MUSIC

Carlton and the Shoes

 
   

Text & Photo by Shizuo Ishii

2015年2月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

Carlton & The Shoesの来日が決定している。もはや四半世紀に及ぶ旧知の間柄である彼の家は、マイケル・マンリー空港からKingston市内に向かう途中のマウンテンヴューにある。だから前を通る度に何となく声をかけるのがいつもの俺の流儀。今回はGladdy (Anderson)の病気見舞いに突然やって来たのだが、やはりちょっとだけ立ち寄り来日の決意(?)を聞いてみた。

かなり使い込んであるレンタカーのクラクションを二度ならしてから、ドアに向かってデカい声で「カールト〜ン!!!」と呼んでみる。いつも通りゆっくりと「オー、イシイ」と出てきた。どうやら上半身は裸だったらしくシャツに腕を通しながらの登場だ。とても元気そうじゃないか。

Carlton & The Shoesはレゲエ、SKA、ロック・ステディ好きだけではなく、レア・グルーブ・ファンまでを虜にして、デヴューから40年が経った現在でもその人気は高い。今でもクラブでは「Love me Forever」や「Give Me Little Moreがプレイされているのはご存知の通り。
少しばかり手前味噌なのだが、彼への大きな再評価は92年の『This Heart of Mine』のOVERHEATレコードからのCD再発あたりだっただろうか。その後本家QUALITYからアナログの再発が続き、95年にはやはりOVERHEATから3rd.アルバム『Sweet Feeling』、そして7年後の2002年には4th.アルバム『Music For Lover』を出した。だからCarltonとの付き合いはもう四半世紀になってしまった。

●軽くインタヴューするよ。今さらなんだけど、日本には新しいファンもいるからね、では、歌い始めたのはいつ?

Carlton Manning(以下、C): 生まれてからず~っと歌ってるさ。歌うのが大好きでね。母も歌が上手くて教会でシンガーとして歌ってたからね。

●Carltonはギタリストとしてもソングライターとしても、他のジャマイカのアーティストと比べると、とてもオリジナルなセンスをもっているよね?

C: そうさ、Versatile (多才)でなければいけない。色々できないとね。カリプソ、レゲエ、R&B とか他の音楽の形態もね。もちろんロック・ステディがメインだけど。いいミュージシャンというものは色々な音楽に通じていないとダメさ。例えば、アルバムが12曲収録だとするだろ。全曲ロック・ステディだとする。それじゃあ売れるけど限定されるかもしれないし、聴いた人も飽きるかもしれない。だいたいCDを買う時は、特別な1曲を聴きたくて買うわけだろ。だから、俺は収録曲がバラエティーに富んでいるようにするんだ。例えば、4~5曲がロック・ステディで、2曲スカ、1~2曲R&B、1曲インストゥルメンタルといった具合にね。

●いつからギターを弾くようになったの?

C:20歳ぐらいから弾き始めたんだ。それまでもずっと歌っていたんだけど、ギターは作曲するのにとても役立つんだ。そしてギターは曲のリディムを作るのに助けになる。ある時は、リズムとギターを先にレコーディングして後で声を乗せるようにしたりね。自分が曲を作るときは常にギターだね。歌詞が先にある場合はギターを使ってその歌詞に合うようにリディムを奏でるようにしたりね。リディムが先の場合はそれに合わせて歌詞をその後に書いたりもしていたよ。

●どうしてギターを始めたんですか?

C:楽器を学ぶことから得ることは多いんだ。タイミングやノートやコード理論を理解するようになるからね。それでいいハーモニーを生み出せるようになる。ギターのコードはハーモニーだからね。タイミングだったり、技術だったり、楽器を演奏するには技術が必要だ。ギターもそうさ。どんな楽器も色々な技術を得ることで音楽に必要なことが理解できるんだ。

●スタジオ・ワンからファースト・アルバム『Love me forever』をリリースしているけど、その経緯について聞きたいね。

C:レコーディングしたのは1968年だった。Coxsoneのところで最初の1日で4曲を録ったんだ。その4曲は「Love Me forever」「Me and You」「This Feeling」「Love to Share」だ。それから4~5週間してまた3曲をレコーディングした。だがそれ以上はレコーディングしなかったんだ。なぜってレコーディングをしてもお金にならなかったから、それ以上は歌わなかったんだ。でもスタジオに行ってギターは弾いていたんだ。ベースも弾いていたよ。それから1年ぐらいたってから、アルバムをリリースしたいってCoxsoneが言ってきて、曲が足りないから1曲レコーディングしろって話になって、結局3曲をレコーディングしたよ。だから10曲のLP としてずっと後になって『Love Me Forever』は発売されたんだ。その後はシングルを4曲ぐらい録音した。お金はもらってないさ。だからそれから彼とは会わないようになった。Coxsoneと離れてからは、自分でプロデュースするようになり、時間はかかったけど『This Heart Of Mine』(82年)をリリースできたんだ。

●そうだね、あれは名盤だ。それがリリースされてちょうど10年後かな、俺が日本で92年にCDで再発したんだけど、あれって世界初のCD化だったはずだ。それで記念に来日コンサートもやったんだ。 GladdyやBrent Dowe(The Melodians)、Elbert Stewart(The Cables)なんかと"Rock Steady Night"ってイベントで来日させたんだ。Carltonもトラファルガーにあったコートレー・ホテルの俺の部屋にベストをビシッと着込んで現れて、翌日はKingstonのナショナル・スタジアム前のスタジオでリハをやって、、、、。いや~、懐かしいよ。覚えてるかい?

C:覚えてるさ!待ってくれ!(と言って奥の部屋から大きな封筒に入れて大切に保存してあるフライヤーとポスターを持ってきて)ほら、取ってあるぞ。そろそろフレームに入れようと思ってるんだ。

●オオッ、嬉しいね!俺も1枚しか持ってない。これは貴重だよ。
ところで、The Abyssinians とのつながりは?

C:僕の兄弟のうちの2人、Donald Manning と Lynford Manningは The Abyssinians のオリジナルメンバーだよ。最初はLynford も僕と一緒にCarlton & the Shoes として歌ってたんだ。でもある時,もう一人のメンバーのAlexander Henryがアメリカに行ったまま帰ってこなかったんだ(81年にNYで他界)。誰も代わりがいなくてShoesは止まってしまってね。そんなこともあってLynford は他の兄弟、つまりDonaldと一緒にThe Abyssinians を結成することになったんだ。The Abyssinians は、Lynford と Donald Manning 、そしてBernard Collinsがオリジナル・メンバーだ。俺が2人の兄弟にギターやコーラスも教え、彼らがBernardに教えたから俺が最初に始めたようなもんだよ。僕は6人兄弟の3番目なんだけど、その二人はもう亡くなっていないから僕が兄弟の中で一番年長なんだ。The Abyssinians の「Satta Massagana」の出だしはCarlton & Shoesの最初のシングル「Happy Land」のリリックからだって知ってるだろう。彼らは「Happy Land」を使って「Satta Massagana」を作ったんだ。メロディーは違うけどね。

●来日が決まってるけど、どんな感じ?

C:久しぶりの日本だ。今回二人連れて行くバック・コーラスは僕よりウマいからね(笑)、楽しいショーになるはずだよ。ロック・ステディの最高のショーになるはずだ!