1999年10月号  


Dennis Brown

 Greetings Friends
●レゲエ・ミュージックにとって今は実に悲しい時期である。ここのところ我々が愛する音楽のファミリーの訃報を耳にしない週はない。6/30〜7/1の夜に呼吸困難によりデニス・ブラウンがこの世を去った事は、我々に、そして以前から彼が病をわずらっている事を知っていた人にも大きなショックだった。デニスはパイオニアであり、レゲエ・ソルジャーであり、ギラギラとしたショウ・ビジネスの世界で育ったにもかかわらず、謙虚で品が良く、その音楽同様、皆から愛される男であった。Byron Lee & The DragonariesとThe Falconsの若手シンガーとしてスタートを切った頃から、周囲は彼の早熟で、かつ恵まれた才能を認めずにはいられなかった。デニスの最初の2枚のアルバム『No Man Is An Island』と『If I Follow My Heart』はCoxone DoddのStudio Oneレーベルからリリースされた。まだ少年であった彼がAlton Ellis、Ken Boothe、Horace Andy、Carlton Manning、The Heptones、Larry Marshallなどの著名人達と共に仕事をしながら彼らから受けた教育は、彼がその短すぎる一生を終えるまで、ずっと彼を支え続けてきたと言えるであろう。
 Derrick HarriottやNiney The Observerとのヒットやアルバムのリリースの後、デニスは本格的なラスタの領域に身を移し、初めてプロデューサー、Joe Gibbsと正式にアルバム『Visions』を制作。輝かしく画期的なこのアルバムに引き続き、Nineyによるデニス・ブラウンプロジェクト第2弾、これまた素晴らしいアルバム『Wolf And Leopards』がリリースされた。Marleyが音楽の "Roots" を捨て、成功と名声を追い求めていると評価され始める中、デニスはエスニック・コミュニティーから70sの本当のスターとしての期待を受ける。その後の『Joseph's Coat Of Many Colows』と『Words Of Wisdom』の2枚のアルバムは(特に後者にフィーチャーされているデニスの初期時代の作品「Money In My Pocket」のリメイク・ヴァージョンはUKポップ・チャートにチャート・インを果たした)Dennisのレゲエ・スーパースターとしての宿命を決定づけた。
 70年代後半になると、デニスは彼自身のレーベル "D.E.B."(Dennis Emanuel Brown)を設立。Junior Delgado、Black Uhuruの作品や、『Wolf And Leopard』のUKオリジナル盤など数々の名作を自らの権利でリリースした。後にこのレーベルをたたむが、80年代半ばに彼の妻の名をとり "Yvonne's Special" という名前で再びレーベルを起こした。メジャー・レーベル、A&Mからのアルバム『Love Has Found It's Way』と『The Prophet Rides Again』は、どちらかと言えば一般受けを意識した作品であるが、おとずれたばかりの国、エチオピアに対するデニスの多大な興味を反映した素晴らしく文化的なリリックは、彼の新たなる成長と知識を我々に知らしめた。この情熱が85年にDennisをBritish Reggae Artistsとして飢餓救済運動についての「Let's Make Africa Green Again」のレコーディングに導いた。
 A&Mがデニスを手離すと、彼はより一層思想を豊かにしたようで、ルーツ・ファンの元へ本当の意味での復帰を果たす。長年のBredrenであるGregory Isaacsと共に、Gussie Clarkeとの実にスリリングな作品の制作に始まり、デニスは自身のプロデュース及び他のプロデューサーを通じてヒットを飛ばし続けた。同時にステージ・ショウで人がうらやむ程の名声を受け、常にトップの座をキープしていたと言える。
 デニスがいかに皆のリスペクトを受けていたか、どれだけインスピレーションがあったかは、George Nooks、Frankie Paul、Richie Stephens、Lucianoを始めとするこのCrown Prince Of Reggaに恩義を感じている様々な世代のシンガー達が語っている。
 90年代に入ると残念ながらデニスのレコーディング・アーティストとしてのインパクトは弱くなっていく。呼ばれれば誰彼かまわずレコーディングを引き受けた事と、明らかに声の質が落ち、黄金時代の自信満々で豊かな声がめったに聞けなくなった事が原因であろう。
 後年のデニスについては様々な噂が飛び交っており、そのほとんどが口にするのもイヤな下世話なものである。しかし何を言われようとデニス・ブラウンは本当に素晴らしいアーティストであったし、愛を信じる親切で気さくな人間であった。私にとって、そしてもちろん皆にとっても彼を失った事はさみしい限りであるが、彼は我々の心の中で生き続けるであろう。
●デニス・ブラウンがまだ生きていた頃から開始されていたデニスのチューン54曲を集結させた作品の制作は現在も進行中。デニスのいとこにあたるRadsが数ヶ月間をかけて編集に取り掛かっていて、ヒット曲はもちろん、未発表曲も収録されるとの事。Soon Come!
●Brixtonにあるショップ、Superstoneの広告にデニス・ブラウンのリバイバル45sが30枚、アルバムとCD50枚のリストが掲載された。自分のコレクションに欠けているものを確かめるには、44-0171-737-7762までファックスで問い合わせを。
●デニスと同じ様な伝説を残したとは言えないが、誰かの息子であった事にかわりはないプロデューサー、Henry "Jonjo" Lawesが6月14日の午後、一時的に滞在していた北西ロンドン、Harlesdenの自宅前で射殺された。ジャマイカの政治家である事を公言していたLawesは明らかに80年代初期を代表するプロデューサーでもあった。Barrington Levy、Frankie Paul、Wailing Souls、Yellowman等、Lawesが手がけたアーティストは数知れず、彼一人が″ダンスホール″を背負っていたと言っても過言ではないであろう。しかし彼の人生が狂いだしたのは85年にニューヨークへ渡った事に始まる。不法滞在を続け、後に銃、麻薬で逮捕、Rickers Island刑務所で6年余りを過ごす。釈放後まもなくジャマイカに戻り、数名のアーティストのプロデュース作業を再開したが、以前の勢いは失ってしまっていた。この時期にリリースされた中ではCocoa Teaのアルバム『Kingston Hot』が健闘するも、他が同じ様に売れる事はなかった。ここUKに住み始めた当初から、彼がハード・ドラッグやギャング殺人等に関わりを持っていたという噂は常について回っていたものの、彼の死はやはりショックである。彼がレゲエ界で名声を受けるに値するのと同じく、彼の一生の終え方も彼の人生の生き方に値するのだろう。
●ドイツのGrover Recordsから又々新しいCDが私のもとに送られてきた。うち1枚はスカ・ファン及び昔の映画、テレビのサウンド・トラック・ファンにとっては堪らない作品である。The Butlersによる『Wanja's Choice』は「Lost In Space」やスタートレックの「Mission Impossible」と.「Thunderbau」等をばっちりスカ・テイストに仕上げていて、誰に聞かせても好評だった。このアルバムやGroverの他のニュー・リリースに関する問い合わせは、Grover, PO BOX 3072, 48016 Munster, Germanyまで。
●Levi Rootsの新レーベル、Sound Boxは要チェックである。新しくリリースされた3枚は、Jackie Mittoの "Hot Milk" のリディムを使用、とにかく凄いのである。まずはLivi自身によるラスタ称賛チューン「Rasta Jubilee」、Earl 16の「Freedom Train」、そしてDJ Starkey
Bantonの「Ancient Spirit」。必携の3枚である。
●またもや噂話。UKではBuju Bantonが撃たれたとの噂が飛び交っているが、嘘である。またToots & The Maytalsのベテラン・シンガー、Toots Hibbertが死んだ、との噂も…。これも嘘である。
 来年はもっとマシなニュースを届けられる事を願いつつ…又次号。
(訳/有賀由紀子)