Text by “CB” Ishii Photo by Bryce Kanights
2015年1月にRiddimOnlineに掲載された記事です。
●簡単なプロフィールをお願いします。
Bryce Kanights (以下、B): 生まれも育ちもサンフランシスコです。当時はイタリア人、日本人、中国人、ロシア人と色々な人種が上手く住んでいるクールな都市だったね。僕はカストロというエリアで育ったんだけど、今みたいなゲイのメッカになる前の話しだ。アイリッシュの肉屋やイタリア人の靴屋など個人経営のお店が沢山並んでいたエリアだったけど、ゲイの人達が土地を買い占める様になってからはファミリービジネスでやっていたお店がだんだんと引っ越していく様になったんだよ。僕の父は趣味で写真を撮っていて家の中にはカメラやフィルムが沢山あった。だから僕も自然にアートやフォトグラフィーに興味を持ち始めた。スケートボード雑誌を見ていて卒業記念にカメラが欲しいと頼んだら、中古のNIKONのカメラを貰えたんだ。その頃はHarvey Milkという男がやっていたカメラ屋でフィルムを買っていたんだけど、彼は後にサンフランシスコのゲイ・ムーブメントのコミュニティリーダーになって市議会議員にまでなったんだ。だけど当時の市長と共に市庁舎で暗殺されてしまうんだけどね。12歳の時にスケートを始めて14歳の時から写真を撮り始めて、それからはどこにスケートへ行くにもカメラを持っていくようになってTommy Guerreroや彼のお兄さんのTony Guerreroなど、友達を撮り始めた。Tonyは僕と同い年だよ。
●今回の来日の目的は?
B:僕のフォトグラフィー歴30周年を記念してFTCでフォトショウをやる為に来ました。僕にとってスケートボードとフォトグラフィーは、僕にこの職を与えてくれたものだから、その写真を色んな人に見てもらいたいんだ。フォトショウのタイトル”Renegades and Roll Models”の意味は、僕にとってのスケートボーダーを現しているんだ。世界中のスケーターたちは、スケーターでなければ誰も見向きもしない建築物のカーブやレッジを常に違う角度から見ていて、ここでスケートが出来そうだなと考えている。Renegades(無法者)っていうのは僕たちの人生の有様であって、意味としては僕らはそこで滑ることに許可を得たりしない。街にいる鳩だって許可なんか得てるわけじゃない。だからスケートするべきであってたとえ怒られようが最後には許してもらう方がいいわけだ。だからRenegadesっていうのは特別じゃなくてナチュラルなことなんだ(笑) 。Roll Model(手本という意、正しくはRoleだがフィルムだからRollを当て字にしている)というのはアマチュアであろうがプロスケーターであろうがネットや雑誌に載ってキッズ達に尊敬されている。だから僕たちはアウトローでありスターであるんだ。実際はこのショウは3年もやっているんだけどFTCのオーナーのKentが日本でショウをしないかと持ちかけてくれたことがきっかけだよ。僕はこれが3回目の来日だけど戻って来れてとても嬉しいよ。渋谷は2回目だ。
それと、日本の文化やお互いを尊敬し合える人種というのはとてもクールだと思う。日本人であることを誇りに思うべきだよ。
●ありがとうございます!
B:それ以外では友人でFelemのオーナーの剛と会うことも目的の一つだよ。ここ2日間は山奥でプライベート・ボールを作っている人の所へ連れて行ってもらって日本の自然に触れられた。
●以前はプロスケーターだったんですよね?どのカンパニーにサポートされていたんですか?
B:そう、86年まではMadrid Skateboardsからアマチュア・スポンサーを受けて、コンテストやデモに連れて行ってもらったりしたんだけど、そのあとはSchmitt Stixに移って、そこで4年間世界中を飛び回ってデモをしてプロとして活動した。リタイアしたのは90年かな?キックフリップ等のストリート・スケーティングが流行りだしてMike Carroll, Jovante Turner, Henry Sanchez等の新しいジェネレーションが出てきた頃に、僕はフォトグラフィーでキャリアを築こうと考えてThrasher Magazineで働き始めたんだ。そこでプロをリタイアしようと思ってたんだけどDogtown Skateboardsがサンフランシスコに一瞬移ってきた時期があって、Thrasherのオーナーの故Fausto Vitelloから「DogtownのJim Muirをヘルプしてあげなよ」と言われて、「君は名前があるから何枚かシグネチャー・デッキをリリースしよう」という事になり1年間に3枚デッキをリリースしたんだ。
●それは何年頃のことですか?
B:91年~92年だよ。
●その時はプロスケーターであり、プロのフォトグラファーでもあったということですね?じゃあツアーやデモに出かけた時はスケートもして写真も撮ったということですよね??僕の先輩でスケート友達のBoardkill編集長の小関さんがあなたはプロスケーターとプロフォトグラファーの2つのキャリアを同時に行っていたパイオニアだと教えてくれました。
B:その通りだよ(笑)。僕はプロになっても写真を撮り続けていたからね。忙しかったよ(笑)
●影響を受けたカメラマンはいますか?
B:Craig Stecyk。彼には常に影響を受けてきた。彼は傑出したフォトグラファーでTony AlvaやJay AdamsなどのDogtownのスケーターを撮っていた。彼らのライフスタイルやスケートのフォト、つまりDogtownのストーリーなどが今でも注目さているのは全てCraig Stecykのレベルの高い写真によるものだと思う。あとは同じくDogtownやPunkやHip Hopを撮ってきたGlen E. Friedmanにも大きな影響を受けた。ローカルではTed Terrebonneというサンフランシスコ・ベイエリアのフォトグラファーでSkateboarder Magazineの写真を撮っていた人かな。当時僕らは若過ぎて運転出来なかったから、そのTedがパークやスポットに連れて行ってくれてたから、かわりにTedが撮影している時にフラッシュ・ライトを手で持ちながら写真を学んだんだ。だからTedからも影響を受けてるね。
●それではThrasherにはどのような経緯で働くことになったのですか?
B:僕がまだ学生でフォトグラフィーを勉強していた83年、当時サンフランシスコにあったRainbow SkatesっていうショップにいたらThrasherの発行人だったKevin Thatcherが偶然やって来て、何枚か写真を見せたら気に入ってくれたんだ。まだその時、Thrasherは発行してから2年しか経っていなかった。「この写真をThrasherに載せてもいいか?って聞かれて、「もちろんです!」って答えたよ(笑)。写真が掲載されて何ヵ月かしたら、「Thrasherで働きながら勉強しないか?」 って言われて暗室を使って写真を焼いたり、さらにはページのレイアウトのデザインもやったりして、なんて言うか、、彼らと成長したって感じだね。出版業と写真業を学んだだけじゃなくて、シルクスクリーンでTシャツを刷ったり、床をモップ掛けしたり、、つまり全部だってことだ。だからThrasherを育てるのを手伝ったんだ。83年~96年まで13年間働いて、その時はフルタイムで働きながらプロスケーターでもあったんだ(笑)。91年から96年まではフォト・エディターとして働き、僕の後にLuke Ogdenがフォトエディターになるんだ。
●ではBryceの弟子のような人はいますか?その人が後に有名になったとかありますか?
B:うん、一緒にいたわけではないから弟子という感じではないんだけどJody Morrisというカナダのトロントに住んでいるフォトグラファーの面倒はよく見たよ。彼はよく僕にフィルムを送ってきたから、それを僕が処理したコンタクトシートを見ながら電話をしたんだ。どの写真が良かったか?この写真はここにフラッシュがもっと必要だとかを伝えてね。まだEメールもない時代だったからね。それでまた数ヵ月後にフィルムが送られてくると上達してるんだ。
●Jodyはスケートのフォトグラファーですか?
B:スケートもスノーも撮っているね。あとはTony Hawkの写真を多く撮っているよ。ThrasherとTransworldのフォトグラファーとしても働いていたし。あとはTobin YellandとかLuke Ogdenも少し教えたりしたかな。Lukeはルームメートだった時期もあったし。何人かには教えたね。僕はみんなをアーティストとして育て上げたいと思っていたし。
●スケートメディア・サイトのSkate Dailyはなぜスタートさせたのですか?
B:僕がスタートさせた時はまだブログというものが浸透していなかったから、スケートのニュースをウェブで見つけるのは難しかった。たぶんCrailtapぐらいしかなかったかな。Crailtapだけが頻繁に更新されるニュースのようなブログをやっていた。だから僕は2004年の2月にスタートしたんだよね。でも最近は僕もやる事が沢山ありすぎてSkate Dailyに費やす時間がなくてとても難しいんだ。だから去年はちょっと更新がおろそかになった時期もあったけど今年はまた頑張って継続しているよ。雑誌だったら月に一回しかスケート・ニュースを読むことが出来なかったけどインターネットならタイムリーに情報を得られたわけだからね。そういう意味では僕のサイトは早かったしアクセスも多いね。
●それではずっと住んでいたサンフランシスコから、なぜポートランドに移り住んだのですか?
B:それはAdidas Skateboardingでブランド・マネージャーとチーム・マネージャーの兼任で働き始めたからだよ。僕もワイフも何度か訪れたことのあるポートランドが好きだったし、サンフランシスコはもの凄く早いスピードで変化していて、家賃も高くなり近所のエリアも瞬く間に変わっていくからポートランドに引っ越そうとワイフと決めたんだ。Adidas Skateboardingはポートランドにあるし、引っ越す為の経費も出してくれたんだ。そこから3年半はAdidas Skateboardingで働いたよ。
●今はポートランドが話題です。今何が起きているんですか?なぜみんなポートランドに引っ越すんですか?
B:分からない、僕が教えて欲しいくらいだね。もうみんな移り住んで来なくていいよって言いたいぐらい(笑)。今はポートランドに人気があるね。四季もあるし雨も雪も降るきっと良い街なんだよ。山も近いし海も遠くないから食べ物もおいしいしね。正直言ってポートランドにあるNikeやAdidas、またはColombiaのような会社と仕事をしていない限りそんなに仕事があるとは思えないんだけどね。僕が思うにポートランドという街は既にあるモノを、もう一度クリエイトしてビジネスにしていける人には適した場所なんだと思う。ポートランドは料理にしても音楽にしても色々な事が起きて、とてもクリエイティブだと思う。それに、住むのにあまりお金が掛からないしね。
●Lifeblood Skateboardsを始めたきっかけは?
B:若くて才能のあるスケーターのグループがいて、彼らにはサポートと将来スケートボードでキャリアを積んでいく為の道しるべが必要だった。4〜5人のとんでもなく上手いスケーターがいるのは知っていたけど、全然有名ではなかった。だからBacon Skateboardsをやっている友達のColinに相談をしてBaconのライダーを数人引き抜いてLifeblood Skateboardsをチームとしてスタートさせたよ。順調に進んで今は4年になる。新しい映像もThrasher Magazineのサイト(http://www.thrashermagazine.com)で10月30日に公開されるよ。Lifebloodはどこでもなんでも滑るという感じかな。だからバート・スケーターだとかストリート・スケーターだとかそういうくくりではなくて”Skating Everything”が僕たちの信念だよ。
●それではBacon Skateboardと比べるとLifebloodは若手中心という考えですか?
B:う~ん、もっとレベルが高くてオールラウンドのスケートっていう感じかな。ストリートもプールも何でも滑るからね。
●Unheard Skateboard Distribution(Bacon Skateboards,Lifebloodなどの親会社)の社長のColinは僕のスケートショップ(Heshdawgz)に来た事があるんですよ。
B:うん、彼は日本に住んでいた時期もあったからね。たしか彼のお父さんが軍隊にいて大阪に住んでいたんじゃないかな?だから日本語も堪能だし。たぶん来月また日本に来るんじゃないかな?彼は映像関連のソフトウェアを販売しているToolfarmという会社を兄弟でやっていて、その仕事で来るよ。ColinがLifebloodのパートナーだよ。
●たぶん今までに何度となく質問されているかと思いますが、Bryceが撮ったGonz(マーク・ゴンザレス)が囚人服を着てサンフランシスコのアルカトラズ島(昔は連邦刑務所だった)でスケートをしている有名な写真がありますが、あれはどういう経緯だったんでしょうか?
B:うん、このストーリーは何百回と話してるよ(笑)。あれは1988年の4月に友人のJohnがThrasher Magazineのアートディレクターとして働く事になったばかりの時で、さらにIndependent Trucksでの初めてのチームマネージャになるんだけど、彼はThrasherで働く前は国立公園のアルカトラズ島でガイドみたいな仕事をしていたんだ。それで彼がこういうウォールになったトランジションがアルカトラズ島の庭にあるのを知ってたんだよね。そこがスケートも出来そうな路面だからボスに許可をもらって入って撮影出来ないか聞いてみるよって言い出したんだ。それでボスが撮影許可をくれたんだ。だけどボスは、ライフスタイルとかファッションの撮影をするだけだと思っていたんだ。だから僕たちは朝一番にPier 39から出ている始発のボートに国立公園の隊員達と乗って、Johnのボスの計らいで囚人服を貸してもらって、僕、Mark Gonzales, Tommy Guerrero, Kevin ThatcherとJohnで乗り込んで、最初は刑務所の中や独房の中で写真を撮ったりしてたんだ。そして庭に到着した時にラジオ局からちょうどJohnのボスに電話が入ってきて、島の反対側に行かなきゃダメだって一瞬抜けたんだよね。それで帰ってきたら僕らはスケートをしていたってわけだよ。「これは国家のランドマークだぞ! スケートで傷つけてるじゃないか!」ってもの凄い剣幕で怒鳴られて即刻追い出されたんだ。僕は1ロール分の白黒フィルムとカラーフィルム分を撮ってたんだけど、それだけしか残せなかったよ。だから時間的にはとても短かった。アルカトラズ島での滞在時間が3時間ぐらいだった気がするからね。あれはもう2度と有り得ないことだよ(笑)。
●今は何を進めていますか?
B:先程も言ったけどちょうどLifebloodのビデオの編集が終わってThrahserで公開されるのでLifebloodの2015年のデッキ・グラフィックを進めているのと、フォトグラファーとしてクライアントをもっと増やしたいから僕のウェブサイト(http://www.brycekanights.com)の更新、Skate Daily(http://skatedaily.net)も更新しなくてはいけないし、色々とやる事が残っているからあと残り2日間の日本滞在をゆっくり過ごして良い息抜きにするつもりだよ。写真展ももっとやりたいし、みんなに写真集は出さないのか?って言われるから出来たらいいなと思っています。気の合う出版社が見つかると良いんだけど。
●今までであなたが撮った一番印象に残っている写真と好きな写真を教えて下さい。
B:一番の印象ならやっぱりGonzのアルカトラズの写真かな。誰でも知っている写真だからね。僕の写真の中でも一番売れている一枚だし、聞かれたり、話題に上ったり、それにどうやってあそこで撮ったんだ? どうして本物の囚人服を着てるんだ? っていうミステリアスな部分があの1枚にはあるからね。好きな写真だったら、、たぶんJohn Cardielの全ての写真だね。当時のCardielはスケートすればいつでも超人的に上手かった。エナジーに溢れていた。スタイルもクリエイティビティもあって”ブーーン!!!”ってやっちゃうんだ。Cardielをスケートボードに乗せたら世界で一番ヤバいスケーターの一人だよ。Cardielを撮った写真はどれも毎回ずっと雑誌に掲載されてきた。ほんとうに凄いスケーターだ。90年代には数えきれないぐらいCardielの写真を撮ったし一番最後にCardielと旅行に行ったのは2003年にジャマイカに一緒に行った時だね。僕とMatt Rodriguez, Chris Senn, Joey Tershay, Nilton Neves, John Cardielとでヘルシャビーチに地元の子供達の為にミニランプを作ったんだ。そのあとビーチにサウンドシステムを出してアフターパーティーもやって地元の人達が300人くらい集まって素晴らしい体験だった。
●そのアイデアはどこから生まれたんですか?
B:Joeyだよ。Joeyはジャマイカに何度か行っていたからジャマイカのキッズは何も持っていないとても貧乏な暮らしだってことを知っていたんだ。だから何とかしたくてI-pathからお金をサポートしてもらってミニランプの木材を買って僕たちが作った。だけどランプは一年持ったかどうかだね。その後は雨が凄かったって聞いたからね。ビーチに作ったからなおさら劣化は激しいだろうし、次はコンクリートで作らないとね(笑)