MUSIC

Greensleves 40th

 
   

Text by Takeshi Fujikawa(藤川毅)

2017年4月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

 2017年は、イギリスのレゲエ・レーベル、グリーンスリーヴズが創立40周年。僕がこのレーベルに親しむようになった80年代初頭、レゲエを数多く手がけていたアイランドの音源を配給していた東芝EMIがレゲエをリリースしていたし、英トロージャンやレゲエも少し取り扱っていた英ラフ・トレードの作品も国内で配給されていたので、国内盤でレゲエのリリースも少ないながらあった。けれど、その量は十分ではなかったから、もっとレゲエを知ろうとすると必然的に輸入盤に手を出すようになる。当時はレゲエの専門店といえるような店はごく僅かだったし、その質量は今と比較にならなかった。ロックやソウルを取り扱う輸入盤店でのレゲエは、片隅にわずかばかりのコーナーがあるだけで、そこにあるレコードも英盤と米盤が主流だった。そんな時にレゲエを聴く際に避けて通れなかったレーベルがいくつかある。米VP、米シャナキー、米ハートビート、米RAS、英ジェット・スター、そして本稿の主人公、英グリーンスリーヴズといった英米のレゲエ・インディペンデント・レーベルだ。当時の輸入盤店のレゲエ・コーナーには、アルバム、シングル共にジャマイカ盤の姿などほとんどなく、英米プレスのものばかりだった。そんな情報の少ない時代から、グリーンスリーヴズは、レゲエとはどんな音楽かを教えてくれる大切な存在だ。

 アイリッシュ系英国人会計士のクリス・セジウィックがレーベルの前身となるレコード店をロンドンのウェストイーリングに出店したのは1975年。セジウィックが店の実務を任せたのが英国人のクリス・クラックネル。その店は1年半ほどしてシェファーズブッシュに移転する。当初は幅広い音楽ジャンルを取り扱う店だったというが、すぐにレゲエに特化。当時のイギリスは、パンク(・ロック)の誕生に代表されるような既存の価値を打破しようとする若者文化が台頭した時期だった。レゲエとパンクの親和性は、これまでもいろんな記事で述べられてきたけれど、60年代以降、スカやスキンヘッド・レゲエを通じてジャマイカの音楽に親しんできたジャマイカ音楽のイギリスにおける存在感は決して小さくなかった。その存在感をボブ・マーリーの成功やパンクスたちのレゲエへのシンパシーが大きなものにしていったそんな時期だった。

 レコード店がなぜレーベルを始めたのか? それは、ジャマイカのレゲエ・ディストリビューターやレーベルのいい加減な仕事ぶりに理由があった。グリーンスリーヴズのレコード店では、ジャマイカから輸入したレコードがよく売れたという。店としては、ジャマイカからもっとレコードを輸入して売りたいのだけれど、ジャマイカにバック・オーダーしてもほとんど再入荷しない。そんな状況に業を煮やした2人のクリスは、ジャマイカの音源のライセンスを受けて、自分たちでリリースしようと思い立った。

 最初のリリースは、77年、レゲエ・レギュラー「ウェア・イズ・ジャー」とドクター・アリマンタード「ボーン・フォー・ア・パーパス」の2枚の7インチ。セックス・ピストルズのジョン・ライドンは、最新の自伝『ジョン・ライドン新自伝 怒りはエナジー』(シンコー・ミュージック/2016年)で「ボーン・フォー・ア・パーパス」について以下のように述べている。

 ドクター・アリマンタードの「ボーン・フォー・ア・パーパス」みたいな曲は、俺にとってはある意味、人生を変えてくれたと言っても過言じゃない。あの歌詞は天才的だと思ったし、自分なんて生きてる理由なんてないって思ってる人間にとっては、とりわけ素晴らしく響く歌だよ。
中略
 俺があの曲を耳にしたのは、いわば最悪にどん底に落ち込んでいる時だったんだが、まるで森羅万象の一番高いところから、自分自身を肯定されたような気持ちになれたんだ(前掲翻訳書217ページ)

 「ボーン・フォー・ア・パーパス」は5万枚以上売れたと言う。

 レゲエ・レギュラーは76年に結成されたイギリスのバンド。最初はラヴァーズ・ロックの15-16-17などを手がけていたカストロ・ブラウンがマネージメントしていたが、マネージメントが代わってロイド・TCB・パターンのプロデュースで制作されたのが「ウェア・イズ・ジャー」。この曲はこの年の大ヒットとなり、グリーンスリーヴズの知名度を上げるのに大きく貢献した。

 グリーンスリーヴズはジャマイカのプロデューサーたちからライセンスを得た曲をリリースすることを中心としながらも、レゲエ・レギュラーやキャピタル・レターズなどのイギリス制作のレゲエもリリース。アルバムは78年のドクター・アリマンタード『ベスト・ドレスド・チキン・イン・タウン』を皮切りに79年までに9枚のアルバムを、その後もコンスタントにリリースを重ねる。当初はチャンネル・ワンからのライセンス作品が目立ったが、カタログの9番、バーリントン・リーヴィ『イングリッシュマン』をヘンリー・ジョンジョ・ロウズからライセンスを受けて発売して以降、ジョンジョとの蜜月がスタート。新しいダンスホールの時代を切り拓き、作品を量産していたジョンジョ作品の提供を受け、グリーンスリーヴズは快進撃を続ける。

 グリーンスリーヴズは、ジョンジョ以外に、リンヴァル・トンプソン、プリンス・ジャミー、ジョージ・パン、ガッシー・クラーク、オーガスタス・パブロといったジャマイカの一級のプロデューサーのアルバムと12インチ・シングルをリリース。80年代後半にはガッシー・クラークが手掛けたグレゴリー・アイザックス「ルーマーズ」〜JCロッジ「テレフォン・ラヴ」のリズム、通称「テレフォン・トラック」のモンスター・ヒットを配給し、メジャー契約前のシャギー「オー・キャロライナ」に火をつけたのもグリーンスリーヴズだった。また、80年代にはUKバブラーズというレーベルを興し、自社制作のUKモノで成功したことも付け加えておきたい。

 グリーンスリーヴズはコンスタントにリリースを重ね、ショーン・ポール「ゲット・ビジー」〜ウェイン・ワンダー「ノー・レッティング・ゴー」らに代表される2000年代最大のリディム・ヒット、「ディワリ」(レンキー制作)の配給にも関わった。このリズムの楽曲のみで構成されたグリーンスリーヴズ・リズム・アルバム・シリーズの27集は大ヒット。これに先立ち、98年からはジャマイカの最新ダンスホールを7インチ・シングルでリリースし、ジャマイカ音楽のフロントラインを広く世界に伝えるのに大きく貢献した。

 2006年に投資会社の買収提案を受けてグリーンスリーヴズは会社を売却。2008年には米VPが傘下に収めた。グリーンスリーヴズは今もなお、既発売作品にボーナス・トラックを追加したデラックス版や、精力的なアナログ盤での復刻、またアルボロジーの新作など積極的にリリースを重ねている。

 さて、グリーンスリーヴズの顔とも言うべき、評価の高いアルバム・カヴァーについても触れなければならない。そのカヴァー・アートを長年手掛けてきたのはトニー・マクダーモット。彼はカタログ3番のジャー・トーマス『ストップ・ユ・ローフィン』で初登場。アメリカン・コミックにも通じる80年のサイエンティストの一連のダブ・シリーズなど、グリーンスリーヴズのイメージを決定づけるイラストで多大な貢献を果たした。また、イラストだけでなく、写真使いのジャケットや、2000年代にヒットしたリズム・シリーズのアートワークも彼が手がけており、最近の作品に至るまでグリーンスリーヴズの作品は彼がすべてイメージ・コントロールしてきたと言っていい。ちなみにカタログ2番のランキン・ジョーで印象的なイラストを手がけているのはポール・スマイクルで、アズワッド『ア・ニュー・チャプター・オブ・ダブ』やグリーンスリーヴズの初期にレヴォリューショナリーズ『ゴールドマイン・ダブ』など幾つかのイラストを手がけている人物だ。

 アートワークだけでなく、ジャマイカ盤ではきちんとクレジットされないことも多かったミュージシャン、エンジニア、スタジオなどをきちんと表記したことや、ケヴィン・メットカーフによるマスタリングなど高いクオリティを保ってきたグリーンスリーヴズの丁寧な仕事は高く評価されるべきだ。

 新陳代謝、変化の激しいレゲエという音楽を長年に渡って取り扱い、継続してきたことは、その変化に対応してきたという証左だ。グリーンスリーヴズの歩みは、ジャマイカのレゲエの歩みと合わせ鏡であるとともに、ジャマイカのレゲエに影響を受けながらもイギリスで独自に進化したイギリス産のレゲエの歩みにも通じている。この40年は、彼らが歩いてきた道こそがレゲエだと言えるほど濃密なもの。そして、レゲエ、ジャマイカの音楽に真摯に向き合い、その伝統の重みを知るグリーンスリーヴズだからこそ、レゲエの未来を切り拓く可能性を秘めていると信じる。何はともあれ、40周年の今年、グリーンスリーヴズの遺産に再び注目が集まるとともに今後のさらなる活動にも期待している。

 蛇足。グリーンスリーヴズという名前の由来は、グリーンスリーヴズ=緑の葉ってことで、マリワナのことというのが定説のようですが、僕は異説を唱えておく。「グリーンスリーヴズ」というイングランド民謡がある。この曲はロマネスカ、広くはバッソ・オスティナートとも言われる音楽形式で、低声部に4または8小節の楽句を繰返し、その上に旋律をくわえるスタイル。この形式、ベースラインを繰返すリズムとその上に乗るメロディと考えるとレゲエの形式と似ていませんか? イギリスの古い民謡とレゲエの形式の共通性を見出して名付けた名前がグリーンスリーヴズだったと想像すると、僕はニヤリとします。