RING RING RING
【ポスト・グラフィティの巻(前号の続き)】
ラメルジーは僕に向かって、というのではなく、車中の全員に向かって彼が見た新宿でのグラフィティがいかに出鱈目に描いて(書いて)あるのか、ということを怒鳴るように大きな声で話していました。グラフィティはそこに何が書いているのか分かる人にとって重要性が伝わるのです。ゆえに、ライターがその方程式----という言葉をラメルジーは使っていましたが----を間違っていては問題外ということです。
グラフィティの視覚的な要素をグラフィティ自体から切り離すのは、すごく誘惑的なことです。特にコンテンポラリー・アートの側からの要請は、はっきりとそういうことであったでしょう。幾つかの例外を除いてですが。つまり、街の中の活気にあふれた文化----そういったものを美術館やギャラリーに持ち込んでみせる、というように。ところがグラフィティは、身体性やパフォーマンスから切り離せないところから生まれているわけで、そういった視覚的な側面だけ切断して持って行ってしまうのはどうなのか、ということを今日は「ポスト・グラフィティ」について考える上で強調していきたいところなんです。
たとえばスプレー缶というのは簡単に操作できるものじゃない。描く時点から身体性が要求されて、いうならばパフォーマンス性がすごく高い。グラフィティのライターは、たとえば同志が地下鉄にグラフィティを描いて、そのパフォーマンスそのものが終わった後の作品を見るだけでも、そこにパフォーマンス性を見ることができる。見れる者同士で確認しているわけですね。けれどもそういうパフォーマンス性の高さがわからない人がその作品を見ると、空虚でしかないわけです。「ムーヴメント」やパフォーマンスの側面がごっちゃになって忘れられて、視覚的な側面だけが強調されてしまうということが問題だと思います。
でも、そういうパフォーマンス性を誰もが見るということは不可能なことではないんですね。たとえばクリス・バーデンがメディア・アーキテクチュアを使ってやったことは本来非合法なことです。しかしそれをノン・プロフィットの団体を使って合法化した。それからヴァンダリズムみたいなもの、いわゆるグラフィティは非合法であるということも問題になっているんですが、それもごっちゃになっているんです。
ここでラメルジーの話をするまえに、日本だけでなく、グラフィティの議論になるとどうしても話題になるヴァンダリズム、非合法性について、少しだけ触れておきます。
アンドレアス・ベルグという人が、スウェーデンにおけるグラフィティについて文章を書いています。スウェーデンに文化が入ると何でも中産階級化されてしまう、パンクが来たときもそうですが、そういった様々な文化に対してこの国は寛容であり、受け入れることでいろいろなものが生き続けていると言うんですね。ところがグラフィティはパンクとは違って、子供たちが直接的に非合法の活動をするものであって、あらゆるものが中産階級化されるスウェーデン社会にとってはいいテストだということを書いていた。彼は、グラフィティはヴァンダリズムであってそれ以外のものではない、という文章を書いています。
何故こんな話をしたかというと、普通、ホームセンターにスプレー缶は売っているものだ、と考える人が多いと思います。けれどもグラフィティ・ライターの間には昔から伝説として、グラフィティに使うスプレー缶は全部盗んだものでなければならないという考え方があります。ベルグが言っているのは、そうあってほしい、そうあるべきだ、なぜならグラフィティは本質的にヴァンダリズムだからだ、ということなんですね。この問題について、ここでは容易にジャッジするようなことはしません。
さて、ラメルジーに戻ります。ムーヴメント、パフォーマティヴな側面の重要性を理解してグラフィティを扱ったアーティストにゴードン・マッタ・クラークがいました。1972年に「グラフィティ・トラック」ということをやっています。ワシントン・スクウェアで行われたアート・フェスティバルをからかった、彼なりにそれに対抗したものらしいんですけれども、ブロンクスをグラフィティが書かれたトラックで走って、それをアート・フェスをやっているすぐ隣に持ってきて、その場で解体するんです。そしてその分解した大きな塊を、商品としてその場で売っていたりもする。これもグラフィティを扱ったものですが、地下鉄の車体にスプレーされたグラフィティを写真に撮って、その写真をギャラリーの中に展示している。ここでゴードン・マット・クラークは「ムーヴメント」、文字通りグラフィティを運ぶものとしてのグラフィティ・トラックを使っている。そしてそれを切断して売れるもの、商品にしている。さらにそれを写真に撮ってギャラリーに持ち込んでいる。こういうことには注意しておいていいと思います。ゴードン・マット・クラークにとっては、「ムーヴメント」を自分の作品に取り込むことが重要だったのではないかと思います。
ここで、バス・ジャン・アダーの「FALL」というパフォーマンスを見ていただきます。
[作品上映]
屋根から落ちたり、自転車をこいで川に落ちてしまったり、極めて簡単なアクションを行うパフォーマンスなんですが、身体性とかアクション、複雑な動作をどんどん簡単にしていってということを探求したアーティストです。これはむろん、アクション、とは何か?ということなんですが...「ムーヴメント」の力がグラフィックな強調に優れる、ひとつの例として注目しています。
ラメルジーのガーシャリア、そして他のキャラクター、また彼のレター・レーサー、といった3Dの作品は、グラフィックについてではありません。彼は普段でもキャラクターと自分の素顔を混ぜているような人物で、また彼がラメルジーという名前を公式にしてしまったことは大変有名な事実です。方程式も、ゴシック・フューチャリズム、偶像破壊武装主義も、きわめてパフォーマティヴな、コンセプチュアルなものです。それゆえに彼は従来のコンテンポラリー・アートの重鎮側からの要請とは異なった文脈でグラフィティを考えた場合も、大変重要なアーティストなんです。それは、パフォーマンス性、サイト・スペシフィケーション(場所に特有なこと)、身体性を考える、それが「ポスト・グラフィティ」を美術の翻訳に持って行くときに必要なことだから、という僕の結論によるのです。
荏開津広
(概念売買/翻訳)
というわけで、次号はなんらかの形で、NYからお届けできる? もしくはきわめて日本的/かつ良心的なアーティストのインタヴューか? ラメルジーの本はしばしのお待ちを!!