやっていないけどね(笑)

●そう、あなたは高校の先生なんですよね?

N:ええ、教師の仕事と、“PETER TOSH ESTATE”の仕事と掛け持ちよ。

EC:なぜ先生になろうと思ったの?

N:大学でエンジニアリングを専攻して卒業したのはいいんだけど、私には何かもっとしっかりとした目的がないといけないと思って、いろいろと考えてみたの。そんなときにふと浮かんだのが教師という職業だった。子供が好きだったということもあるけど、父の影響も大きいわ。「Bombo claat」という曲に“人々に教えて人々を導くため、この島に来た”というようなリリックがあって、それがとっても胸に響いたの。母はよく小さい私を座らせて「お父さんはこういうことを言っていたのよ」と教えてくれた。その中に「Bombo claat」のメッセージがあったのね。

EC:小さい頃に離れ離れになっているから、そうやってリリックから教わっていたんだね。

N:そう、たくさん教えてもらってる。「Stand Firm」で“Live clean”と歌っているけど、これは私の生き方のモデルとなった曲と言えるわ。正しいことをしろ、“Do the right thing”ってことよね。

●フォトグラファーとしても活動しているとか。

N:ふふふ(笑)。写真を撮るのが大好きなの。ギャランティを頂いて撮ってるからこちらもちゃんとした仕事なんだけど、いろいろなことをやっているから忙しくて最近おろそかになっちゃってる。家族や恋人たちのポートレートが多いの。結婚式の幸せな光景とか、子どもの笑顔とか。

●どうして家族の写真が多いのですか?

N:写真を記録するということは、永遠の思い出を作ることになる。写真を撮ることで、あなたが生きていたことがわかる。その瞬間をパッケージすることはとっても重要だと思うの。私はお父さんと一緒の写真がないし、だからよけいに家族の写真は大切だなって感じてる。結婚式に行くと常に写真を撮っているから、みんなは私のことをパパラッチって呼ぶのよ(笑)。今は、愛娘の写真をたくさん撮ってるの。名前はナイル。いつか一緒に日本に来たいな。

●じゃあ次は映画上映のタイミングかもしれないですね。日本でも上映してくれそうですか?

N:まだなんとも言えないけど、きっとインターナショナルに展開できるはずよ。日本のみんなはルーツに対する理解があってとても感謝してる。映画は是非観てもらいたいし、私ももっともっと頑張って彼の遺産を日本に広められたらいいなと思ってます。

EC:映画以外にこの先、何かやりたいと思ってることはあるの? 今後の展望というか。

N:“PETER TOSH ESTATE”としては、ビジネスだけじゃなくて、コミュニティに彼の功績を返すことも重要だと思っているわ。つまり、人々を助ける社会的な活動ね。学生と取り組むミュージック・プログラムとか、教育にも力を入れていきたい。“PETER TOSH Scholarship”とか、“PETER TOSH Education”とか。教育とヘルプをキーワードに社会貢献をしていきたい。それはきっと父自身もやりたかったことだと思うから。