【解 説】
(1)→1940年代半ばにハーバー・ストリートにスタンレー・モッタが開いた家電店の一角に小さなスタジオ・コーナーがあった。このスタジオは1930年代頃からイギリスの駅などでよくみられた、誰でも簡単にSP盤が作れる簡易スタジオで、出来合いのトラックにボーカルを重ね、直接盤に刻み付けるというスタイルのもの。モッタのスタジオではカリプソやメントの作品が多くレコーディングされた。モッタはその後スタジオ運営からは撤退したが、家電店のほうは拡張を続け、現在は島内全域に支店を持つ一大家電チェーンとなっている。
(2)→1949年に中古のレコーディング機材を買い、キング・ストリートにあった自身が経営する家具店脇にスタジオを設置。その後、セント・アンドリューのナイトクラブに一時期移転するが、再びダウンタウンに戻り、同時に「Times Record」レーベルを興す。クォーリはRecords Limitedという会社名で米マーキュリー、RCAの流通業務も行っていたが、それらで得た利益を機材に投資し、レコード・プレスの設備を導入。その後、弟のリチャードと共に貸しスタジオ、レーベル、プレス工場を一体化させたFederal Recording Limitedを始める。50年代半ばから60年代初めにかけて、このクォーリのビジネスの恩恵を最も受けたのは、クリス・ブラックウェルやエドワード・シアガのように資金が潤沢で英米に自由に行き来できるプロデューサーではなく、コクソンやプリンス・バスター、あるいはデュークのようなプロデューサーだったと言われている。彼らはクォーリのスタジオとプレス工場を活用して自らの土台を作った。
(3)→ダダ・アトゥーリとも呼ばれる。Caribouレーベルのオーナー。ロード・タナモやローレル・エイトキンスらのリリースもある。
(4)→チボリ・ガーデン近辺は有名なゲットー。現在はスウォッチ・インターナショナル主宰のパサ・パサで有名な地区。
(5)→1930年代に放送開始。BBCの放送を島内に流していたが、放送時間は当初、朝から夕刻までだった。
(6)→50年代前半にキングストンで人気があったセットは、Tom the Great Sebastian's, V Rocket, King Edwards, Sir Nick, Nation, Admiral Cosmic, Lord Koos, Kelly's, Bucklesなど。中でもTom the Great Sebastian'sは他のセットよりも遥かに多いスピーカーと高性能のアンプを有していたため「house of joy」と呼ばれていた。万人受けする音楽を重視したラジオとは異なり、当時のダンスでは激しいR&B、ラテン・ジャズ、地元産のメント、メレンゲなどが積極的にプレイされていた。
(7)→1960年、Starlightレーベルからローレル・エイトキンの「Boogie in my bones」がUKでライセンス・リリースされたのに続き、Melodiscのエミル・シャリットが同じくローレル・エイトキンの「Lonesome lover」をロンドンで録音しリリースした。エミル・シャリットは1946年にMelodiscを創設。ジャズ、ブルーズ、R&Bのレコードをライセンス販売していたが、「Lonesome lover」の好セールスにジャマイカン・ブギーの波が襲来したことを感知する。Melodiscの系列レーベルとしてBlue Beatを同年八月に立ち上げ、その第一号シングルとしてローレル・エイトキンの「Boogie Rock」(ロンドン制作)をリリース。同年中に合計24枚のシングルを制作した。以後、1965年までに300枚以上の作品をリリースし、Dice Limbo, Duke, Chek, Rainbow, Fabなどの系列レーベルを立ち上げた。Blue Beatに音源を提供したジャマイカの代表的なプロデューサーはコクソン、デューク・リード、エドワード・シアガ、デリック・ハリオット、ケン・クォーリ、SLスミスなど。その影響力は大きく、このレーベル名はジャマイカン・ブギー〜スカ〜ロックステディ期に至るまで、UKではジャマイカ音楽の同義語として用いられた。
★Blue Beatより1960年中にリリースされた主なシングル★
Jiving Junior「Lollipop Girls」, Higgs & Wilson「Manny Oh」, Keith & Enid「Worried over you」, Mello Larks「Time to pray」, Theophilus Beckford「Easy snappin'」, The Duke Reid Group「What makes honey」「The Joker」「Duke's Cookies」
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