Linton Kwesi Johnson

 5回目となる "Dub No Dead" は、78年、衝撃的なアルバム『Dread Beat An' Blood』を世に送り出し、レゲエ・ファンのみならず、パンク、ニュー・ウェイヴ世代をも巻き込み、世間に一撃を与えたリントン・クウェシ・ジョンソンが登場。全盛期の84年に彼を取材した石田昌隆氏が彼の魅力を語る。

Text & Photo by Masataka Ishida

 「リントン行きました? かっこ良かったですね。ドリフみたいだよね、踊りが。いいよね。光ってるっていうか。あの人が出てきただけで空気がさぁ、くわぁーって…」
 99年9月19日に新宿リキッド・ルームで行われたリントン・クウェシ・ジョンソンのライヴを見た3日後に、たまたまUAのインタビューをする機会があって、そのとき、UAがこんなことを言っていたのだった。
 で、このときのリントンのライヴでは、リトル・テンポが前座を勤めていた。共演こそなかったが、リトル・テンポは、Little Tempo Meets Eddi Reader, Linton Kwesi Johnsonとしてリリースした『Usual Things』(99年)に収録されている「Night Song」という曲で、リントンと共演していた。この曲からはその後、「Night Song Dub」「Dub In The Night」というダブ・ヴァージョンも生まれた。
 というわけで、今回の "Dub No Dead" は、UAもリトル・テンポもリスペクトしているリントン・クウェシ・ジョンソンです。

 LKJことリントン・クウェシ・ジョンソンは、52年8月24日にジャマイカの農村で生まれた。そして63年、母親に連れられて渡英。
 イギリス在住の黒人の多くは、40年代末から60年代初頭にかけて、主に経済的理由でジャマイカをはじめとする西インド諸島から移民してきた人とその子孫だ。
 リントンはその後、ロンドン大学ゴールドスミス校に進んで社会学を学び、先鋭的黒人解放運動を繰り広げていた組織、ブラック・パンサーに入ったり、ポエトリーのワークショップをオーガナイズしたりするようになる。
 そして『ドレッド・ビート・アン・ブラッド』(78年)で鮮烈にデビューした。
 ポリティカルなポエトリーをレゲエのビートに乗せたそのクールなスタイルには、ジャマイカのDJとはまったく異なる重さがあった。当時のイギリスの、不景気で暗い雰囲気のなかを肩をすくめて歩いていた在英ジャマイカ人の感覚が、その音のなかに見事に刻み込まれていた。
 エンジニアはデニス・ボーヴェル。デニス・ボーヴェルは、いずれこのコーナーで単独に取り上げられるはずなので、ここでは深入りしないが、この後、リントン・クウェシ・ジョンソン名義のすべてのアルバムで音楽面を担当する最も重要な相棒になる。
 リントンはその後、『フォーシズ・オブ・ヴィクトリー』(79年)、『ベース・カルチャー』(80年)、『LKJ・イン・ダブ』(81年)、『メイキング・ヒストリー』(84年)、『LKJ・ライヴ・イン・コンサート』(85年)と順調にリリースを続け、その間にも、83年に暗殺されたマイケル・スミスというダブ・ポエットの『ミ・キャーン・ビリーヴ・イット』(82年)をプロデュースしたり、ジャマイカのフォークソングを歌うルイーズ・ベネットの『ミス・ルー・ライヴ!』(83年)に参加したりした。そして、85年10月28日に中野サンプラザで初来日公演を行なう。このときの前座はミュート・ビートだった。
 リントンはあくまでもダブ・ポエットであり、リントン自身がミキシング卓を操作しているわけではない。それでも、リントンのアルバムの音はリントンの音になる。デニスによる音は、リントンのポエトリーが契機となって出てくるのだ。そしてそのリントンのポエトリーは、在英ジャマイカンが置かれた厳しい立場から出てきたものなのだ。
 つまり、『LKJ・イン・ダブ』では、もはやリントンのポエットそのものが消されているわけだが、それでもこのダブ・アルバムは、当時の時代背景や、在英ジャマイカンの日常が想像できなくては聴くことができない。

(1) "LKJ In Dub"
Linton Kwesi Johnson
[Mango]

(2) "LKJ In Dub Volume Two"
Linton Kwesi Johnson
[LKJ Records]

(3) "Dread Beat An' Blood"
Linton Kwesi Johnson
[Island]

(4) "Bass Culture"
Linton Kwesi Johnson
[Island]

(5) "Making History"
Linton Kwesi Johnson
[Island]

 このへんが、たとえばエンジニアとしての好奇心からダブをものにしたキング・タビーや、個人の狂気がダブの質を決定した部分が強いリー・ペリーなどと違って、若いレゲエ・ファンには伝わりずらいかもしれない。

 ぼくが初めてリントン・クウェシ・ジョンソンに会ったのは、84年8月31日。場所はロンドンのブリクストンにあるレイス・トゥデイ・コレクティヴという黒人解放運動を行っている団体のオフィスで。この写真は、インタヴューを終えた後、オフィスの前の路上で撮ったものだ。
 このころのロンドンは本当に暗い雰囲気に包まれていた。日曜日はほとんどの店がシャッターを下ろしていたし、土曜日だけでなく水曜日も半ドンで、午後になると街はシーンと静まり返っていた。
 そんな水曜日の午後、人通りが途絶えたブリクストンのマーケットのあたりで、ぼくは強盗にナイフを突きつけられて金を盗られた。幸いそのときは、5ポンドほどしか持ち合わせがなかったが。
 天気はどんよりした曇り空の日が多く、それがただでさえ暗い気分をいっそう落ち込ませていた。
 81年の暴動(人種差別主義者による放火とみられる火災で在英ジャマイカ人の子供が13人も焼死する事件があり、それをきっかけに大規模な暴動が起こった)からすでに3年経過していたが、状況はいっこうに改善される気配がなく、年々悪化し続けていた失業率は14パーセントを越えるまでになっていた。
 最近のロンドンの、好況に沸き、おしゃれなカフェが増え、メシも飛躍的にウマくなった姿しか知らない人には想像しずらいかもしれないが、リントン・クウェシ・ジョンソンの音楽は、当時のイギリスの絶望的な雰囲気のなかから聴こえてきたのである。

 リントンはその後、『ティングス・アン・タイムス』(91年)、『LKJ・イン・ダブ・ヴォリューム2』(92年)、『モア・タイム』(98年)と出してきた。
 リントン・クウェシ・ジョンソンの姿勢はデビュー以来一貫していて素晴らしい。しかし『ティングス・アン・タイムス』以後、ストリングスを導入してみたりとか、音の幅を広げる工夫はなさているが、イギリスの黒人音楽が、グラウンドビート〜ブリストル・サウンズ〜ドラムンベースと進化していくなか、以前のようなインパクトは薄れてきたな、というのが正直な感想ではある。
 99年9月19日のライヴも、実は前座のリトル・テンポのほうがずっと音が良かった。しかし、あのドリフのように踊りながら朗読するリントンの存在感は圧倒的だった。ほぼ年代順に曲を演ったところに、闘争が継続している証を見た思いがしたのである。