「リントン行きました? かっこ良かったですね。ドリフみたいだよね、踊りが。いいよね。光ってるっていうか。あの人が出てきただけで空気がさぁ、くわぁーって…」
99年9月19日に新宿リキッド・ルームで行われたリントン・クウェシ・ジョンソンのライヴを見た3日後に、たまたまUAのインタビューをする機会があって、そのとき、UAがこんなことを言っていたのだった。
で、このときのリントンのライヴでは、リトル・テンポが前座を勤めていた。共演こそなかったが、リトル・テンポは、Little
Tempo Meets Eddi Reader, Linton Kwesi Johnsonとしてリリースした『Usual
Things』(99年)に収録されている「Night Song」という曲で、リントンと共演していた。この曲からはその後、「Night
Song Dub」「Dub In The Night」というダブ・ヴァージョンも生まれた。
というわけで、今回の "Dub No Dead" は、UAもリトル・テンポもリスペクトしているリントン・クウェシ・ジョンソンです。
LKJことリントン・クウェシ・ジョンソンは、52年8月24日にジャマイカの農村で生まれた。そして63年、母親に連れられて渡英。
イギリス在住の黒人の多くは、40年代末から60年代初頭にかけて、主に経済的理由でジャマイカをはじめとする西インド諸島から移民してきた人とその子孫だ。
リントンはその後、ロンドン大学ゴールドスミス校に進んで社会学を学び、先鋭的黒人解放運動を繰り広げていた組織、ブラック・パンサーに入ったり、ポエトリーのワークショップをオーガナイズしたりするようになる。
そして『ドレッド・ビート・アン・ブラッド』(78年)で鮮烈にデビューした。
ポリティカルなポエトリーをレゲエのビートに乗せたそのクールなスタイルには、ジャマイカのDJとはまったく異なる重さがあった。当時のイギリスの、不景気で暗い雰囲気のなかを肩をすくめて歩いていた在英ジャマイカ人の感覚が、その音のなかに見事に刻み込まれていた。
エンジニアはデニス・ボーヴェル。デニス・ボーヴェルは、いずれこのコーナーで単独に取り上げられるはずなので、ここでは深入りしないが、この後、リントン・クウェシ・ジョンソン名義のすべてのアルバムで音楽面を担当する最も重要な相棒になる。
リントンはその後、『フォーシズ・オブ・ヴィクトリー』(79年)、『ベース・カルチャー』(80年)、『LKJ・イン・ダブ』(81年)、『メイキング・ヒストリー』(84年)、『LKJ・ライヴ・イン・コンサート』(85年)と順調にリリースを続け、その間にも、83年に暗殺されたマイケル・スミスというダブ・ポエットの『ミ・キャーン・ビリーヴ・イット』(82年)をプロデュースしたり、ジャマイカのフォークソングを歌うルイーズ・ベネットの『ミス・ルー・ライヴ!』(83年)に参加したりした。そして、85年10月28日に中野サンプラザで初来日公演を行なう。このときの前座はミュート・ビートだった。
リントンはあくまでもダブ・ポエットであり、リントン自身がミキシング卓を操作しているわけではない。それでも、リントンのアルバムの音はリントンの音になる。デニスによる音は、リントンのポエトリーが契機となって出てくるのだ。そしてそのリントンのポエトリーは、在英ジャマイカンが置かれた厳しい立場から出てきたものなのだ。
つまり、『LKJ・イン・ダブ』では、もはやリントンのポエットそのものが消されているわけだが、それでもこのダブ・アルバムは、当時の時代背景や、在英ジャマイカンの日常が想像できなくては聴くことができない。
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(1) "LKJ In Dub"
Linton Kwesi Johnson
[Mango]
(2) "LKJ In Dub
Volume Two"
Linton Kwesi Johnson
[LKJ Records]
(3) "Dread Beat
An' Blood"
Linton Kwesi Johnson
[Island]
(4) "Bass Culture"
Linton Kwesi Johnson
[Island]
(5) "Making History"
Linton Kwesi Johnson
[Island]
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