[1970'-1988]

Ska Flames
梅木マリの「マイ・ボーイ・ロリポップ」にまで、まさか戻る必要もないだろうが、オリンピック的に言えばABC順の日本よりひとつ前の国の音楽が、これほど一般的になるとはそう簡単に予想されることではなかった。68年のジョニー・ナッシュ「ホールド・ミー・タイト」もイクォールズの「ベイビー・カム・バック」も、あるいは翌69年のデズモンド・デッカー「イスラエルちゃん」も、AM局ではかなりオン・エアされ、日本盤できちんとリリースされた45回転シングルも相当の売り上げになったに違いないけれど、それらはヒット・ポップスとして紹介されたのであり、せいぜい軽めのR&Bとしか認知する術もなかったのだ。
渦中の人ジョン・レノンは確かに「70年代はレゲエの時代になる」と予言したけれど、御本人がレゲエのつもりで書いたのが「ドント・レット・ミー・ダウン」なのだから、その楽曲自体の素晴らしさとはもちろん別の話だが、ちゃんとわかって言ってたのかよお前と文句が出ても仕方のないところだろう。彼の名誉のためにさらに書き加えるなら、その曲や、あの妙なリズムで明るい「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」も、すぐにレゲエ界で頻繁にカヴァーされる人気曲になっている。
さて、その70年代に入ったはいいが、ジャマイカ音楽が日本でもリアル・タイムで聞けるなどという状況になるわけはない。やっと74年になって、アイランドの発売権があったキングから、ウェイラーズの『キャッチ・ア・ファイア』と日本編集のオムニバス『レガエ・ミュージック』がリリースされる。
同年夏はE・クラプトン「アイ・ショット・ザ・シェリフ」の大ヒットもあったが、まだしばらくはロック・ファンの中の柔軟な嗜好の持ち主に訴求する以外、業界サイドもレゲエの売り方が思い浮かばないのだ。75年にはアイランドの契約移行で東芝EMIからウェイラーズ『バーニン』と『ナッティ・ドレッド』発売。フォノグラムがトロージャン音源をいじり始め、その夏パイオニアーズとシマロンズが来日する。
76年はコロムビアが英ヴァージン経由でM・ダイアモンズとU・ロイを出したほか、ウェイラーズ、P・トッシュのファースト・ソロも日本盤LPで。こうやって書いていると、少しずつカタログが増えて嬉しいな、レコード棚のレゲエ・コーナーの幅も広がってきたし、というニュアンスで伝わっているのではないかと、とても心配になる。77年になっても日本盤LPの発売点数はたったの4。ウェイラーズ、B・ウェイラー、P・トッシュ、J・クリフのみという有様なのだ。レゲエに対するニーズは、大量にプレスされる産業ロック、あるいはディスコ、フュージョン系音楽の飽和状態に耐えられなくなっていた洋楽リスナーを中心に増えつつあったが、それに対応したのはむしろ、大手・外資系出現以前のインディで良心的な輸入盤屋さんだったと記しておくべきだろう。
それでは日本で最初にレゲエを採用したのは誰か。冒頭の梅木だと答えるのも丸かも知れないし、「オブ・ラ・ディ」をカヴァーした末期GSの某という返事の仕方も正解かも知れない。が、ここでは少なくともレゲエに対してミュージシャン側も意識的になってからの話。では誰なのか。僕には答えられない。先にエクスキューズを書いてしまうが、ヴァイナルであれライヴ・アクトであれ、僕個人は日本人のやった「レゲエっぽいこと」にほとんど関心の持てないままきてしまった。だから、以下名前の出てくるアーティストについても、記憶・憶測で書いている部分、手元の資料にのみ頼った記述があることをお断りしておく。もっと重要な人、レコード、事件を忘れてはいないだろうか。
レゲエってナウいじゃん、やってみようか、と思い始めた日本のミュージシャンを、大きく二つの傾向に分けるならば、まずリズムの面白さに魅せられた演奏家ライクな一派。そして、ポジティヴなメッセージに感応する社会派、もしくはフォーク系があった。

MUTE BEAT
前者で言えば、既に74年3月号の『ニューミュージック・マガジン』レゲエ特集の時点で、ミカ・バンドの小原礼が寄稿していることが象徴するように、細かいリズムで大きなグルーヴを生み出す16ビートが「発見」された直後であり、またスタジオ・ミュージシャンの世代交代の時期でもあったので、特にリズム・セクションの担当たちがレゲエに注目したのは当然の結果だった。この系統は、後のYMO周辺のミュージシャン、シンガーにつながり、中でも坂本龍一のジャマイカ録音、ダブへの接近にまでエスカレートしたと言えるだろう。
そういう意味では情念の国、日本。後者、メッセージ派の方が数的優位にあったような気がしないでもない。南正人や久保田麻琴のようなアシッドな存在が、逸早くレゲエに反応しただろうし、パンタもレゲエを採り上げた。ジョー山中もニューヨークから戻った後、自然な形でレゲエ・シンガーになっていく。自主制作の枠が取り払われた時、豊田勇造がやりたかったのはジャマイカ録音だった。
元キャロルの内海利勝は、前述シマロンズの来日時にソロ・アルバムのバックをまかせていた。パーカッショニスト、ペッカーのアルバムは、A・パブロやリコを含む、チャンネル・ワンとタフ・ゴングでの制作だったのである。もっとメジャーな芸能界度の高い人たちで言えば、南佳孝や桑名正博、ブレッド&バターもレゲエ・リズムをレパートリーに加え始めた頃だろうし、郷ひろみや西城秀樹がTVでレゲエを歌っても、特別違和感のない時代になりつつあった。
彼らの歌ったレゲエが、そのルーツがフォークだ、ハードロックだ、頭脳警察だ、歌謡曲だからという理由で蔑まれなければならないことなどないのと同じように、逆に言えば、今のレゲエ・ファンが彼らのレコードを探す必要など、ほとんどないだろうということだ。あの「ダンシング・オールナイト」は80年の大ヒットだが、もんた・よしのりが未だ日本最高のレゲエ歌手、という意見もありだろうし、代官山のボンジュール・レコードが組んだJレア・グルーヴのコンピにペッカーが選ばれていれば、なるほどなと思うのだ。ここまでがつまり、80年前後までの話である、J・ガイルズ、R・ストーンズ、P・サイモン、E・ジョン、ロギンズ&メッシーナetc.
によるロック界からのレゲエの解釈も、ずいぶんまともになっていた。
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ニューヨークやロンドンよりも少し遅れたが、70年代末からはパンクっぽいスタンスの日本のロック・グループがいくつか登場し、80年代になってニュー・ウェイヴの名の下にそれらが整理統合される頃には、もはや海外と日本のロックをめぐる状況に、タイムラグはほとんど感じられなくなる。モッズ「トゥ・パンクス」、ルースターズ「ロージー」が懐かしいが、彼らは単に、例えばクラッシュやE・コステロの真似をしてレゲエ調に手を染めただけではなかった。
前者は自分たちのレーベルからマイキー・ドレッドのLPを出させたし、後者はすぐにPIL的なダブ手法に近づこうとすらしてみせた。フリクションもリザードもアナーキーも、ある意味では今のグループ以上に、ダブにはまっていたとも言えるだろう。
79年4月、ボブ・マーリー&ウェイラーズ来日公演。80年6月、スペシャルズ来日。83年2月、UB40来日。東京の街中でも、ドレッドヘアがちらほらし始めた頃。ジャマイカに飛んでサンスプラッシュのコンサートを見て帰ってくるような人たちも出てきた。83年の佐川修らは、再結成スカタライツの客席録音のカセットを手土産に、意気揚々と戻ってきたものだ。
その佐川にも手伝ってもらいながら、前にA・パブロの追悼記事でも触れたレココンを、僕は渋谷のブラックホークで続けていた。松平維秋氏は既に外れ、加藤学が仕切った由緒正しいカフェは、パブ・ロック、パンクを経て、レゲエ酒房へと変身する。まだ学生だった山口直樹(後のナーキ)も、じゃがたらに入る前のOTOも、そこで知り合った。その前から仲の良かったトマトスの松竹谷清も、いつもいた気がする。
吉祥寺にはレゲエとニュー・ウェイヴのレコード店、ナッティ・ドレッドが出来て、その店を中心にPJ&クール・ラニングスが生まれている。僕がじゃがたらの7インチ「ラスト・タンゴ・イン・ジュク」を聞いたのも、そこでだった。最初は日本の外盤購入層に総スカンを喰らったジャマイカ盤レコードも、これはこういうものなんだ、と認知されていく。
加藤を助けながらブラックホークで出していた『サウンド・システム』は、加藤がジャパンスプラッシュを立ち上げたタキオンに引き抜かれた形で、『レゲエ・マガジン』と改名し、存続する。ジャパスプは85年の第1回から地方公演を含んでいたこと、「冬の部」があった年を交えて定期的な公演だったことなど、日本にレゲエを定着させた功績は大きい。その85年の日本の出演者がジョー山中、PJ、ミュート・ビートだった。
この時は加藤も、もちろん僕も、外部の人間だったが、後になって、なるべく日本のミュージシャンによるサポートを、と助言を求められた時、僕はトマトスやじゃがたらや、あるいはサンセッツや、つまりモロにレゲエをやっているのではないグループを推し、それはそのまま実行に移されるのだった。じゃがたら、トマトス、ミュート、そしてオーガナイザーだったS・ケンのホット・ボン・ボンズ計4組による大団円「東京ソイ・ソース」も、当時の忘れられないコンサート企画である。
ブラックホークのトイレに貼ってあるポスターを見て、当てズッポでスカ・フレイムスのコンサートに出掛けたのはいつだっただろう。僕がスカやロック・ステディに夢中になりだす頃、ダンスホール・スタイルを発明したレゲエは、大ブレイクを目前にしていた。 (文:山名昇)
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