日本屈指のベーシスト、松永孝義初のソロ・アルバム、その名も『The Main Man』が遂に完成した。一筋縄ではいかない凄腕ミュージシャンを迎えた本作は、生涯聴き続けることの出来る素晴らし過ぎる内容に仕上った。さて、それ程の作品を創った松永孝義とは一体何者なのか、そして彼の音楽の背景にあるものは?…インタビューを交え解読する。

  1958年2月27日、ベーシスト松永孝義は東京に生まれた。「よく覚えてはいないんだけれど、子供の頃バイオリンを習った記憶がある」。これが松永と楽器の出会いという事になる。中学時代はいわゆるロック少年だった。高校1年生の時、松永はどうしてもウッド・ベースがほしくなった。「一生懸命にアルバイトに精を出した。結局は高い物だから親がかなり負担してくれたんだけれどね」。そうして初めて本当にほしいと思った楽器を手に入れた。その当時、ウッド・ベースを持つ高校生は少なかった。こうやって、音との生活が始まった。「友人にジャズ狂いがいて、マイルス・デイヴィスを教わった。そして『リラクシン』というアルバムを聞いて、ベーシストのポール・チェンバースのベースラインに魅了されたんだよ」。そしてポール・チェンバースのベースをコピーする事が始まった。ベースを弾き出して間もない松永が超、超一流ミュージシャンであるポール・チェンバースのコピーをする事は大変だった。「小学生がいきなり『六法全書』を勉強する様なもんだよ」。来る日も来る日も松永は憑かれた様にポール・チェンバースのコピーを続けた。1年後、やっと何とか満足できる音が出る様になっていた。

 大学進学を考えなくてはならなくなった高校2年生の時、松永は大きな病気をした。片足に障害が残る程の大病だった。しかし松永はこの病気の事を今まで、殆ど人には話した事がない。「退院して進路を考えなくてはならなくなった時、反対していた親を説得してくれたのが、エレクトーンの先生をしていた親戚の叔父さんだったんだよね。『この病気はこの先どうなるかわからないから、孝義には好きな事をやらせてやれ』ってね」。音楽関係の学校に進む事を反対していた松永の親もこの一言で納得せざるを得なかった。

 名門音大の国立音大に進んだ。師事する事になったのはクラッシックのN響のトップ奏者の中博昭先生だった。「この先生は、吸引力のある強い親父というイメージの人で、強力な人だったよ」。大学生活は毎日毎日、ベースの練習ばかり。大変だったが辛くはなかった。「学校の休みがくるのが嫌で嫌でしょうがなかった。家で独りきりで練習をしていると、強い焦燥感が生まれてしまう。だから長い休みは特に嫌だった」。それ程までにベースに取り憑かれた。
 練習に時間をとられるあまり、その他の単位を落とし大学は一年留年し、卒業した。

 大学を卒業した24歳から、松永曰く、「思い出したくもない、暗黒の時代」が始まる。卒業後、プロのオーケストラ、クラッシックの世界を目指した。しかし終身雇用を前提とするプロのオーケストラには、なかなか団員の空きはなかった。空きを待ちながら、声をかけられればオーケストラのエキストラに行ったり、大型キャバレーのハコバンのオーディションを受けたりした。「いい思い出が無いんだよね。ジャズは好きだったけど、ジャズのバンドにはいじめが多くてね。ついて行けなかった」。当時、世間は、音楽で飯を食おうとする若者にはリアルで、シビアだった。しかし松永は音楽を続けた。いや体の事もあって続けるしかなかった。「自分にとっては仕事の選択技が狭かったから、音楽を続けられた。だから大病した事も考え方によってはラッキーな事だった。じゃなかったら音楽を続けられなかったかも…」

 そんな中、ひょんな事からピアニカ前田氏と知り合い、誘われて原宿の「クロコダイル」でMUTE BEATを観た。松永の運命を大きく変えるMUTE BEATとの出会いだった。「これやったらかっこいいじゃん、ワーッといった感じだったよね」。更にメンバーになってからの印象を次の様に言う。「MUTE BEATはメンバー全員、何がやりたいかがはっきりしていたバンドだった。同時代感は凄かったね」。しかし一方ではMUTE BEATが本筋とは思えない気持ちもあったそうだ。松永曰く、「音楽的な悪あがき」は続いた。バンドネオンの小松亮太氏のご両親がやっていたバンドに参加したのもそんな頃だった。そして降ってわいたタンゴ・ブーム。松永は俄然忙しくなった。MUTE BEATから広がった人脈と世界は、松永にやっとプロのミュージシャンとしてやっていけそうだという確信を与えた。こうして松永にとっての「暗黒の時代」は終わりを告げた。

 90年代松永は様々な音楽活動に参加した。トマトス、ラブジョイ、リング・リングス、ロンサム・ストリングス等を始め、様々なセッション、レコーディングへの参加。松永の90年代のレコーディングのスケジュールを一覧表にすれば、きっと「もう一つの90年代の日本の音楽史」ができるだろう。松永はここ十数年ズーッと忙しかった。

 3年程前、かつてMUTE BEATをプロデュースしたオーバーヒート・レコードから松永孝義自身のソロ・アルバムの話があった。心底迷ったという。「昨年の暮れは最悪だった」という。2004年。年が明け松永の気持ちは決まった。

 ソロ・アルバムのレコーディングは順調に進んだ。「自分は小心者だからさ、皆とのコミュニケーションだけはちゃんとした。信頼感が凄くいい面にでて、とてもスケールの大きいアルバムになったと思うよ。それにしてもメンバーは豪華だよね」。松永の呼びかけに一も二もなく集まった超一流ミュージシャン達に松永は絶対の信頼を置く。メンバーは「音楽を作り続ける事と生きる事がイコール」な人達だ。松永曰く「一流シェフが3分クッキングをした様なもの」

 こうして46歳の新人(?)は7月にソロ・デビューする。最後に松永は言った「自分だったらお金を出して買うな。というアルバムを作ったよ」

 同じく7月には原宿アストロホールで、豪華なレコーディング・メンバーそのままでのソロ・コンサートも決まっている。新人松永孝義にソロ・コンサートに対する決意を訊くと、髭の中の口が優しく微笑んだだけだった。




"『The Main Man』
松永孝義
[Rum Town / Overheat / OVE-0091]
※試聴できます
【松永孝義『The Main Man』発売記念コンサート】7月16日(金)原宿Astro Hall 開場/20時 開演/21時
前売/¥3,000 当日/¥3,500[問]Overheat Music/03-3406-8970 原宿Astro Hall/03-3402-3089