Photo & Text by SIMON "MAVERICK" BUCKLAND
Tippa Irie and Georgia
Greetings Friends,
個人的なグッド・ニュースとしては、私の妻が退院し回復に向かって日に日に元気を取り戻しつつある。
●先月は妻の入院で遠出ができなったが、唯一の息抜きとしてTippa IrieのライヴをフランスのConcarneauという港町に、娘のGeorgiaと観に行った。Tippaに会ったのは15年以上も前だった。それから彼も僕もかなり見かけが変わっていたのには互いに驚いた。変わっていなかったのは彼のレゲエ・アーティストとしての心意気と精力的な演奏活動だろう。何と彼は足首骨折のため片方の足にギブスをしながらステージに立っていたのだ。彼は移り気な音楽ファンの心を常に離さない様に努力してきた。その結果が彼の最新作で聴けるスタイルに結実している。ドイツのDJ、Gentlemanのバックバンド、Far East Bandはジャマイカのバンドの様なソリッドな音楽を奏で、ホーンの鳴りも一流だった。TippaはパートナーのJohnnyがミックスしたトラックでノン・ストップでライミングし続けた。この経験豊富なDJが創り出す雰囲気やスタイルは正統派そのもので、若い頃より現在の方が説得力と力強さがあると思う。"プロモーションこそが成功の秘訣"という事を心得ているTippaは常に世界中をツアーで回っている。他の1980年代にデビューしたUKのDJやMCと違い、今後ずっと活躍し続けるだろう。
●ShineheadもTippaと同じショーに出演していた。フルバンドをバックにしたステージは楽しいものだったが、彼が売れ始めた20年前頃の曲ばかりを歌っていたのが少し残念だ。だが彼の調子は、ちょうど1年前に僕と話した時より良かったように感じた。また、彼がスターになって初めてUKに来た時の事とを2人で懐かしく思い出した。現在フランスにおいて彼はRennesを拠点にLegal Shotクルーと活動を共にしている。
●自身のバンドのキーボート奏者でSt Malo港近くで開催された「Summer Reggae Fest」の主催者の1人でもあるMatty Dreadにショーの後で会う事ができた。MattyはMax Romeo、Capleton、Macka Bらが出演したフェスが成功した事と、フェスが初めて黒字になる予定だという事を喜んでいた。因みに僕の親しい友人はMax Romeoのバンドが低水準だったし、Capletonもイマイチだったと評価を下していた。僕らの様な長年のレゲエ・ファンは、Larry Marshallの様な渋めのラインナップも観たいのだが、Mattyはそんなカルト・アーティストでは集客が見込めないと考え、来年はBurning Spearの様なビッグネームをフェスに呼びたいと思っている。このフェスを来年成功させるには、単にレゲエをフレンドリーかつ良い環境のもとで聴かせる事だけではなく、それほどレゲエに興味がない人々も惹きつけ、多数の動員につなげる事が必須だという事らしい。音楽的には妥協してしまう事になるが、これがビジネスというものだろう。僕は来年のラインナップについて幾つかアイディアを提案したいと思っている。
●Lee Perryのコンピ盤が8月下旬発売予定だ。このコンピは、近年リリースされたこのエキセントリックなプロデューサーのものの中でも一番エキサイティングなものらしい。リイシューのスペシャリト、Pressure Soundsからリリースされる『Sound System Scratch』は、伝説的なBlack ArkスタジオでPerryが最もクリエイティヴだった時期に制作されたダブプレート・オンリー音源19曲を収録。この宣伝文句が本当なら、彼のリイシューものの中では光るタイトルになるだろう。
●2007年に『Ragga』誌がフランスのキオスクやスーパーの雑誌売場から消え、同誌の出版社が清算されて暫く経つが、更に有力な雑誌だった『Natty Dread』誌がこの7月に最終号(No.62)を発行した。奇妙な事に10年間に渡りジャマイカ音楽をどの雑誌よりも詳しくカヴァーしてきた同誌が休刊した理由は、最近休刊した米国の『The Beat』誌のそれと殆ど同じなのだ。Thibault Ehrengardt編集長が発表した最後のプレス・リリースには「フランスの出版界を襲っている"メディア危機"の影響はそれほど大きくなかった。最近のジャマイカ発の音楽はおしなべて特筆すべきものが少なく、一般受けばかりを狙ったものばかりだ。我々はそれらを崇高な感性をベースに創られる音楽として受け入れる事ができない」とある。音楽の質が低下してしまったので、編集者の間で以前の様な情熱が失われてしまったという事らしい。「我々はこの"冒険"を始めた時と同じ様にこの雑誌を美しく終わらせたいと思う」とEhrengardtは最後に結んでいる。同誌の出版社は引き続き単行本の出版を続け、時々特別号を発売する予定らしい。『Natty Dread』誌はジャマイカ音楽の文化的側面について深く掘り下げていた数少ない雑誌の一つだった。非常に残念な事だ。
●トロンボーン・プレーヤーで時々バンドリーダーも務めるHenry 'Buttons' Tenyueがフランス(Garance Festival)とドイツ(Reggae Jam)でJohn Holtのサポートを終え、Englandに戻ってきた。UKレゲエ業界の景気は相変わらず悪く、彼はヨーロッパ本土においての仕事の充実振りを盛んにアピールしていた。UKで活躍中のアーティストはヨーロッパ本土を羨ましく思っているようだ。Mad Professorもその一人。最近、僕と僕の家族は彼の家をフランスで見つけてくれないだろうかと、真剣に彼に相談されてしまった。
Sugar Minott
●僕はSugar Minottのファンだった。ジャーナリストになる前、実際彼に会うずっと前からだ。『Ghetto-ology』『Sweeter Than Sugar』『Black Roots』『Studio One Showcase』『Live Loving』『More Sugar』といったアルバムや、7インチ、45rpmの12インチが我が家ではよくかかっていたものだ。『Echoes』誌に書き始めた頃の1984年7月にLincoln 'Sugar' Minottと初めて握手した(彼はWackiesレーベルのドキュメンタリーを5ヶ月前に撮影していた)。その時、僕は彼から、シンガーやミュージシャンは僕らと同じ様に、強さや弱さを持ち合わせた人間だという事を学んだ。僕が出会ったアーティストの多くは、かつてBurning Spearが「頭がおかしくなった」と歌った様に、音楽活動と毎日の生活を切り離す事ができずにいた。だがSugar Minottは違った。彼は謙虚で分かり易いユーモアを持ち、とりわけ人生とJahを愛していた。「オレは色々な音楽をやる」と彼はその時のインタヴューで答えた。彼をレゲエのマーケットでどの様にカテゴライズしていいのか分らない人が沢山いたのだ。そして彼はこう続けた。
「ジャマイカではダンスホール・キングと呼ばれ、Englandではラヴァーズ・ロック専門だと思われている。オレは国際的に活躍しているシンガーであり、特定ジャンルのスペシャリストではない。ダンスホール、ラヴァーズ・ロック、メッセージ・ソング、アフリカン、一つとして特化していないんだ。国際的に活躍するシンガーは様々な人々に向けて音楽をやらなければいけない。オレは何でも歌うよ。飽き易い性格だからな。毎日同じものを歌うなんてできない。そんな事は大嫌いさ。ただ音楽の移り変わり、つまり歴史をしっかり理解しているつもりだ。ロックステディはずっと売れ続けるだろう。古いCoxsoneやTreasure Isleといったものさ。最近流行っているダンスホール・スタイルのものは来年には聴きたくなくなるだろう。オレの曲だって5ヶ月位しか寿命がないものもあれば、ロングセラーになるものあるだろう。金のために作られた曲もあれば、永遠に威光を放ち続ける名曲もある」
彼を失ったのは非常に悲しい。彼の名は永遠に残るだろう。
Till next time, take care............... (訳/大塚正昭)
(訳/Masaaki Otsuka)