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326    ARTISTS    CHRIS CHIN

CHRIS CHIN
VP RECORDS
 
Interview & Photo by Minako Ikeshiro
 

 いまや誰もが認める世界No.1のレゲエ・レーベルとなったVP Records。創立者の一人であるヴィンセント・チン亡き後、そのトップを務めているのがクリス・チンだ。ミュージシャンやプロデューサーからも人望の厚い彼に、その長きに渡る歴史と今後のVP及びGreensleevesの行方について話を聞いた。
  
 
 レゲエ最大手のレーベル/ディストリビューターであるVPレコーズは、中国系ジャマイカ人のファミリー・ビジネスが土台になっている。
 
 社長のクリス・チンは、1977年に10代でジャマイカのキングストンから、ニューヨークはクィーンズのジャマイカ区に移住して以来、会社を成長させながら、レゲエの浸透に深く関わって来た。「自分はとてもジャマイカ人らしい(I'm very Jamaican)」と言い切る。パッと見はアジア系だが、「父方にはアイルランドとジャマイカが、母方は中国とインドが入っているから、うちの家族にはいろんな見た目の人がいる」と笑うように、実は他民族国家であるジャマイカを象徴する人でもある。VPは父のヴィンセントと、母のミス・パットことパトレシアの頭文字を取った社名だ。クリス自身、ジャマイカに住んでいた頃から、VPの前身となるランディーズを手伝っていたと言う。
 
「学校に行きながら、週末と休日、ときには放課後も家の仕事を手伝っていたから、とても若いうちからビジネスを学んだわけだ。子供の頃からだから、ジョン・ホルトといったヴェテランは長い間の知り合いになるね」 
だが、「ダンスには行かなかった」そうで。
「スタジオには出入りしていたし、店でも働いていたけれど、ダンスは行かなかった。若すぎたのと、キングストン・カレッジというスポーツが盛んな高校に行っていたから、試合を観に行ったり、競技会に出場したりと結構忙しかったんだ」
 
 60〜70年代の、ジャマイカの音楽がもっとも大きく変貌を遂げた時代を、間近で目撃した。
「父は50年代にはジュークボックスのビジネスをしながら、レーベルも始めていた。スカタライツとレコーディングもしていたよ。あの時代は、4トラックどころか、2トラックで録音することだってあった」
 
 それなのになぜ、あれだけ厚く奥行きのある音が録れたのか、という積年の疑問をぶつけてみる。
「エンジニアが非常に優秀だったのが大きいかな。知識も豊富だったしね。セカンド・チャンスがない一発録りだったから。アーティストも、みんなすごいプロフェッショナルで、完璧に準備してからレコーディングに臨んだんだよ。(ローテクでも)音楽的に非常に質が高いのだから、ホント、不思議だよねぇ。個人的に今でもロックステディは好きだね」
 

 アメリカへの移住の理由は、「当時のジャマイカは社会的、政治的な問題が山積みでとても混乱していたから」だそう。
ほかの仕事に就いてみたかったことは「一度もない」と即答。「1977年に移住してからは、まぁVP一筋の人生だね。うーん、長いね」と、笑う。
 
 クリスには異母兄でプロデューサーとして活躍したクライヴと、VPの現社長であるランディの弟がいるが、レゲエ史の生き字引みたいな存在のクライヴ、ビジネスマンで現場を仕切るのが得意なランディと、それぞれ全く個性が違う。
 
 クリス本人が父親から学んだことは、「対人関係のスキル」。「彼はアーティストやプロデューサーとすぐに友達になれた。それが、強みだったんだ。私も同じタイプで、みんなと個人的な付き合いができる。レーベルを離れてしまったアーティストからも電話がかかってくるし。みんな大きな家族の一員というか、友達の延長のような気持ちで接しているから」
 
 80年代、90年代で印象深かったことを尋ねた。
「80年代はジョンジョ・ロウズがやはり強かったね。彼とはいい友達だったんだ。仕事もしやすい相手だったし。イエローマンにヒットをもたらしたり、ココ・ティーを発見したり、イーク・ア・マウスやマイケル・プロフィットともいい曲を作っていた」
 
 イエローマンに関しては面白い話が出て来た。
「アメリカ人に向けて、我々が最初に本格的に売り出したのがイエローマンだ。彼を実際に(ジャマイカから)連れ出して、紹介するプロジェクトには私も参加したよ。ラジオのプロモーションに力を入れたから、彼はカリビアン以外にも受け入れられたんだ」
 
 90年代に入ると、メジャーなレコード会社がダンスホール・アーティストの売り出しにかかった。
「シャバ・ランクス、スーパー・キャットもまずまずの成功を収めたよね。多くのアーティストが国際的なレヴェルで露出されたのは良かったと思っている。長くは続かなかったけど。それ以外でも、90年代はいい時代だったよね。キング・ジャミーがずっと強くて、ボビー・デジタルもシャバとヒットを作ったし、ペントハウスにはブジュ(・バンタン)とウェイン・ワンダー、ベレス・ハモンドらがいて、それぞれ市場を支配していて、活気があった。私にとっては(レゲエの動向が)日常そのものだから、あの時代を一緒に生き抜いた、という感慨はある」
 
 近年のビッグ・ニュースはずっとライヴァル関係にあったイギリスのグリーンスリーヴスを買い取ったことだろう。
「グリーンスリーヴスとVPは面白い歴史があって、どちらも同じくらいに始めて、一緒に成長してきた。競争相手だったけれど、向こうのクリス(・クラックネル)とはビジネスのことで、電話で話し合ったりもしていたんだよ」
 
 VPとグリーンスリーヴスが一緒になったということは、質、量ともに世界一のレゲエのカタログを擁していることになる。音楽の聴かれ方が変わっている現在、この膨大なカタログをどうファンに届けて行くのか、ファンとしては気になる。
「過去3から4年でデジタル化に向けて準備して来た。ランディは技術的な面で強いから対応はしている。まぁ、音楽は音楽で、どんなフォームであろうと人々に必要なものであることには変わりはない」
 
 最後に、趣味を訊いてみた。
「うーん、それを見つけないといけないと思ってる」と苦笑い。それから、「それが私の中で一番、日本人に近い部分なんだろうね」と、なかなか鋭いジョークで、取材を締めくくってくれた。

 


HISTORY OF VP RECORDS


1958年:
Vincent ChinとPatricia ChinがキングストンのEast & Tower StreetsにRandy's Recordsをオープン。

1962年:
Randy's Recordsがキングストンの17 North Paradeに移転。

1968年:
Studio 17を開設。

1970年:
Lee "Scratch" PerryがRandy'sで「Soul Rebel」を録音する。

1971-72年:
Clive ChinがImpact!レーベルを設立。Augustus Pabloと「Java」を録音。

1975年:
Burning Spearが Randy'sで「Marcus Garvey」を録音。

1976年:
Peter ToshがRandy'sで「Legalize It」と「Equal Rights」を録音。

1979年:
Vincent Chin がNYに渡り、VPレコード・ディストリビュターをクイーンズのジャマイカ地区に設立。

1991年:
レーベル事業をスタート。

1993年:
『Reggae Gold』シリーズ がスタート。

1997年:
Beenie Manの『Many Moods Of Moses』がグラミー賞にノミネートされ、同作収録の「Who Am I」がヒット。

2002年:
Atlantic Recordsと共同でSean Paulのセカンド・アルバム『Dutty Rock』をリリース。世界で600万枚以上をセールス。

2003年:
創立者の一人であるVincent Chin死去。

2005年:
Patricia Chinがファッション・ブランド、Riddim Drivenをスタ−ト。

2007年:
ヴィンテージ音源専門レーベル、17 North Parade をスタート。

2008年:
Randy'sが50周年を記念し、Clive Chin監修の下『Randy's 50th Anniversary』をリリース。同年、Greensleevesをグループ傘下に収める。

2009年:
VP Recordsが30周年。

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