CULTURE

ベスト盤を出すヒマなどなかった。MUTE BEATとあの時代。(by 川勝正幸)

Text by 川勝正幸 – Msayuki Kawakatsu

2011年6月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

日本初のインストゥルメンタル・ダブ・バンド! MUTE BEAT(1982〜89年)が、解散後22年目にして初のベスト盤『The Best of MUTE BEAT』 をリリースする。

選曲は、小玉(現・こだま)和文(トランペット)、増井朗人(トロンボーン)、松永孝義(ベース)、Dub Master X a.k.a. 宮崎泉(ダブ・ミックス)、屋敷豪太(ドラムス)、今井秀行(ドラムス)、朝本浩文(キーボード)、エマーソン北村(キーボード)、内藤幸也(ギター)による、そう、つまり、なんとMUTE BEATの7年間の活動に参加したほぼ全メンバー9人。しかも、厳正なる投票をまとめた結果の10曲。それに、OVERHEATの石井“EC”志津男がセレクトした「Something Special(with Gladdy)」というレア音源(日本のレーベルが初めてジャマイカでリリースしたGladstone “Gladdy”Anderson/MUTE BEAT名義の7インチ)を加えた全11曲だという。

ところで、“ほぼ”と書いたのは、まず、MUTE BEATの母体となったルード・フラワー時代からのべースで、MUTE BEATというバンド名の命名者である松元隆乃が選曲には参加していないこと。それから、日本初のクラブ“ピテカン”こと原宿<ピテカントロプス・エレクトス>(82〜84年)で演奏していた頃の、初期のMUTE BEATには、東京ブラボーの坂本みつわもキーボードを弾いていたことがあったからだ。

しかし、それにつけても、MUTE BEATについて書こうとすると、やたら“初”という文字を使ってしまう。野暮を承知で触れるならば、バンドのメンバーにダブミキサーがいる! というのは、おそらく世界初ではあるまいか。

筆者は、“ピテカン”で初期のMUTE BEATを観て、カセット・マガジン『TRA』からリリースされた、葉巻の箱を模したパッケージに入っていたカセット・テープ『MUTE BEAT』(85年)も聴いていたけれど、自分の耳のほうがまだ進化していなかった。MUTE BEATの真価が分かった! とリアルに思ったのは、“東京ソイ・ソース”(86〜88年)というムーヴメントに、初期はスタッフの一人として、その後は一人のオーディエンスとして立ち会ってからである。

MUTE BEATのダブをナマで観たおかげで、自分は、音楽が知覚の扉を開け、音のつぶてがメタファーではなく身体に当たること体感することができたのだ。

 “東京ソイ・ソース”の第1回は、86年9月、渋谷<ライブイン>で。第2回は、同年12月、<インクスティック芝浦ファクトリー>で。以後、“芝浦インク”をホームに開催していく。

毎回、S-Ken & Hot Bomboms、Jagatara、Tomatos、MUTE BEATの4バンドが演奏する。大所帯率が高いこともあり、セット・チェンジに時間がかかるので、バンドとバンドの間には、タイニー・パンクス(高木完+藤原ヒロシ)、いとうせいこう、ランキータクシーら、DJ/MC/レゲエDJが登場した。

“東京ソイ・ソース”の言いだしっぺは、S-Ken(現・音楽プロデューサー)である。彼はS-Kenという名のパンク・バンドを結成し、フリクション、リザード、ミスター・カイト、ミラーズと共闘して“東京ロッカーズ”(78〜79年)と名乗り、日本のパンク・ムーヴメントを牽引する。ところが、84年、S-Ken & Hot Bombomsを結成。その音楽性はサルサ、レゲエ、カリプソ、メレンゲ、サンバ、ニューオリンズ、R&B、ブガルー……世界中の街場のビートを、新旧問わず、今の東京人として消化しよう! という冒険であった。そこに、“異人都市Tokyo”で生活するハードボイルドな男目線の言葉が乗った。しかも、サイバーパンクへの日本からの回答といった側面もあった。

振り返えれば、86年、江戸アケミ(ヴォーカル)は音楽活動を再開し、バンド名を“じゃがたら”からJagataraへ改名。OTO(ギター)をはじめとするメンバーはアフロ/ファンクを基調とする、“日本人て暗いね 性格が暗いね”なんて言わせない鉄壁なサウンドを構築し、そこに江戸アケミの挑発とユーモアが共存する歌が乗った。MCも緊張と緩和の連続だった。

 83年、松竹谷清が結成したTomatosも、カリプソ、ロック・ステディ、レゲエ……とカリブ海のビートを咀嚼した音楽に、松竹谷清のシャイとロマンチックが共存するヴォーカルが乗った。

しかも、当時、Tomatosには、JagataraのEbby(ギター)とナベ(ベース)が参加していた。S-Ken & Hot Bombomsのヤヒロトモヒロ(パーカッション)は、Jagataraのメンバーでもあった。

 話を89年へ飛ばせば、MUTE BEATの松永孝義がTomatosに加入し、Jagataraのエマーソン北村がMUTE BEATに加入する。

確か、“東京ソイ・ソース”の2年目だったと思うが、MUTE BEATが「Organ’S Melody」を演奏していると、サプライズで江戸アケミが登場し、フリースタイルでトゥースティングした。至福のコラボレーションであった。そう。“東京ソイ・ソース”は、有機的な場であったのだ。

極めて個性的な4つのバンドでありながら、全バンドともビートに対する態度には相通ずるものがあったと思う。雑食性でありながら、東京で暮らすミュージシャンならではのオリジナリティを出そうとする意志が強かった。しょうゆ育ちを隠さず、でも、ソイ・ソースが世界のレストランの一部のテーブルに並んだ如く、世界の音楽の動きに揺さぶりをかけたいという思いもあったはずだ。

刺激的な新譜だけではなく、アナログからCD化への流れの中で、幻の名盤がリイシューされることも増え、インプットもアウトプットも、次へ次へ次へ。S-Ken & Hot Bomboms、Jagatara、Tomatos、MUTE BEATーー彼らは、あの頃、過去を振り返って、ベスト盤で自分たちの活動を俯瞰するヒマなどなかった時代を生きていたと思う。

『The Best of MUTE BEAT』は、タイポグラフィ一発ジャケの『Still Echo』(87年)から2曲、花畑写真一発ジャケの『Flower』(87)から3曲、スリーマイル島原発事故写真一発ジャケの『Lover’s Rock』(88)から2曲、宇宙から見た青い地球写真一発ジャケの『March』(89)から3曲と、バランスよく構成されている。

ちなみに、オリジナル・アルバムのアート・ディレクターは『TRA』 の創立メンバーでもあったミック板谷である。彼の、他の多くの繊細な作品と違って、MUTE BEATのジャケットに関してだけは、小玉(現・こだま)が先にコンセプトを提示したり、他のメンバーもガンコ者が多かったこともあって、常に骨太なデザインだった。

脱線を許してもらえば、MUTE BEATの音源をリー・ペリー、キング・タビー、Dub Master Xがダブ・ミックスしたアルバム『MUTE BEAT DUB WISE』(89)のジャケットは、ナンシー関による、3人の似顔絵の消しゴム版画が押されただけ! というシンプルなれど、力強いものである。

先日、震災で棚から飛び出したレコードやCDの片付けを、若い友人二人に手伝ってもらっていたら、「川勝さん、意外にレゲエやダブがたくさんありますね」と驚かれた。ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの来日公演に間に合ったロック世代であり、UKのニューウェイヴとダブ・ミックスの親和性が高かった時代をリアルタイムで体験した世代ということもあるが、もちろん、MUTE BEATの影響大なことは言うまでもない。

『The Best of MUTE BEAT』の白盤が届くのはもう少し先になるということなので、曲目リストの順番に、散らばったCDの山から捕獲したオリジナル・アルバムから聴いていく。

 MUTE BEATには歌詞がないから、聴き手はアルバムや曲のタイトル、そして、ジャケットのデザインを補助線にして、彼らのメッセージを、あるいは、言葉にならない感情を、圧倒的な音の波動に身を委ねながら、そして、時として出現する“間(ま)”にビックリしながら、感じ取ろうとする。

あの時代、自分はMUTE BEATの音楽と完全にシンクロしていたという自負があったのだけれど、本当にそうだったのだろうか? 今回、新しい発見があり過ぎて、僕はMUTE BEATのどこを聴いていたのだろうか? と、ファンとしてはうれしいような、恥ずかしいような気持ちになっている。

結局、アルバムを丸々聴いてしまう結果になったのだけれど、初期12インチ・シングル三部作をまとめた『Still Echo』を聴くと、87年といえば、すでにRUN-D.M.C.やビースティ・ボーイズがスターになっていたにも関わらず、間奏でヒップホップのオールドスクールへの目配せがある楽曲もあったことに、改めて気づく。

中でも、「Kiyev No Sora」(『Lover’s Rock』)は、自分の体内に様々な感情の渦を巻き起こした。チェルノブイリ原発事故の2年後に、この楽曲を作り、“キエフの空”というタイトルを付けるところに、MUTE BEATのガンコな美学とタフな想像力がある。

村上春樹のカタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文をmainichi.jpで読んだ夜に
川勝正幸