ま ランキン・タクシーに「日本語レゲエDee Jayの祖」というよく知られた枕詞を冠すること自体が、アーティスト、ランキン・タクシーを読み解く上で、障害となる場合があるのではないだろうかと思う時がある。もちろんその「日本語レゲエDee Jayの祖」という部分を軽視しているのではない。それは大きな賞賛に値する。ただ、その「ビッグ・ファーザー」的な位置づけが、当人が有している「過激なユーモア」、「批判精神」、「社会性」というラジカルな個性に焦点を合わせにくくしている、とも思うのだ。
ランキン・タクシーは、ジャパニーズ・レゲエ界において、最もパンクで、毒気が強く、知性的で、リリックの行間に深い意味を含ませたDee Jayである。大人げもあまりない。そしてそれがランキン・タクシーがDee Jayとして目指した芸風なのだと思う。かつて、昭和40年代の演芸番組でよく目にした往年の芸人さんたち。ウクレレ時事漫談の牧伸二。落語をやらない名人林家三平。日本一の無責任男を演じた植木等。そうしたパンクな芸人のDNAを受け継ぎ、カリブ圏におけるカリプソ・シンガーやレゲエDee Jayに、同様な存在感の一致を見て取り、そこに豊富な音楽的経験値を融合させた最もトンガった音楽表現を求めて、タクシー・ハイファイは建造されたのだ(と思う)。そんな過激な芸の道を行く男に、「業界のリーダー」的なイメージは、プラスだったのかマイナスだったのか。
「大事なことはつまらない場合が多いんです。だから笑いの要素を含ませるのは非常に重要なことなんですね。エデュテインメントですかね。教育とエンタテインメントを融合させること。それが日本の音楽界に最も少なかったんじゃないかと思う。そういうことから刺激を受けることが、何かもっと面白いことに繋がるんじゃないか、って思ってましたから。だからその辺の部分を自分的にがんばって来たら、こういうキャラが出来上がってきたのかな」
ランキンさんの曲の大きな特徴である「社会性と毒と笑い」についての回答である。
ランキンさんが初めてジャマイカの地を訪れたのは83年。当時30歳だったという。最初のタクシー・ハイファイの制作が翌84年。最初の録音物であるアルバム『火事だぁ』がリリースされたのが、89年。当時でランキン・タクシー36歳。すでにいい大人だが、やはり初期の作品からはランキンさんの若さや、真面目にフザけたキャラに取り組んでいた面が見受られる。現在のジャパニーズ・レゲエ・マーケットなど存在していなかった90年代前半、声優業や、文化人的なアプローチも含め、ランキン・タクシーは、己の道を突き詰め、かつ模索していた。
「それは転機だったと言えますね、やっぱりあの事故は。あの怪我以来、考え方も変わったし、勉強になりましたね。右半身に障害が残った影響で、左手をよく使うせいか、右脳が刺激されて、アイディアが次から次ぎへと湧いて来るんですよ(笑)。その分だけね、自分では死期が近いんだと思う(笑)。冗談みたいに言ってますけど、半ば、本気ですから」
'02年10月の、「ソウル・レベル」直前の自転車事故についてのことだ。その事故後、ランキン・タクシーは長期のリハビリと幾度もの手術を経験することとなる。だが、その経験を経て以降、体力的にも、声の調子的にも、以前より増してパワー・アップしたのだと言う。その状態で制作されたのが前作『アミシャツ魂』なのだ。
「声が調子いいですね、前より。歩ける、歌える、チ○コ勃つ、っていう。こんなことがそうそう長く続く訳ないなと思って。だから今のうちにどんどん作品を出したいんですよね。出来ることならホーム・Gバックでワンマンのショウやって、冥土の土産にDVDにしたいですね」
そんな縁起でもないことをサラッと語るランキンさんの新作のテーマは「愛」。そのことについて語ってもらった。
「今までの、例えば“過激な”みたいことや“とんがった”みたいなことも、全て、その時々の自己表現な訳じゃないですか。今は、私も歳も取って、包容力のある人間になってきた。そういう自分を表現することに抵抗も無くなってきたから、“愛”みたいなことにも取り込めると、そういうことですかね。“愛”をテーマって言っても色んなタイプのものがあるし。大体、“ワン・ラヴ”自体がこじつけじゃないですか(笑)。そういうことも踏まえて色んな形の“愛”を作品にしたかった、ていうのはありますよね。でも最終的には“ふっくらマンゴー”っていうのも盛り込んでいきたいですけどね」
20年を超えるキャリアを通じて、もしかして、今が、そしてこれからが、最も、Dee Jay=ランキン・タクシーとして、作品の世界観とキャラが一致し、ランキンさんの追い求めた芸風が完成していく時代に突入するのではないだろうか。それはやはりズルムケ度の違いや、力の抜け具合や、吹っ切れ度の違いがそうさせたのか。過去のランキンさんを決して否定している訳ではない。この円熟の域に達したことによって、ランキンさんの過去の作品にも、更に理解が深まっていくのではないかと思うのだ。ジャパレゲ・マーケットも確立し、リスナーも増えた、これからが「日本で最初にサウンド・システムを始めた祖」である偉大なる父、ランキン・タクシーの作品世界への真の評価が始まるのかも知れない。
「自分の作品が大好きなんです。いいなぁって思うんですよ。他の奴の曲はあんまり好きじゃなくても(笑)。オレの曲の方がいいのになぁ、って(笑)。だからいまだに私はフェスでのトリを狙ってますよ。プシンよりもファイヤー・Bよりも後に、私が出て来てトリを務める。真剣に言ってますから、これ」
偉大なる父は、最後に大人げなくそう語ってくれた。
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