デタミの『フル・オブ・デタミネーション』が売れに売れている。ただ高津によるライナーノーツが英文なので「分かんねえよ」という苦情が多い。それじゃあ、ファンのリクエストに応えて、本誌が日本語で全文掲載といこうじゃないの。

デタミネイションズ 高津直由

 僕は「方言」というものが大好きなのであるが、特に、日本の東北地方の言葉には何かすごく大きな母の様な、観音菩薩の様なやさしさを感じてしまう。世界各国の言葉は、地球上における方言であると考えている僕には、各国語は優劣嫌悪とは別にまず対等であると思う。対等な異質の共存で、地球上にはある陰陽のバランスが保たれているような気がする。たとえば国と国とで考えれば、対等な異質のものが、異質に拠りながら互いに影響を与えあうというのが本来の国際化といえるのではないだろうか。自国を知り、自国についての自分なりのいい加減でない認識をもつのは、当然の大前提となるはずである。

 ここにデタミネイションズの3枚目に当たるアルバムが完成した。ふと気が付くと結成から10年という年月がたっていた。実生活の上ではメンバー同志、あまり出合う機会がない。あまりというより全くないのであるが、こと「スカ」のこととなると話は別である。今回のアルバムのコンセプトでもある「全開の結束」(フル・オブ・デタミネイション)を観るのである。ライブやレコーディングなどがなければ、メンバー同志、どの様な顔をしていて、どんな楽器を演奏していたかすら思い出せない程、出合う機会がないのであるが、その出合わない時こそが大切な「間」としてデタミネイションズを成長させている。絶妙な「間」こそが結束の裏にあるゆるやかな優しさなのだ。

 ある男は、酒にすぐ酔ってしまうという自分の陰性体質をぼやきながら「ティプシー」という曲を書き、ある夫婦はメキシコに旅行に行き、メキシコシティからアカプルコへ移動する長距離バスから見る乾いた風景を「ゴールドスター」(バスの名前)という曲につめこんでいた。そしてある男は「愛」という言葉に悩まされ、他人を愛せないでいる自分にナヤミ、酒の飲みすぎにより、受信と発信の陰陽バランスをこわし、受信型人間というエゴイストな自分を「イン・ザ・シェード」という曲にバクロしていた。外国語に翻訳しにくい日本語のひとつに「間」というのがあるが、これは「実体」ではなく、時間と空間にまたがる四次元の概念としておく。漢字の「間」とは「ひそやかに」という意味があるのだが、この「間」というものに日本人は、実に多彩な意味をもたせた。

 邦楽の「間」は単なる休止符ではない。落語における「間」、剣道の「間合」など、「間」は極めて大切なポイントとして存在する。肝心な所でぬけていることを「間抜」といい、拍子の抜けた状態を意味するものだ。この「間」というほどよいころ合いにより今回のデタミネイションズのアルバムは完成されたのだ。

 そしてもうひとつ、ジャケットについてであるが、僕は以前より古代文字に興味があり、今回中国の古代文字である「金文」を使わせていただいた。「金文」とは青銅器時代に誕生し、周代に絶頂期を迎えた三千年以上の歴史を持つ中国の古代文字である。本来絵文字や象形文字に近い構成原理に基づく文字であり、古代人の強靱で明朗な思考がじかに伝わって来るといえるのではないかと考えた。

 何と読んでもらっても何を感じてもらってもかまわないのだが、左下は「観」と読み、右上は「音」と読む。古来より東洋には「観音菩薩」という「音を観る神様」が存在していた。「音を聞く」のではなく、「音を観る」のだ。

 その様な意味も含めて「金文」をジャケットに、そしてこの二文字を使ってみた。僕をはじめデタミネイションズのメンバーはダレよりも「スカ」を観ている。ジャマイカの文化のひとつである、「スカ」という音の中にある「間合」が何かしら東洋の「粋」という無言の時間と共通している様な気がしてならない。

 エラそうな言い方かもしれないが、今回このアルバムをプロデュースしていただいた石井氏を見ていて、「粋」を感じたのは僕だけでなくデタミネイションズのメンバー全員一致の感じ方であった。とても楽しい時を過ごせたし、石井氏の「粋」なハカライにより、またデタミネイションズの「結束」がパワーアップした気がした。ジャマイカのスカという音楽と「粋」な人とのめぐりあわせにより、最高のデタミネイションズらしい「小粋」なスカが出来上がったのではないかと自負するところである。                

 デタミネーションズ、初の東京単独ライヴでオープニングDJを務めてくれた、こだま和文とリトル・テンポの土生剛両氏からメッセージ。

●こだま和文

 昔、中国のとある村に、僧侶や詩人達が集まって漢詩の会を開く寺があった。ある時、ひとりの名もない通りすがりの男が、その寺にふらりと立ち寄った。男は「あなたがたの書いた詩はくだらない」と吐き捨てた。集まっていた僧侶や詩人達は怒り「そんなことを言うのなら、おまえが書いてみろ」と男に迫った。男はその場で壮大な漢詩を一気に書き上げ、立ち去った。寺には今もその男の漢詩が刻まれているという。

 デタミネーションズ(以下デタミ)に因んで、なぜこんなパクリ話を思い出したのかわからないが、たぶんそれは、先日観た、原宿アストロホールでのデタミのライブにおけるヴォーカル高津直由の凛としてマイクに向かう姿のせいだろう。一言で言えば″無敵″ということだ。僕が思う無敵というのは誰よりも強いという意味ではない。むしろ、強いとか弱いとか、偉いとか偉くないとかそんな事とは無関係に凛として立てば敵をつくらないという意味だ。

僕の悪友でありA&Rの薮下晃正はデタミの新譜『full of determi-nation』を買ってきてすぐに一言「とにかくシャレてるんだよ!」と興奮していた。内容のいろんな良さを語るにはあまりにもぬけの良すぎる一言だった。薮下の言う「シャレている」というのは高津直由の言う「粋」と同意であろう。
 僕の周りでいま、″シャレている″と使う場合、そこにはいろんな良さを感じて高まる気持ちを表現するのが大変で、逆に一言でさらりと言ってのける感があるのを分っていただけるだろうか。

 デタミは、今度のアルバムで大きくなった。確かにシャレているし、ルーディーだし、スカな連中だ。でももうそういうことだけじゃないところにデタミは来ている。例えばそれはスカタライツよりも、ドン・ドラモンドのスピリットに近く、スカ以上にアフリカン・ビートを感じさせるということだ。高津の曲「In The Shade」での演奏はシャレたノイズサンプリングと相まってジャマイカン・ファンクネスな感じさえしてくるのだ。

 アストロホールでのライブの時、僕のつたないDJでデタミがスタンバイすることになったのだが、スカタライツの「ファー・イースト」からあえてつないでジャンゴラインハルトの「マイナー・スイング」を最後のディスクにしたのは、デタミに″ジプシー感覚″を感じはじめたからだ。大阪とか日本のとかジャマイカのということではくくれない、救われるべき
人々のためにあるスピリット・マインドを感じさせるということだ。ECの言う″SKAを越えたSKA BAND″という意味もそのあたりにあるのかもしれない。

●土生 "Tico" 剛(リトル・テンポ)

 デタミネーションズの音楽には毒得なニオイがある。そのニオイはいつもオレをスカッ!っとさせてくれるのです。