Text by Takeshi Fujikawa(藤川毅) Photo by Akihisa Okumoto(Kill Office)
2015年10月にRiddimOnlineに掲載された記事です。
スカ・フレイムス30周年ライブが8月22日に渋谷クラブ・クアトロで開催された。これは結成当時からスカ・フレイムスを見続けてきた藤川毅によるノート。
僕が初めてスカ・フレイムスを見たのは86年、吉祥寺のライヴ・ハウス曼荼羅。トマトスとの組み合わせによるものだった。2回目が87年のモッズ・メーデー。僕の記憶では、前年のモッズ・メーデーにも大阪のモッズ・バンドの代打としてスカ・フレイムスは出演していたはずだ。
87年のモッズ・メーデーは伝説だ。ローレル・エイトキンがポテト5と初来日、そしてそのフロント・アクトとしてのスカ・フレイムスの登場だったのだから。ジャマイカのオリジナル・オーセンティック・スカの日本での第一歩と言っても大げさではない。ローレルは、僕らの世代にとってはLP3枚組の赤箱『トロージャン・ストーリー』の1曲目「バーテンダー」でお馴染みの本物のジャマイカン・スカ・アーティスト。オリジナル・ジャマイカン・スカ・アーティストの初来日がモッズのイヴェントだったなんて、ちょっといい話じゃない? 今では故人となってしまったローレル・エイトキンだが、この来日のころ、ジャマイカ人シンガーのフロイド・ロイドとイギリスのバンド、ポテト5、さらにそこにローレル・エイトキンを加えたアルバム『Floyd Lloyd & The Potato 5 Meet Laurel Aitken』がギャズ・メイオールのレーベルの第一弾アルバムとしてリリースされ、ローレル・エイトキンが再評価されつつあるという絶好のタイミングだった。このアルバムからの「サリー・ブラウン」の映像は、当時TBSで放送されていたピーター・バラカンの音楽番組、ポッパーズMTVでもOAされたと記憶している。この87年あたりからスカ、ヴィンテージ・ジャマイカン・スカの再評価の機運は徐々に高まってきていた。
70年代末の2トーン・スカ・ブームで80年代の初頭まではスカの人気はあったけれど、80年代の半ばにはその人気は落ち着いた状態だった。メジャーな日本制作の音楽シーン、レコードの世界を振り返っても70年代末から80年代の初頭ぐらいまでは、多くのミュージシャンやアーティストがスカやレゲエのスパイスを作品作りに活かしたけれども80年代の半ばぐらいにはそういった使われ方も大変少なくなった。何を言いたいかというと、80年代初頭のこの時期は、トレンド、流行としてのジャマイカ音楽の後退期と言えるかもしれない、そんな時期だったということだ。
しかし、そんな時期にミュート・ビートの前身であるルード・フラワー、そしてミュート・ビートが動き始める。ミュート・ビートはご存知のように日本のクラブ・カルチャーの原点ともいうべき原宿ピテカントロプスを拠点にしたバンドだった。ミュートが結成された少し後の84年にスカ・フレイムスは結成された。実質的な活動のスタートは85年からだったというが、首謀者はオリジナル・メンバーのニッカこと西川和正。彼が渡辺浩司を誘い、渡辺は専門学校の同級生だった長井政一らを、さらにプレイヤー誌のメンバー募集欄に「当方、ブルース、ジェイムス・ブラウン好きのギタリスト」という一文を見つけた西川が、ベーシストとして宮崎研二を誘った。その後のリハーサルにギタリストとして宮永桂が参加。リハーサルを重ねるうちにお互いの楽器に違和感を感じていた宮崎と宮永が楽器を持ち替えてスカ・フレイムスの原型ができた。85年2月の吉祥寺曼荼羅が初ライヴ。その翌月に紫垣、伊勢が加入する。
このようにスタートを切ったスカ・フレイムスの面白いところは、ライヴ・ハウスではなく、クラブを中心に活動することが多かった点だ。時は日本のクラブ・カルチャーの黎明期とも重なる。当時のロックを中心とするライヴ・ハウスでは、彼らのような音楽を受け入れる環境にはなかったわけだが、クラブは、新たな音楽の視野角を提供し、幅広いジャンルの音楽を取り込み、マニアックなレコードを掘る作業やアートやファッションとも結びつき、クラブの音楽、カルチャーは躍動し始めていた。そんな中、オーセンティック・スカ・シーンにおける牽引者は紛れもなくスカ・フレイムスだった。スカ・フレイムスが産声をあげたのが80年代半ばだったというのが、僕にとってはとても重要だったように思える。80年代末から90年代に突入すると、日本では本格的なクラブ・カルチャーが始まり、ジャンルの細分化が起こり、ジャンルごとの専門クラブができるようになる。しかし、80年代の半ばまでは、ジャンル分けは実に曖昧であったし、どこのクラブも曜日や場合によっては時間ごとにかかるジャンルが変わるところもあるなど、ジャンルをまたいで音楽を楽しむという感じだった。また、クラブの数がそれほど多くなかったので、数少ないクラブには幅広い世代の人たちが集まっていたのもこの頃のクラブを豊かにしていたように思う。
スカ・フレイムスがクラブ・シーンを巻き込みながら日本のオーセンティック・スカ・シーンを切り拓いていくにはその先駆者となる人たちの存在も避けて通れない。先にあげたミュート・ビートもそうだし、渋谷道玄坂の酒場、ブラック・ホークにて、後に『レゲエ・マガジン』となる『レゲエ82』や『サウンド・システム』を発行していた加藤学や山名昇、藤川理一が中心となっていたレゲエの鑑賞会など、ジャマイカ音楽を深く理解しようという動きが日本でも起きていたことは無視することはできない。30周年ライヴのMCで宮崎は、松竹谷清のことを「かつてブラック・ホークなどでお世話になった先輩」という表現をしていたが、松竹谷清は、スカ・フレイムスの初期の対バンだったトマトスというジャンルを縦横に乗り越える素敵なバンドのリーダーであっただけでなく、日本における本格的なジャマイカ音楽の受容における初期の現場にいた人でもあった。もちろん30周年ライヴに登場した日本の草分け的なレゲエDJにしてサウンド・システム・マンであるランキン・タクシーもその中にいた一人だったし、実はこの日のライヴに出演した鮎川誠もブラック・ホークの常連だった。さらに付け加えるならば、この日のゲスト・アクトにエゴ・ラッピンの名前があったことも僕をニヤリとさせるものだった。エゴ・ラッピンこそ、バンドでありながらクラブに寄り添いジャンルレス、ボーダレスに活動し、ジャンルレスだった頃のクラブの香りを今に伝えるグループだから。30周年ライヴの全体のトーンは、スカ・フレイムスがスタートを切った時代のクラブの雰囲気が充満していたと言っても良いと思う。
話を戻そう。87年のモッズ・メーデー以降、スカ・フレイムスのことが少しずつ音楽ファンの間でも話題になった。同年にはイギリスからやってきたジャズ・ディフェクターズの来日公演のフロント・アクトをつとめたし、活字媒体でも山名昇によりレゲエ・マガジンに、荏開津広によりドール誌にスカ・フレイムスの記事が掲載された。これらの記事の出た88年は、スカ・フレイムスの破竹の快進撃の年と言っていいだろう。
この年の最大のトピックは何と言ってもシングル「トーキョー・ショット」の発売だ。伊勢の友人で当時ブルー・トニックに所属し、後に東京スカパラダイスオーケストラに参加することになる冷牟田竜之の助力を得て制作されたこのシングルが、東京のクラブ・シーンに与えた衝撃はすごかった。「トーキョー・ショット」はすぐに売り切れ、多くの人が探し求めたレア盤となったのだった。このシングルが出てからは、大貫憲章のロンドン・ナイト出演時の模様がテレビ番組FMTVの高木完と藤原ヒロシのコーナーで取り上げられ、メンバーも出演し、テレビ電波でも紹介された。その後、スカ・フレイムスは、夏のジャパンスプラッシュに出演、その後、渡英してゴシップスでのギャズ・ロッキンブルーズやノッティングヒル・ゲートのカーニヴァルなどで演奏、更には89年2月にギャズのレーベルからリリースされ、日本では同年10月にはソニーからリリースされることになるファースト・アルバムを録音。帰国後もジャマイカのバンド、ファビュラス5のサポートや、レゲエのダンスホールDJ、ナーキとの「ダンスホールvsスカ」、クラブキングが主催したイヴェント、革命舞踏会への参加、そして秋のトロージャンズ初来日での共演などなど様々な形でジャンルを超えて活動した。この時期のスカ・フレイムスのボーダレスな活動、活躍は、スカ・フレイムス自身を磨いたのはもちろんだが、ヴィンテージ・ジャマイカン・スカの魅力を幅広いファンに伝える重要な役割を果たした。これは、先に書いたように80年代後半というまだクラブ音楽が細分化されてない時代だったからこそ、彼らが蒔いた種はより広がり、より深く根を下ろした。スカ・フレイムスは、さらに東京のみならず、後にデタミネーションズを率いて話題となった高津が所属していた大阪のブル・ザ・ドッグズなども巻き込み、スカの熱は日本中でヒート・アップしていく。そして、スカ・フレイムスの88年の快進撃とともに、ナベちゃんこと渡辺浩司が藤井悟、松岡徹、ニッカ、スカパラの青木たちとやっていたDJイヴェント、クラブ・スカが果たした役割が大きいことも書き添えておく。この頃、長らく入手しにくかったスタジオ・ワンやトップ・デック、トレジャー・アイルなどのヴィンテージ・スカのアルバムやシングルが再発され、日本に入ってくるようになった。これは世界的な現象であったが、日本でのセールスは飛び抜けていたという。そのことは、スカ・ブームにスカ・フレイムス、クラブ・スカという核があった何よりもの証左だ。
これ以降のスカ・フレイムスの活躍を説明する必要はないかもしれない。89年にはスカタライツやプリンス・バスターと汐留PITで共演、その後もバッド・マナーズの来日公演では先日他界したリコ・ロドリゲス、スカ・イクスプロージョンではモッズ・メーデー以来となるローレル・エイトキンをサポートするなど数多くのオリジナル・スカのレジェンドたちと共演してきた。レコーディングも決して多作ではないけれど継続し、ライヴはコンスタントに回数を重ねてきた。メンバーが入れ替わりつつも変わらない印象を与えるのは、スカ・フレイムスの魅力であり強さだが、最初期のライヴと今とではヴォーカル曲の比率が大きく違うなど変化しつつ進化もしている。実は、オーセンティックなオリジナル・ジャマイカン・スカをストイックに追い求めているように見えながらも、紫垣のギターなどは独特なものだし、このグループには単なるモノマネではないオリジナリティもある。
30周年ライヴのこの日、ライヴ前には元メンバーのナベちゃんやギャズ・メイオールによるDJが会場を暖め、ライヴ前半はスカ・フレイムスのみでの演奏、後半はゲストが入れ替わりながらのステージ。ゲストは、自身とスカ・フレイムスの持ち味を生かしながらの実に楽しいものだった。Ego-Wrappin’はスカ・フレイムスへのリスペクトを感じさせるものだったし、ランキン・タクシーはスカ・フレイムスの演奏するヴィンテージ・リズムでいつものランキン節。松竹谷清は、バンマス状態でロック・ステディ。鮎川誠はロックンロールで会場を盛り上げたばかりか、「トーキョー・ショット」にも参加し、会場はモッシュの渦に。最後は全員参加で「バーテンダー」…っと、ライヴ自体、とても楽しかったのだけれど、僕が一番印象に残ったのは、会場の雰囲気の良さだ。僕のような昔を懐かしむファンの顔も見られたけれど、スカ・フレイムスがこの30年で育ててきた若い世代もたくさんいて、実に楽しそうでなんとも多幸感に溢れていた。お洒落さんも多かったし、女性比率がわりと高いのも昔ながら。スカという音楽を愛していながらも、それを取り巻くファッションやカルチャーまでをも愛する人たちが、自分たちの大好きなグループの30周年をお祝いしようという実にハッピーな場だった。大所帯のバンドなので継続することすらもなかなか大変だと思うのだけれど、やはり40周年で彼らの勇姿をまた見たいという強い気持ちを持った。
今回の30周年ライヴは、チケットも早々に売り切れてしまったので、行けなかったファンも多かっただろうけれど、30周年の年はまだ続くので、是非とも今のスカ・フレイムスを楽しんでほしい。