OVERHEAT Records初のアルバム・リリースはレゲエでもHIP HOPでもなくゲイリー・パンターのアルバム『Pray For Smarph』だった。彼曰く“サイケデリック・カントリー・ミュージック”(ウ〜ム!)だそうだが、自らギターと歌を担当、参加ミュージシャンはレジデンツを始め、イアン・マクレガン、小原礼など錚々たるメンバー、というかジャンルを超越した内容で今でも「再発したい!」と思っているほど。

もし、持ってる人がいたらヤフ−・オークションで1億円くらいから出してつり上げておいて下さい(何しろ俺は5枚持ってるので…)。英NME紙でも紹介されたりと、その筋ではかなりの評判になった。が、本来ゲイリーは父が画家でもあり東テキサス大学でアートを専攻したアーティストである。その才能ゆえにアートバグ(アートのうざったい虫)と自称し、油絵は当然のこと、カトゥーンやイラストレーション、デザイン、最近ではライトショウの展覧会もこなしている。

おっと、有名なところでは70年代のフランク・ザッパのアルバムや、レッチリなどのアルバムのアートワークを手掛け「Pee-wee's Play House」というTV番組のステージデザインでは3度に渡ってエミー賞を受賞。コマーシャル・アートだとかファイン・アートだとかいう垣根なんか奴には 存在しない。そんな偉大なアーティストが本誌『Riddim』で「DAL TOKYO」を10年間連載中。腐れ縁とは言えオソロシイ話である。



OVEERHEATの原画コレクション。上からミーティングルームにある原画“FIRE FLIES”(1986)と80年代中期の作品(左)と石井コレクション(中)。右はシルク・プリントでレコーディング・スタジオにかかっている。別作品2点もあり。
 なぜ、突然ゲイリ−氏の記事を書いたかというと「DALTOKYO」を見た読者から「あれってナンですか?」という投書があったからだ(笑)。困ったモンですが、「音楽ってナンですか?」の類いの質問に答えるのもたまにはいいなと今月は出血増ページしてみた。もちろん正解は「絵」です。ア〜馬鹿馬鹿しい?

さて、ゲイリ−はフィリップ・K・ディック(『トータルリコール』、『ブレードランナー』、『スクリーマーズ』等のSF作家)とも親交があり、彼が亡くなった時にはゲイリ−がプレゼントした“ROZZTOX”という彼の創り出したキャラクターをプリントした Tシャツをきれいに洗って着ていた。LA在住時代の話である。

そうだ。ゲイリ−と初めて会ったのは1980年のLA。俺もまだ額と頭部の区別があった頃か。メルローズにあったCITY CAFEでその“ROZZTOX”という作品を見たんだ。それはシカゴにあるPicassoの鉄製巨大スカルプチャーをモチーフにしたペインティング。こいつは会うしかないぞと天の声を聞いた俺は、彼の電話番号を手に入れ自宅を訪問。見ず知らずの英語風日本語をしゃべる侵入者を快く歓迎してくれた上に、ピーウィ−・ハーマンのショウのためのポスターにサインまでしてくれた。「なんて書くの?」というから「"To My Best Friend" と書いて」と答えた。だが彼は単に俺の名前を聞いただけだった。アア! でも初対面でそのサインをゲットしたんだから俺もやり手か。


今まで多くのレコードジャケットをやってきたがインディーズではラルフ・レコード。メジャーではレッチリからF・ザッパ。ゴジラの大ファンである彼が日本のみのトリビュートCDも描いた。 83年、最初の来日時、西武スタジオ200でのライヴペインティングでは素手と筆でモンスターをあっという間に描き上げた。
 81年、マンハッタンのヴィレッジにあるパンク・ショップで一個のバッジを何気なく買った。日本に帰って驚いた。ゲイリ−が描いたモンスターがついていた。後に「マウス」というカトゥーンでピュ−リッツア賞を取るアート・スピーゲルマンという男が出版していた『RAW』というコミック誌にも出入りしたり、トニ−・シャフラジー・ギャラリーでキース・ヘリング最初の大きな個展でバスキュアにも出会ったりしていたころだ。その『RAW』誌の表紙にゲイリ−の「JIMBO」が使われた。

カトゥーン作品としての代表作「JIMBO」シリーズ。上左は『Riddim』で連載中の「DALTOKYO」編。フランスで最初出版されたが、これは米Zongo社からのもの。上右から2番目の「JIMBO」は大手出版社ランダムハウス社刊。上右写真の「COLA MADNES」は84年に完成したが、預かった俺が日本で出版できず01年Funny Garbage booksから出た。序文と恥じを書いた。でも人生最高の勲章。

(上左)日本のPARCOのための時計デザイン3点のうち不採用になった作品だが、これが一番アートしていた。キャラクターの3Dか? 上右がTシャツや「JIMBO」の中に出てくるキャラクターの“ROZZOTOX”だ。モチーフは、シカゴにあるピカソの巨大スカルプチャー(上中写真)。3〜4時間探して見に行きました。


Pee-Weeもののカード。TV番組のなかのキャラクター・フィギュアも売られていた。ヴィデオで出ていた作品が最近DVDで再発されているらしい。 ペラ1色から始まった『Riddim』が2色になり8ページになり…。95年10月号の『Riddim』150号記念のカバーを描いてもらった!
俺が150という数字か黒人かゴジラを、とラフを描いてFAXしたら全部描いてきた。サービス?


 1〜2年後のLA。友だちだったスティーブ・サミオフのファイン・アート・ギャラリーで今度はかなりの数のゲイリ−作品を見る機会を得た。欲しかった。でも僕には当然ながら到底手の出ない価格だった。都築響一も欲しかったと後で聞いた。響一君と征木高司君と俺の3人で銀座の某ギャラリーにウオ−ホルのミック・ジャガー・シリーズを買い叩くべく、それぞれが当時のかみさんのカネやガールフレンドのカネを懐に握りしめ、全部買うからと言ってまんまと値切り倒したのもそういえばその頃だ。だが、ゲイリ−の作品を見てからの俺はウオ−ホルにはさっぱり興味がなくなった。それよりはゲイリ−だと、代表作「JIMBO」を日本で出版する権利を譲り受け、来日もしてもらい、ライヴ・ペインティングをやったのも懐かしい。「ディックよりはアンソニー・バージェス(『時計仕掛けのオレンジ』等の原作者)の架空の文字を使った小説に影響を受けているかもね」と言い、「JIMBO」や「DALTOKYO」をペインティングと同様、アートとして描き続けていた。

 その後NYに移住した彼はウイリアムズバーグ・ブリッジを渡ったブルックリンにアトリエを構えてマイペースで作品を発表していたので、ちょこちょこと遊びに出かけ作品を見せてもらっては頭に焼きつけて帰ってきた。ある時などは前後の見境もなく売約までした。NYでもフィリップ・スタルクに頼まれて、ホテルのキッズルームのデザインをしたりクライスラー・アワードを取ったりと八面六臂の活躍。本誌では今まで彼のカラー作品をお見せしてなかったから、文字はもう書きすぎ。だからカラーをじっくりと!

ブルックリンのスタジオで本誌に連載中「DALTOKYO」の原画を手にしたゲイリー。今月引っ越し予定。 「JIMBO」の中に出てくる“フルーク”と言うキャラクターのステッカーを4SIGHT SKATE BOARDSから10名にプレゼント! 編集部まで。