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RING RING RING
 
【DOMMUNEの巻】
Dommuneについて触れざるをえないだろう。
 
Dommuneは宇川直弘氏が始めた新しいUstereamを使ったサービスであり、僕は新しいメディアだと考える。毎週日曜日から金曜日まで夕刻7時から深夜の12時までライヴ配信をする。通常、最初の2時間が会話を中心とし、次の3時間がDommuneのスタジオで行われるライヴのDJからなるプログラムである。首謀者(かつ多分1人で多くのことを行っている)宇川氏は、自らを「メディア・レイピスト」と呼称する人物であり、アーティストとして作品を創り、教育機関で教鞭を執り、VJとして長時間のパーティに参加し、デザインをし、また以前はMicrofficeという場所を運営していた。個々の活動についてもっと詳しい紹介と批評が必要とされているが(この誌面でも、また一般的にも)、僕が興味を持つのは、彼が長時間に渡ってのVJ活動を止めないところである。僕はずっと長い間そのことを面白いな、と思っていた。なぜなら、ある程度僕が以前DJだったので、長時間のVJ、という体験がどんなものかは想像できるから、である。
 
クラブという場所は肉体的にも神経的にも刺激的であるだけに、一端その刺激に倦んでしまうと、単に反復的な経験となってしまう、と僕は思う----なんでもそうかも。そういやクラブがどのように刺激的になりうるか、ということを、建築家の故・黒川紀章氏がこう書いている。「......都市空間ほど、そもそもサイケデリックで、エンバイラメンタルな空間はないのではないか。(中略)そんな状況に、極限的に追い込まれているにもかかわらず、もっとつきつめてみないと、何かが見えてこないようなとき、ぼくはディスコティックにいく。だからディスコティックには、ぼく自身をはるかに遠く追込んでくれる極限の色がなくてはならない、極限の状況が欲しい。(中略)蛍光塗料とブラックライト、スライドプロジェクション、流れる色。それはなかなか楽しいものだ。(中略)しかし、本当にぼくが興奮するのは、ストロボだ。ストロボが、一瞬LSDの世界を消し、すべての色を消して自分の内面を暴露する。人々が腸の内側で空間に参加するのはこのときなのだ......」結論として、「......自分自身をいつも極限に追込みながら、それでいて、もっと強く自分自身を発見できる。そんなディスコティックと空間が欲しい」という、当時の東京のナイト・ライフに対しての不満と檄みたいなエンディングをもってこの文章は終わる。
 
この頃と何が変わったのか?という問いではなく、極限の状況に身を置くことに宇川氏も興味を持っているのかな?とは思ったりする。彼がVJをするのはテクノやハウスのクラブが多く、それは長時間に渡る。恒例で大晦日にもVJをやっているはずである。Dommuneは、そうしたかなりハードな体験(が少なくとも理論上可能な)現場とヴューワーのラップトップを結びつけた。僕は宇川氏のアート作品が好きだが、氏がふと言っていたように、Dommuneという場、そのすべてが彼のもっとも新しい作品なのかも知れない。で、ここで「現場」の話になる。
 
随分と遡る。1995年に日本でポップ・ミュージックを扱う権威ある雑誌、『ミュージック・マガジン』が日本のヒップホップについてのカヴァー・ストーリーを掲載した。そのときに幾人かの評者が「まだライヴを見ていないので」という断り書きをつけて、作品を評したのに対して、僕は覚えている限りでは、『Riddim』誌で、このような趣旨のことを書いたのではないか、と。つまり、すべての音楽が起きている場に行けるわけではない。しかし、東京(多くの音楽ライターが住んでいた地域)で当時1,000円台の金を払えば、見にいけるアクトを批評するのに対し、「まだライヴは見てないので」はないのでは?という程度の意見の提出である(ちなみにつけくわると、その後若い世代から「荏開津、お前あんまり現場行ってねーじゃねーか」とその後言われたりします。がちょむ)。まぁ、当時の常識の範囲内だと思えるが、時代ももはや違いすぎる----とは、Dommuneを経験してもそう思う。「最も信頼に足る日本語ラップ研究」とライムスターの宇多丸が賛辞を寄せている本、イアン・コンドリーによる『日本のヒップホップ 文化グローバリゼーションの〈現場〉』という本は、かなりの長い間に渡っての調査に基づいて書かれたものである。出版は2006年だが、博士号申請論文として提出されたのは1999年であり、筆者が調査を始めたのは1994〜1995年だろう。第4章の「ラップ・ファンと消費文化」はこの文章で終わる。「......〈コミュニティ〉は、ファンが作り出しているものに対する言葉としてはあまりにも広大すぎるが、ヒップホップのなかの事例においてさえ、仲間的なファンとそのパフォーマンスがグループ内部での行動の規範を定義し強化しようとするやり方に私たちは確認することができる。メディアに基づいたコミュニティ、ローカルに、基づくコミュニティとどのように異なっているか、という点をもっとよく分析するためにの調査を私たちは必要としている......」
 
また、終章、「ヒップホップ・グローバリゼーションの教訓」では、彼はこう記す。「......即興性、個人的なパフォーマンス、機動性、対話、規律、といったもののためにどのくらいの余地があるというのかという点で、〈現場〉は多様なのである......」。これはクラブという場をアセンブリーライン(組み立て式工場)、コールセンター、データベース入力センター、などといった他の現場と比較して、その中央集権的でない特徴を指しているのである。僕個人は、クラブのこうした側面を指示する。僕にとってDJはシャーマンである必要はない。それはとりわけDJがシャーマンになる必要がない、と言っているのではなく、一般的に生活にシャーマンは必要ないのであって、その自然な延長として、例えば誰かが、もしくは僕がクラブで「腸の内側で空間に参加する」瞬間も、それは個人の能動的な意思で行うべきだと思う。たぶん、この点で、宇川直弘氏と意見は異なるだろう。彼にとってシャーマンは必要だろうし、彼がシャーマンになっている場合もあるはずだ。しかし、同時に、Dommuneでは、さきほどの「即興性、個人的なパフォーマンス、機動性、対話、規律、といったもののためにどのくらいの余地があるというのかという点で、〈現場〉は多様なのである」という文章が指ししめすのものの、実行可能性範囲がオンラインで起こる蓋然性がTwitterなどとの共用によって極めて高くなっている。ここが僕にとって重要な点。
  
荏開津広
(One Hand Clappin')
この記事が出ている頃には、Daddy ECとの出演もすませ、また日常に戻っているはず。ジャマイカン・ギャングスター・ノヴェル『ヤーディ』絶賛発売中です。ダンスホールとジャマイカの人々に興味のある人は是非!

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