Dubwise Revolution
Text by Kentaro Takahashi
KING TUBBY Photo by Shizuo "EC" Ishii
世界中のアンダーグラウンドな現場で日々生まれては消えて行くストリート・ミュージックの根底には、今なおキング・タビーが発明したDUBの手法が流れている。さて、そのDUBの魅力とは何なのか? そしてキング・タビーとは? 音楽評論家の高橋健太郎がひも解く。
二十世紀を代表する音楽家を五人挙げろ、と言われたら、あなたは誰を選ぶだろうか? たぶん、答えは十人十色。あっという間にクラシックからジャズからロックから、偉大なる音楽家達の名前が上がって、膨大なリストが出来るのではないかと思う。
だが、五人の中にキング・タビーを含める人はどれほどいるだろうか。たぶん、上位百位や二百位の中にも、タビーの名前を見つけるのは難しいだろう。それ以前に、そもそも彼は音楽家とは言えないのかもしれないし。
しかし、二十世紀の音楽を変えた人間の一人としてなら、キング・タビーの名前は決して忘れることができない。なにしろ、1980年代以降のダンス・ミュージックやクラブ・ミュージックのほとんどすべては、キング・タビーの影響下にあると言ってもいいのだから。
かつて、そのことを僕に雄弁に語って聞かせたのはノーマン・クックだった。ファットボーイ・スリムの、ではない。彼がビーツ・インターナショナルとして最初のアルバムを発表した直後の1990年、コールドカットとともにDJとして初来日した時のことだ。もう18年も前になるが、その後の音楽史を見れば、キング・タビーの影響力は今なお、日に日に増すばかりなのが分かる。
キング・タビーはその前年の1989年の2月6日、キングストンの路上で何者かに射殺されて、48年の生涯を閉じている。事件は物盗りの犯行だろうと言われている。
「今の音楽はみんなキング・タビーが始めたことの影響を受けている。なのに、彼はずっとゲットーで暮らしていて、25ドルかそこらのために殺されてしまった。そんなひどいことってあるかい?」
ノーマン・クックはそう言った。
キング・タビーがダブを発明したのは60年代半ば。レゲエという言葉がまだ生まれる以前、ロック・ステディの時代だった。
1941年1月28日生まれのキング・タビーことオズボーン・ルドックは、小さい頃から手先が器用で、十代の頃にはもうハンダごてを握り、ゲットーでラジオやテレビの修理をしていたらしい。その後、デューク・リードに雇われて、レコードのカッティング・エンジニアに。また、自分自身でホームタウン・ハイファイというサウンド・システムを始める。
当時、ジャマイカではシングル盤のB面にヴァージョンと呼ばれるカラオケを収録することが多くなっていた。ヴァージョンを作るには、ヴォーカル入りのトラックからヴォーカルを抜く。が、途中で逆に、オケを抜いてみたらどうだろう? タビーはそう考えたのかもしれない。
カッティングのスタジオには、2トラックのレコーダーしかなかった。だが、曲の途中でヴォーカルが抜けたり、逆にヴォーカルだけが残って、オケが消えたり。そこにエコーやリヴァーブを加えてみたり。カッティングの合間に、タビーはそんなことをして遊んでいたのだろう。
ある日、そうやって作ったダブ・プレイトをサウンド・システムでプレイしてみると、人々は強烈な反応を示した。当時は、それをダブ・プレイトと呼んだかどうかは定かではないが。
タビーのホームタウン・ハイファイには、DJとしてU・ロイがいた。ほどなく、U・ロイはそのダブ・プレートに乗せて、サウンド・システムで喋り始める。言うまでもなく、それが後のダンスホール・レゲエ、ラップ〜ヒップホップへと連なるMC文化の発祥でもある。
LEE PERRY Photo by Sonny Ochiai
60年代の終わり頃には、タビーはバーニー・リーのもとで、アグロヴェイターズと組んで、たくさんのダブ・レコードを作り始める。以後のキングの快進撃はレゲエ・ファンならば、よく知るところだろう。70年代以後は自らのスタジオを拠点に、リー・ペリーとタッグを組んだ『BLACKBOARD JUNGLE DUB』や、熱帯の夜空も凍るような美しさを持つダブ・アルバムの金字塔、『KING TUBBY MEETS ROCKERS UPTOWN』(オーガスタス・パブロ)などなど、数多くの名作を残して、ジャマイカのみならず、世界の音楽シーンに衝撃を与えていく。
ノーマン・クックの証言にあるように、タビーの発明したダブの手法は、ヒップホップ、ハウス、テクノ、ブレイクビーツ、ジャングル、ドラムンベース、エレクトロニカなどなどに通底するアイデアとなって、80年代、90年代、そして、この2000年代に至るまで、ダンス・ミュージックの世界を席巻し続けてきた。ロック・シーンにおいても、ニューウェイヴ時期のクラッシュやポップ・グループから昨今のビョークやポーティスヘッドなどに至るまで、ダブに影響を受けながら、アブストラクトな音像を生み出しているアーティストは枚挙のいとまがない。
しかし、それほどまでに巨大な音楽の革命を引き起こしたにもかかわらず、キング・タビーは町工場のおっちゃん然とした、スター性とは無縁の人間だった。タビーはダブの哲学を声高に語ったりするような人間でもなかっただろう。ただ、機械いじりが好きで、音で遊ぶのが好きで、そして、人々を踊らすのが生き甲斐のオヤジだったに違いない。
思うに、音楽家と呼ばれる人々は、この世になかったようなメロディーやコードやリズムを生み出そうとする人々であるかもしれない。キング・タビーにはそういう音楽家としての志はなかった。だが、ひょっとすると、彼は知っていたのかもしれない。この世になかったようなメロディーやコードやリズムを作り出そうとする音楽家の限界を。僕はそんな風に思うこともある。
ダブとは何だろう? ダブの強さとは何だろう? 僕がそれを深く考えるようになったのは、ちょうど、タビーの死の前後だった。1990年に僕は『音楽の未来に蘇るもの』という本を書き上げた。それは主に僕の80年代の音楽体験から導き出されたものだった。パンク、ニューウェイヴ、ヒップホップ、ハウス、アフロ、ラテンなどなど。だが、一番最後の章を僕はキング・タビーに捧げている。
ダブは新しい何かを付け足していくことよりも、すでにある何かを削っていくことから生まれた。反復するはずのベースラインが消える。ドラムのビートが消える。だが、聞こえるはずのものが聞こえなくなったその瞬間に、人はそのベースラインやドラム・ビートがそこにあったことをより強く感じるのだ。ダブはそういう意味では、記憶ということと深く結びついた音楽手法だとも言える。
そういえば、こんな話がある。喫茶店で小さな音でBGMがかかっている。話に夢中で、あなたは何がかかっているかなど全然、意識していない。だが、BGMが一周して、同じ曲が二回目にかかった瞬間に、ああ、さっきもこの曲がかかった、と気づくことがないだろうか。一回目は意識にも昇らない。が、二回目にはハッとする。どうやら、人間はそんな風に音楽を聞いているらしい。
NORMAN COOK (BEATS INTERNATIONAL) Tokyo 1992.7.4 Photo by Ishida Masataka
過去の記憶と照らし合わせた時にスパークする何か。音楽というのは、それを巧みに使って、人々を高揚させるのかもしれない。ダブはそこをピンポイントで突いてくる。新しいメロディーやコードやリズムを生み出すことよりも、記憶を揺さぶることの方が、より深いグルーヴの中に人を誘いこむ力を持つということをタビーは誰よりもよく知っていたのではないか。
皮肉なことに、キング・タビー、その人についてもまた、ふっと消えてしまってから、人々はその存在の大きさを強く意識するようになった。たいした量の写真も残っていなければ、まともなインタヴューも残っているのかどうか。
だが、彼のレコードは残っている。これほどまでにダブの手法が世界中の音楽シーンに浸透した今も、それらはインパクトを失うことがない。
現代のダブ・ミックスはほとんどすべて、コンピューターライズドだ。オンオフのポイントも、エフェクトのセンドリターンも、フェーダー操作もすべてデジタルで正確に制御される。それに比べたら、タビーが始めた頃のダブは、恐ろしくプリミティヴなシステムで作られたものだった。トラックから8トラック程度のミキシング・デスクに向って、その場のイマジネーションで、手作業で即興的にミックスしていた。あたかも、ジャズ・ミュージシャンのインプロヴィゼーションのように。
もしも、現代のコンピューターライズドのダブしか知らない人がいたら、一度、そんな70年代のキング・タビーのダブを聞いてみるといい。ゲットーのスタジオのおっちゃんであり続けた天才の、音楽の限界を超えようとした大胆さと繊細さが伝わるはずだ。
「音楽の未来に蘇るもの—ポップ・ミュージックの進化と深化」
(太田出版)
高橋健太郎 著