SUGAR MINOTT 1956-2010
1956-2010
Text by Takeshi Fujikawa / Photo by Simon Backland
1989 In Kilburn, West London
シュガー・マイノットが54歳の若さでなくなった。ラヴァーズからシリアスな歌まで器用にこなすシンガーとしての高い評価はもちろん、私財を投じ、多くの若いアーティストを育てたゲットー・ユースの兄貴分としての側面も含め、その足跡を追ってみる。
まだ信じられずにいるシュガー・マイノットの訃報。その悲報を聞いて、ネット検索し、心臓の病で5月に入院したというニュース記事を見つけたが、5月の時点でそのニュースを読んでいたとしても、今回の訃報は唐突と感じられたに違いない。なぜなら、僕の目に浮かぶシュガーはいつでも、あの前歯の欠けた愛くるしい笑顔であり、ステージ狭しと飛び回る姿なのだから、イメージとして、死から最もかけ離れた存在であったと言ってよい。シュガーの訃報から、ナイン・ナイト(日本でいう通夜のようなもの)の様子や、ジャマイカ各地で行われているシュガー追悼ダンスの出演者のことなど、刻一刻と伝えられてきた。そこから伝わるのは、面倒見のよいゲットー・ユーツの兄貴分であり、そして多くのアーティストを育てたシュガーに対する思慕の気持ちだった。
シュガーについての追悼文を書くにはソニー落合さんやナーキさんのようにシュガーと親密な関係を築いてきた人がふさわしいに違いない。実際にナーキさんは、シュガーの葬儀(遺影には菊地昇さんの写真が使用された)に参列した。しかし、彼らは追悼文を書くには身近すぎるのかもしれない。ボクが書く、「トニー・タフ、デリック・ハワードとアフリカン・ブラザーズとしてキャリアをスタートし...」というキャリアを振り返る文章は面白くないだろうけれど、シュガー・マイノットという人、その生き方、その音楽がこれからも親しまれていくための一助になればとの思いから、敢えて客観的に書いてみたい。
シュガー・マイノットについて人名録風にまとめると以下のようになるだろうか?
本名、リンカーン・バーリントン・マイノットは、ジャマイカのレゲエ・シンガー、プロデューサー、サウンド・システム運営者。1956年5月25日キングストン生まれ。70年代にコーラス・トリオ、アフリカン・ブラザーズで音楽業界でのスタートを切り、70年代半ば過ぎからはソロに転じ、数多くのヒットを放つ。なかでも81年の「Good Thing Going」は、全英チャートで4位になるヒットとなった。芸名シュガーの元になった甘い声を活かしたラヴァーズからDJスタイルまでこなす器用さも魅力のひとつで、80年代を通じ数多くのリリース、ヒットを残し、90年代に入ってからも、「Run Things」や「Sprinter Stayer」などをヒットさせた。アーティストとしての活動の傍ら、私財を投じ、ユース・プロモーションを組織し、若手の育成にも努め、そこからはヤミ・ボロ、ジュニア・リード、リクル・ジョン、テナー・ソウなど数多くの個性が旅立った。84年の初来日以来、来日も多数。2010年7月10日、心臓疾患のために死去。
以上を元に、もう少し細かな話をしましょう。
●アフリカン・ブラザーズ
56年にキングストンで生まれたマイノットは、自宅の隣がダンスホールという環境で育った。当然のごとく音楽に魅せられた彼は、69年、学生時代に近所に住んでいたトニー・タフ、デリック・ハワードとコーラス・グループ、アフリカン・ブラザーズで活動をスタートする。マイクロンやルーピー・エドワーズのサクセス、さらにスタジオ・ワンにも録音を残した。これらは、米イージー・スターからCD『Want Some Freedom』としてまとめられている。イージー・スターはビートルズ『Sgt. Pepper's〜』のレゲエ版などを出しているレーベルだが、マイノット関連の重要音源を多数リリースしているので要チェックだ。『Want Some Freedom』には、アフリカン・ブラザーズの代表曲である「Torturing」「Party Night」「Lead Us Father」などを収録。74年までアフリカン・ブラザーズで活動した後、シュガーはソロに転じることとなる。
●アット・スタジオ・ワン
ソロ・アーティストとしてのシュガー・マイノットのスタートはスタジオ・ワンから始まる。そこで、シュガーはスタジオ・ワンのヴィンテージ・リズムで多くの名曲を吹き込む。この時期、スタジオ・ワンは休眠状態だったが、70年代半ばからバニー・リー、チャンネル・ワンやジョー・ギブスが、ロック・ステディ・リズムのリメイクを手がけ人気を獲得していた。そこで、オリジナル・リズムを持っているコクソンは、それらを使用して新たな吹き込みを行ったのだ。その第一弾アルバムがシュガーの (1)『Live Loving』(78年)。
それに続いたのがジョニー・オズボーン『Truth & Rights』であり、フレディ・マグレガー『Bobby Babylon』だった。シュガーは他にも多くの録音をスタジオ・ワンに残したが78年にコクソンの下を離れる。スタジオ・ワンでの録音は後年、アルバム (2)『Showcase』(79年)、(11)『More Sugar Minott』(82年)としてリリースされた。ロック・ステディや初期レゲエのリズムで歌うバカラック=デイヴィッドの「House Is Not A Home」やライヴでの主要レパートリーとなる「Vanity」「Mr. DC」「Jah Jah Lead Us」「Give Me Jah Jah」など数多くの名曲が残された。この時期の録音を聴くはソウル・ジャズからの『At Studio One』がよいだろう。スタジオ・ワンで評価を得たシュガーは次なるステップを踏み出す。
●ゲットー・ユースの心意気
スタジオ・ワンを離れたシュガーは、自身のレーベル、ブラック・ルーツとユース・プロモーションを作る。自身のプロダクションでの最初の成功は「Hard Time Pressure」で、イギリスでもリリースされたこの曲は、シュガーのUK人気の導火線に火をつけた。この頃、シュガーは実に多くの録音を行っている。リストの (3) 〜 (11) あたりはどれも甲乙つけがたい名盤揃いだ。81年、マイケル・ジャクソンのカヴァー「Good Thing Going」が全英ポップ・チャートでトップ10入り、一躍スターダムを駆け上がる。この時期、テレビ番組トップ・オブ・ザ・ポップスに出たときの模様はYouTubeで見ることができる。
シュガーの実力をしてヒットに恵まれれば、イギリスに拠点を移し、成功するという道があっただろうが、彼はその道を選ばなかった。自身のアーティスト活動の傍ら、ジャマイカで若いアーティストを育て、ゲットーの若者たちに機会を与えるということ行動をとったのだ。ユース・プロモーションはサウンド・システムをもち、多くのアーティストがシュガーを慕い集まった。ユース・プロから巣立っていったのが、ヤミ・ボロでありトリスタン・パーマ、ジュニア・リード、ニッティ・グリッティ、ダディ・フレディ、トニー・レベルそしてテナー・ソウなどジャマイカの音楽シーンを彩った様々な個性だった。彼らのその後の活躍をみれば、シュガーの影響の大きさは自ずとしれることだろう。
80年代のそれぞれの作品にコメントする紙幅はないが、84年のアルバム (17) のタイトル曲「Herbman Hustling」は、"スレンテン"以前にレゲエ・リディムのデジタル化到来を予見する画期的な一曲であったことについてはきちんと書いておかなければならないだろう。シュガーは本格的なダンスホール時代突入する際の牽引役でもあり、主導的な役割も果たした。それは、レコーディング作品だけでなく、ダンスの現場でも大きな役割を果たしたのであり、じつは彼自身がダンスホール・カルチャーを体現していたのだ。
1985年8月、キングストンのYouth Promotionにて。(Photo by Sonny Ochiai)
●イギリス、アメリカそして日本
「Good Thing Going」のヒットの後もジャマイカを拠点にしていたとはいえ、シュガーのイギリスでの人気は非常に高かった。イギリスでは70年代半ばからイギリス独自のレゲエ・スタイルとしてソウルやロック・ステディからの影響の強いラヴァーズ・ロックが人気を獲得してきた。シュガー・マイノットの甘い歌はそのイギリスで広く受け入れられる土壌があったし、実際に多くの曲がイギリスで親しまれた。シュガーはイギリスで活動する際には自身のバンド、ブラック・ルーツ・プレイヤーズを率いる。彼らと作ったアルバムが (10) だ。このバンドのメンバーは、ギターのアラン・ウィークスやドラムのケンリック・ロウ、ベースはルベン・パイパー・ファーライらがつとめていた。先のトップ・オブ・ザ・ポップスでバックをつとめていたのも、ケン、アラン、ルベンらだ。
ちなみに (10) の裏面でパパ・ハニーとクレジットされているのはシュガー自身のこと。これは、彼のDJ名で、この作品以降も時々シュガーは器用にもDJスタイルを披露することになる。ケンとアランは、イギリス産ラヴァーズ・ロックの多くの名演に関わり、後年ジャズ・ジャマイカの主要メンバーとしても活動。また、シュガーは、女性ラヴァーズ・シンガー、キャロル・トンプソンと共演シングルを出すなど活動しているが、キャロンはブラック・ルーツ・プレイヤーズのメンバーと近い関係だったし、シュガーとの接点にはジャッキー・ミットゥが存在していた。シュガーとジャッキーは非常に親密な関係だったし、キャロン自身によると、彼女もジャッキーと親しい関係だったそうだ。ちなみにイギリスのキッズ・レゲエ・グループ、ミュージカル・ユースを見いだしたのもシュガーだといわれており、ミュージカル・ユースの制作、ツアーにはジャッキー・ミットゥが常に伴われていた。
シュガーの重要作品の一つに (20)『Wicked Ago Feel It』がある。これはワッキーズ制作によるものだ。ワッキーズ版の渋いリアル・ロックのリズムに乗せたタイトル曲を含め最高だが、シュガー自身もこの作品を気にいっているようだ。シュガーはワッキーズ訪問以来、そこを気に入ったらしく、親交を深め、以降も作品をリリースした。90年代の初めにシュガーがユース・プロモーションを再興しスタジオ建設をもくろんだときの協力者はブルワッキーだったし、サブワッキー=ソニー落合さんとも親交を重ねそれがレコード制作や数重なる来日にもつながった。そのことは落合さんによる別稿に詳しい。
8月1日、キングストンのナショナル・アリーナにて執り行われた葬儀にてスピーチするNahki。(Photo by Jun Tochino)
少し、話がそれるが、シュガーとダブのことも簡単に書いておこう。『Wicked Ago...』にも『African Roots Act3』というダブがある。これは後に本編と2in1でCD化された。アフリカン・ブラザーズ時代の楽曲は多くの曲がキング・タビーによってダブ・ミックスされ、それらは、ネイチャーから『The African Brothers Meet King Tubby In Dub』としてリリースもされている。また名盤の誉れ高い『Ghetto-ology』にはプリンス・ジャミーやサイエンティストが関わった『Ghetto-ology Dubwise』(82年)がある。また、プリンス・ジャミーの名盤『Kamikaze Dub』はシュガーの (3)『Bitter Sweet』を元にしていることも記しておく。
シュガーの初来日は84年。ディスコグラフィを見てもおわかりの通り、充実期の来日だった。ジャマイカのダンスの現場をダイレクトに伝えるシンガーとして初めてのこの84年のシュガーの来日なしに、日本のレゲエの発展はなかっただろう。会場は後楽園ホール。招聘はスマッシュだったと記憶している。バンドにはグラディ・アンダーソンもいた。本当ならば、ジャッキー・ミットゥが帯同する予定だったが、ミュージカル・ユースのツアーでこられなかったためにグラディが来たと聞いたことがある。ナーキとの出会いもこの初来日時で、ナーキとシュガーは急速に親交を深めることは皆さんご存じの通りだ。
ファンにサインをするSugar Minott。2008年、キングストンにて。(Photo by Nahoko)
●ラン・ティングス
80年代後半から90年代初頭、リリースは堅調だったが、ヒットに恵まれなかったのは事実だ。来日も重ねていたので、元気がないという感じはしなかったけれど、私財を若手の育成のために使っていたために、お金の苦労も耐えず、潤沢な予算で録音をするということはなかなか出来なかったようだ。「Herbman Hustling」というデジタル・レゲエの先駆けのようなヒットを放ちながら、デジタル・レゲエの時代に埋もれていくかのように思われたこともあったが、90年代のデジタル時代におけるルーツ・リヴァイヴの波のなかで、きちんと存在感を表し、「Run Things」等のヒットを放った。その後もマフィア&フラクシーとのアルバム (56) やフランスで2005年にリリースされた (54)『Leave Out A Babylon』など良質な作品も多かっただけにその早すぎる訃報が残念で仕方ない。
とにかく駆け足で、シュガーの足跡を振り返ってみた。書き足りないことだらけだけれど、いつかもっと長い原稿を書ければとも思っている。最近ではジョージ・パンのパワーハウス時代の80年代半ばの作品4枚 (19) (23) (24) (25) がグリーンスリーヴスから廉価版のボックス入りで再発されたりもしているし、聴くべき作品は沢山ある。しかし、とにかくシュガーについて知りたいので1枚!というならば、"M16"リズムの「Rough Old Life (Babylon)」からラストの「Run Things」まで幅広い期間のヒットが揃っているVPからのベスト盤『Nice It Up: The Best Of Sugar Minott』をオススメするかな。
54年間という短すぎる生涯だったけれども、たくさんの名曲と素敵なライヴ、多くの思い出...。とにかく感謝の気持ちでいっぱいだ。ありがとうシュガー。